先生と妓女お客を指す言葉の1つで「お粗末様」という言葉がある。稲妻では、料理を振舞った者が使う言葉であるらしいが、海を隔てた璃月で春を売る妓女達は、この言葉を客を揶揄する時に使う。
一つ、妓女を買う時に一番短い時間を選ぶ
一つ、部屋に入ってすぐに、情事を迫る
一つ、事が終わればさっさと帰る
これが、「お粗末様」の条件。あらゆる富が沈着するこの港で、そのような振る舞いをする風情のない者はそうそういない。風情が無いものは、モラをかけて女遊びをするほどの余裕を持たないと相場が決まっている。つまり、道理を知らずにモラをもっていると勘違いしている田舎者か、秒単位で予定を決めている超合理主義だけだ。
妓女を買い部屋に入ったのなら、客は茶や酒、歌や踊りを楽しみ、そうしてから情事を始める。妓女はお客を楽しませ、微笑みあった拍子に肌に触れて床に入り、終わった後はお客の身支度を手伝い、また来て貰えるようにと送り出す。そんな遊び方を知らずに、やることだけをやりにくるお客を妓女同士の談笑で「お粗末様」と呼ぶ。無作法に手が早い男はどこでも嫌われるという話であった。
「お粗末様よりマシじゃない」と笑う姉の言葉に女は更に表情を曇らせた。
「もう、姉様。ちゃんと話を聞いてください」
「聞いているわよ」
女の不満げな声は姉の切った爪と一緒にくず籠に落ちていく。手を開いて爪の形を確認しながら、姉は爪切りを閉まった。
「ご予約は頂いているんでしょう? なら、なんの問題もないわ。どんな事でもモラさえ頂けるならなんなりと。それが妓女ですもの。むしろツイてると思った方がいいんじゃなくて?」
やすりによって削られた爪をふぅ、とひと吹きして姉の爪はまあるい形に整った。お客の肌を傷つけない、けれど、指の形が美しく見てる黄金比。岩王帝君の血肉によって取引される女の体は、どこもかしこも美しくなくてはいけない。店にいる妓女達は皆その誇りを持って仕事をしている。
「ほら、あんたも早く準備なさいな。もういらっしゃる時間でしょう?」
弾かれるように時計を見ると女は忙しなく立ち上がる。姉は美しく整った指をひらひらと蝶のように振り、扉をしめる女に向かって言う。
「頑張ってね。『先生のお気に入り』さん」
そのまま文句を言うか身支度を早く済ませるかを迫られ、一瞬だけ足が止まった。口を開こうとしたが、時間は待ってはくれない。そんな事をしたところで気が晴れる訳でもない。女はそのまま自分の宛てがわれた部屋に急ぎ足で向かった。
往生堂の客卿、鍾離。姿を見たことがなくとも、その名前を知るものは璃月には多くいる。初めて店に来た時、お客を待っていた妓女達はたちまち騒然とした。
「また、来てくださるなんて、嬉しいです」
女の慣れない言葉は、客を喜ばせるために言った言葉だった。しかし、肝心の鍾離はその言葉に首を傾げる。
「予約はしていたのだから、来ることは分かっていただろう」
「そうですけれど、ここにくるお客様は、みんな嘘が上手ですから」
「ふむ。そういうものか」
簾のかかった窓のそばにある椅子に腰掛ける。外から部屋の中が見えないように配慮された簾の隙間から、鍾離は港を眺める。そうしている間に、女は茶の準備を始めた。
「前から思っていたのですが、鍾離先生はお酒は好きではないんですか?」
「そんなことはない。茶と同じぐらい、酒も嗜む。下戸に見えるか?」
「いえ、そんなことは。 でも、大抵のお客様はお酒を嗜まれるので」
「俺も日が落ちてくればそうしていただろうが、まだ昼間だからな」
それをいうなら、昼間から妓女の部屋に足を運ぶことはどうなんだろうと女は疑問に思ったが、口に出せば商売上がったりだ。「そうですね」と微笑みながら本心を隠しつつ、鍾離の前に茶を出す。鍾離は湯呑みに口をつけて、少し息を吐いてから微笑んだ。
「香りが立っているし、味も深く出ていてる。茶の淹れ方がだいぶ上手くなったな」
鍾離の褒め言葉に女は顔を覆った。
「あんまり褒めないでください………」
「何故だ? 上達するのは良い事だろう」
大半の客が酒を飲むにも関わらず、女が何も言わずに鍾離にお茶を出したのは、鍾離がそれを好んでいるからだった。初めて鍾離が女を買った日、酒を出そうとした女に「茶にしてくれ」と鍾離が言った。しかし女は妓女になったばかりで、人にお茶を出すことすら満足にできない小娘だった。鍾離が来るたびに茶を淹れ続け、今では褒められる程度の茶を入れることができるようになった。
「鍾離先生に茶の淹れ方を教わったなんて聞かれたら、怒られてしまいます……」
客に茶の淹れ方を指導される妓女は、璃月のどこを探しても、鍾離の目の前にしかいないだろう。床上手と言うわけでもない上にこの有様で、どうしてこの子は妓女になったのかしら、と皆から疑われるほどの不器用ぶりだった。
「ハハッ。そういう事情があったのなら、悪いことをしたな。すまない」
そんな女の不器用さは客として通う鍾離の前でも明るみなっている。しかし、それに対して鍾離が文句を言ったことはない。怒ることもなく淡々と、丁寧に女にお茶の淹れ方を教え、そうして女は上達していった。その事を女は恥じながら気を取り直すためにこほん、と咳払いをした。
「もうこの暮らしには慣れたか?」
「慣れ、ました」
「嘘はよくないな」
「う、嘘ではありません。お客様も少し増えてきて、なんとか生活できるぐらいのお給金を頂いてますから。でも」
「でも?」
女は顔を伏せた。
「この前、雪梅姉様が鉱石商の旦那様に召し上げられまして」
「ああ、この店で一番の妓女だったか」
「はい。ああいう方を見ると、憧れずにはいられないというか。まあ、雪梅姉様は綺麗ですから、そうなるもの当然という感じではありますけれど」
璃月で女を買うお客は、他の土地では中々出会うことができない富を持った人間達が多いが、対する妓女が抱える人生は、他の土地の娼婦と変わらない。大半が金に困ったか、璃月という港に夢を見て大陸から集まった女達の拠り所か。様々な物が流通するこの港は、女を磨く道具についても事欠かない。女を売り、その金で女を磨き、さらに女を磨く。そうして、璃月にいる富豪の目に留まり、妻や愛妾に召し上げられる妓女は少なくはなかった。
しかし、これは全て、売れている祇女、あるいは、そんな美の研鑽を積んでいる妓女に囲まれようとも、目を引くほど美しい女だけに当てはまることだ。貴重な輝きを放つ鉱石が希少であるように、そのような妓女はほんのひと握り。多くの妓女は、そんな夢を抱きながら、お客をとる。大抵の客は顔で女を選ぶのだから、選ばれない限り、値段で女を選ぶお粗末様の相手をする他ない。
「もし、そんな方が私の前に現れてくれたら、お父様の事も助けてくださるのに、と、どうしても後ろ向きになってしまいます」
「父親は確か、同じ鉱石商だったか」
「はい。昨今の鉱山の閉山に伴って、今も苦しい思いをしている事でしょう」
市場が閉じるにしたがって、生き残るものとそうでないものができる。妓女を買った男は前者であり、女の父は後者である。それが、女がここにいる理由でもあった。それさえなければ、男と女の情を交わすこの場で、客に茶の淹れ方を教わるほどの不器用さを発揮する女が妓女になる理由はなかった。
そこまで喋って女は弾かれたように顔をあげる。他人を羨んでも物事が解決しないことは、妓女になる前から知っている。決意を持ってここに来たのは不器用な女が家族のためにと自分で選んだ道だった。
「けれど、落ち込んでいても仕方ありませんし、お仕事をすると決めて雇ってもらった以上、頑張らないとはじまりまんし」
そこまで話して、女は初めて鍾離が無言でこちらを見ていることに気づいた。怒っている様子もないが、かといって、楽しんでいる様子でもない。
「つ、つまらない話をしてすみません……!」
「ん?」
女が非礼を詫びたことを、頭を下げてから鍾離が気づく。
「ああ、いや。つまらないと思っていたわけではない。そういうこともあるのか、と話に聞き入っていただけだ」
「そ、そうですか……」
富豪に変われる美しい妓女。滅多にない話というわけではない。美しい女は富と同じぐらい存在するのが璃月だ。博識である鍾離がそのことを知らないとは思えなかった。
「……もしかして、雪梅姉様と面識が?」
「いや、会ったことはないな。初めてここに来た時、店主に勧められたことがあったから名前は知っていたが」
他の妓女の勧められた。その事実に女は目眩がした。頭を殴られたような衝撃と言ってもいい。
そもそも、不器用で、妓女としての仕事もままならない女の元に、鍾離が通っているというのは、異常なことだ。本来であれば、人気の妓女をあてがうべきであろう格の高いお客様が、これといった物を持たない女を指名し続けることは周りから見て、可笑しなことであった。故に、裏で妓女は女を「先生のお気に入り」と呼ぶ。そこには揶揄も混じっている。
女の認識も周りの妓女と同じだ。むしろ揶揄されることなど当然だと思っている。女は妓女らしく男を会話で楽しませることもできず、今日もついつい自分の愚痴をこぼし、茶の淹れ方を指導される。鍾離が自分の元に通ってくれている間に、早く一人前になって、鍾離という客を逃さないようにしなければならない。
たとえ、召し上げられなくとも、せめて鍾離にとって離しがたく、そして鍾離を喜ばせるような美しい女に一刻も早くならなければいけないのだ。
「安心しろ」
鍾離の表情はそんな女の緊張とは打って変わって穏やかだった。
「次も必ず来る。ここに来る客はお前の言う通り、真実も嘘も器用に使う者ばかりだろう。それを悪い事だと言うつもりはない。ただ、俺の言葉は信用していい」
不思議と信頼のおける力強さが、その言葉にはあった。こう言った類の言葉こそ、一番信用してはいけない。どんな妓女でも口を揃えてそういうだろう。恋の真似事で人生を狂わされるのは、客も妓女も同じこと。両親に頼ることもできず自分の力で生きていかなければならない女は、男の色香に酔っている余裕はない。
「ありがとう、ございます」
「ああ」
璃月は契約の国だ。それはつまり、契約をしていない事に、強制力はない。こんな口約束が何の役に立つのか。例えそれが、どんなに信用できると思えても。女は意を決して、机の上に乗っている鍾離の手に、そっと手を伸ばす。お客を床に導くにはどうしたらいいか、妓女の姉達に教えを乞い、そしてようやく会得した方法だった。そのまま名前を呼ぶだけで、妓女を買いに来た男はそれがどういう意味だか理解する。
通ってくれるという契約を結びたいわけでない。ただ、証拠が欲しい。この人が私を買い続ける理由、それと同時に、自分が少しは妓女として成長できているという、証拠。床に入ってくれるだけで、女の不安は霧のように晴れるのだから。
せんせい、と、呼ぶ。声は少し震えてしまい、羞恥で次の言葉がでなくなった。鍾離の瞳がじっと女を捉え、緊張で身動きさえ取れなくなる。そうして、どちらも黙ったまま、二人の時間は驚くほど静かに流れた。
「まだだ」
口を開いたのは鍾離だった。
「まだ、その時ではない」
「そう、ですか」
失敗した。また、失敗した。その事実を噛み砕いて胸の底に落とし込んでから、女は慌てて鍾離の手から自らの手を離す。何がいけなかったのだろうか。客の前で女が考えられることはそれだけだった。タイミングがよくなかったのか、もう少し話をしてからにすればよかったのだろうか。反省と後悔がとぐろを巻く胸の内のことなど知らずに、鍾離は先ほどと同じく微笑む。まるで、袖にされた女の恥などなかったかのように。
「お前の話を、もっと聞かせてくれ」
強引で手の早い男は好かれない。
けれど、だからといって、かれこれ通い始めて一ヶ月になるお客が、妓女である自分に情事を一切要求しないという問題が、女の頭を悩ませていた。
手の早い男は好かれない、と言う言葉は、凡人としての生を始めた鍾離の耳にも届いていた。故に岩神は凡人の作法に乗っ取り、無作法がないように注意を払って、事を性急に進めようとしない。余裕がある男こそ魅力的に映るらしいと知った彼は、余裕を持って女に接する。男に商売をする妓女が相手であろうと関係はない。
そもそも、鍾離の記憶にある彼女は、妓女である姿よりも、父の仕事場で無邪気に走り回った少女の姿であったり、父に連れられた会食で友人達と談笑する姿の方が多い。面識はないが、鍾離の記憶力は女の姿を頭から消すことはできない。
そんな彼女が妓女になったと聞いた時、助けてやらなくては、と思っていた。一度贅沢を知った者がそれを手放すのだ。苦しんでいるであろうと、それだけのために店を訪れて、彼女を召し上げるつもりだった。そこで、妓女になると決意し、不器用ながらも己を磨こうとする彼女の姿を見た。
それ以来、彼女をあの店から出してやれずにいる。女を買う場所。女を買ってもいい場所。その場所であれば、鍾離が女の肌に触れることはなんら不自然なことではない。
しかし、事を急いてはならない。余裕のない男は嫌われるのだ。
(今日は少し危なかったが)
ただ、凡人であればその余裕を演出するために一時間程度時間を使うところを、一ヶ月以上使ってしまうところは、岩神として長く生きた彼の惚けてしまった時間感覚の為せる技であった。