下賤屋の潔癖 煌びやかなビル街は内装まで華やかだったけれど、大概便所にまでは気を遣ってなどいないものだ。ウォシュレットの付いていない寒々しい個室にDJを押し込んで、外から見えないように立ち塞がる。磨りガラス戸の向こうではネオンライトと喧騒と欲望が渦巻いて、それが一層この便所の粗末なつくりを際立たせていた。剝き出しのコンクリートにはみ出た漆喰。水道管が剝き出しの手洗い場。DJが背後で苦し気に呻いた。便器に顔を突っ込んでいる色男を、見たくないと思うのは、別にこの男を憐れんでのことではない。
「DJ、大丈夫~?」
「けほ、ん、だいじょぶそう、かな」
DJは少し舌足らずに言った。レバーを引いて水を流すと、吐瀉物が渦に飲まれて消えていく。胡乱な目をしたDJは、ペーパーを巻き取って座面と蓋をおざなりに拭き、もう一度水を流す。首の後ろと両脇のあたりに、ぞわぞわと怖気が走った。鼻孔が少しだけ饐えた臭いを嗅いで、咄嗟に息を止める。水道で口を濯いでいたDJは、こちらを向くと、土気色をした顔で笑った。
「アハ、ビリーが吐いたみたい。ひっどい顔色だよ」
「それはこっちの台詞……って、もう平気なの?」
「平気じゃなさそうな人の顔見たら平気になっちゃったよ。ほら、早く戻ろ」
ここに来た理由の張本人がそう言ってくれるなら、もう留まる理由はない。取り繕うこともできずに、押し扉を靴底で開いた。
戻ったフロアはミラーボールに反射する光に照らされて、灰一色の風景に慣れた目を容赦なく刺す。革張りのソファで心配そうにこちらを見る女の、唇の赤さが妙に目を引いた。笑い声、怒鳴り声、足音、キスの音、自主規制。この空間の音はどこか他人事のように冷たく、俺を一歩冷静にさせてくれる。大丈夫だと言いながら隣でまだふらふらしているDJの、その腕を肩に引き寄せた。
「ゴメン、この人ダメなんだ、アルコール。だから今日はもうおしまいで、ネ?」
えぇ~、と猫撫で声がDJに向いている。DJは弱々しい目を俺の方に向けた。女の声はどこか遠くに聴こえるのに、DJの濡れた目線は灼けるようだった。彼女は少し俯いて立ち上がり、豊満な乳房をわざとらしく揺らしながらDJの頬を突く。それから、俺の唇の横にキスを落とした。ぞわっと鳥肌が立つ。俺はそそくさとテーブルを後にして、DJをレジスターに差向けながら、そっと掌に爪を立てていた。
俺の便利屋稼業やDJの人付き合いの関係で、俺達はたまにそういう店に出向く。今日は、三度目くらいの店だった。ちょっと下品なその店は現実離れしていて、ばいたっぽい金髪の女もそうだった。でっぷり太った親父が他の女とポーカーをしている隣で、DJと俺と、その女と、初めて見る女が座った。厚化粧はのっぺりしていて、どの女も同じ顔に見えた。それでも前に接待してくれた女は俺たちのことを覚えていて、DJにコークハイボールを持ってきたのだった。多分それは本当のコークハイよりよっぽどハイボールの割合が薄いものと思われたが、それが逆に中途半端で、味の違いに気づかなかったDJはグラスを重ねてしまったのだ。
少しカマをかけたつもりだったんだろう。普通この年の男なら、多少のアルコールには耐えられる身体を持っているはずなのだから。俺が好奇心旺盛にさまざまなカクテルを注文する傍ら、DJは頑なにコークしか頼まなかった。多少は怪訝に思われてもおかしくはない。グラス一杯200ミリリットルのコークが8ドル。その辺のストアで買えば500ミリリットル60セントやそこらで売っているコークだ。言ってしまえばそれは女代で、酒を頼んでいないぶん、DJはより多く女に金を入れている。いいじゃん、それで。でも親密になりつつあると思った彼女は、DJへの興味が湧いてきて、それでコークにアルコールを混ぜてみたりしたんだ。
「お願い、チョット待ってて!」
途中退場の今日は普段よりも大分早いから、まだ健全な店々も開いている。俺はDJをその場に置いて、デパートに駆け込んだ。
少し敷居の高いところなら、バスルームも手入れが行き届いている。花まで飾られているそこで、水道に手を突っ込んだ。首元を這いまわるいやな感覚が消えてくれない。手袋をしたままでハンドソープを無理やりプッシュしていたら、鏡越しの影と目が合った。DJだ。
「わぁッ!」
「ごめん、ビリー」
「いや、ちょっとビックリしただけ、」
「そうじゃなくて」
その声音が多少萎れているのが、ただ酔っているせいじゃないみたいだ。俺は水を止めて、DJを振り向く。何だか殊勝な顔つきをしていて、俺は目をぱちくりとする。
「汚いの苦手なのに、介抱させちゃってほんとごめん。飲み物気付かなかったのもバカだった」
色を失ったままの顔面と、濡れた瞳と、唇と。俺はDJをじっと見た。鳥肌はおさまって、ぞわぞわするのも消えている。
重たい手を持ち上げて、DJの顔を掬い上げる。そのまま引き寄せて、キスをした。DJが目を見開く。俺は唇を一舐めすると、口角を上げた。うん、やっぱりそうだ。俺が汚いと思ったものは、
「DJじゃないから、大丈夫だよ」
手を離すと、手袋から溢れた水のせいで、DJの顎に水が滴った。あ、なんかそれは、ヤダな。DJが濡れるなら吐瀉物であっても彼自身のものがいいと、俺は何となくほの暗い感覚を覚えた。
Fin.