凡人の世界ではそれを愛と呼ぶ子供のようだ、という言葉が自分の声で耳に届き、骨董屋の店主は自分が失言をした事に気づいた。
「そんなに若く見えますか?」
微笑みながらに店主に聞いた女は、どう多く見積っても二十代前半、恐らく十代だろう。例えそれが事実であっても不躾にそれを本人に言っていい理由にはならない。現に。店主の言葉に微笑みを浮かべる余裕を見せていても、その言葉尻には隠しきれない棘があった。
「いえいえ、滅相もない。素敵な女性ですよ」
慌てて取り繕う店主の言葉に、どうも、と一瞥して、女は店の奥で花瓶を眺める男の方に向かった。
「先生。買うもの決まりましたか?」
「もう少し待ってくれ。決められたモラで買う物を選ぶのは、あまり経験が無いんだ」
「それ、普通の人では中々有り得ないことだって、私でも分かりますよ」
この男、往生堂の鍾離はこの店に何度か足を運んでいる。しかしながら、自身の財布からモラを取り出すことを店主は見たことは無い。往生堂の者が付き添い、経費として支払いを行っていたが、最近はたまに、鍾離の傍でため息をついている女が付き添うようになった。
しかし、隣に立つ人間が変われど、今日の支払いも同様に、鍾離の財布は出てこず、代わりにこの歳下の女の財布からモラが出てくることになった。残念ながら、鍾離よりも歳下の少女の財布が往生堂の経費のように融通が効くわけもなく、こうして鍾離は買う物を厳選する、という選択を強いられている。
「先生、財布は?」と言う言葉で鍾離が口ごもる姿を店主が目にするのは、これで三度目だ。モラが支払われるなら何であろうと構わないが、往生堂の経費と女の財布と金銭的耐久度は比べるまでもない。鍾離の財布を店主が選べるなら迷うことなく往生堂を選ぶだろう。しかし、先の言葉も決して、女の支払い能力を揶揄して、子供と言った訳では無い。そもそも、年齢で相手を判断するような三流は璃月で商売は出来ない。店主が失言を零したのは女に対してではなく、鍾離に対してだった。
往生堂の鍾離と言えば、姿が知られてなくても璃月ではちょっとした有名人。何でも知っている知識人として名高い。それがまるで買ってもらうお菓子を厳選する子供のようで、そして隣に立つ少女がそんな子供の決断を待つ母親のように見えた。それがあまりにも稀有な光景に思えて、口にしようとも思っていなかった言葉が、思わずぽろりと口から零れたのだった。
父と娘のようだなあ、と言ったのは、万民堂の卯師匠だった。
「卯師匠! 来ましたよ」
万民堂の店先にひょっこりと顔を出す少女の後ろには、悠然とその後を追う鍾離の姿があった。
「約束通りだな。今から作るから待っててくれ」
そう言って卯は厨房で用意をしながら客の声に耳を傾ける。
「食べてもらいたいもの、というのは万民堂の料理の事だったのか」
「はい。今日先生に頼まれたお使いの帰りに万民堂でお昼を食べようと思ったら。新メニューが追加されてることに気づいて。万民堂には珍しく手軽に食べられる甘味
ですっごく美味しいんですよ」
「ということは、お前は今日二回もそれを食べる事になるが、飽きないのか?」
「何度食べても飽きないくらい美味しいんで大丈夫です。それに、先生に早く教えてあげないとと思って卯師匠に頼んで売り切らないようお願いしてたんです」
「俺に?」
「はい、だって先生は伝統ある由緒正しい物も好きだけど、こういう新しいものも好きでしょう?」
「……確かにそうだな」
女の声は、終始弾んでいた。それを聞く鍾離の声は落ち着きを持ちながらもその弾んだ声をしっかりと受け止めている。二人のやりとりを聴きながら、卯は娘でありながら弟子である香菱のことを思い出した。途端に女が黙る。
「どうした?」
「今気づいたんですけど、鍾離先生って甘いものあんまり食べてない……ですよね? もしかして、苦手ですか?」
「そんな事は無い。酒のアテには向かないから、食事の席ではそれほど食べないが、食べられらない訳では無いぞ」
「なんだ、そうだったんですね。お酒かあ……。私ならお酒より甘いものの方がいいですけど、大人はみんなお酒が好きですね」
「人によるがな。酒が飲めてもお前みたいに甘味を好む人はたくさんいるぞ」
「へえ……。まあ、なんにしろ、苦手じゃないなら良かったです。先生、苦手なものでもあまり自己申告してくれないから」
「それはこの前の魚の干物のことを根に持っているのか?」
「いや、えっと……はい。言ってくれればいいのに、とは思いましたけど。そうしたら、夕飯のメニューにしなかったのに」
「お前が食べたいなら、俺の望みだけで却下されるのは不公平だろう」
「いや、お金もらってやってるんですから、雇い主の希望を聞かないのは逆に先生に対して不公平ですよ」
「それは一理あるが……」
「はいはい! 2人共、おまたせしましたよ!」
卯が二人の間に割って入ると、女は目を輝かせて、卯から料理を受け取る。片手で受け取れるそれは、一見、モラミートのような食べ物だった。小麦粉を捏ねて作られた皮は、香菱のこだわりで普通のモラミートを作る時よりも薄く、そして弾力のある生地になるよう工夫を凝らしている。その間に挟まれているのは肉ではなく白い塊だ。
「早く食べてくださいね。溶けるらしいので」
暖かい皮の中にくるまれたそれに、鍾離がかぶりつく。それを見届けてから、女が同じようにかぶりつく。
「美味いな」
「でしょう!?」
女が嬉しそうに微笑む。
「この中身、霧氷花の花蕊で冷却してるらしいんですけど、後は牛乳と砂糖で出来てるんですって。冷たい氷菓と生地の愛称が抜群なんです」
ニコニコと微笑む女の顔は、昼間のそれより輝いていた。職業柄、料理によって綻ぶ顔は有難いことによく見ている。それが料理人の本懐というものだろう。昼間、女が初めて口に含んだ瞬間の驚きと、綻んだ後の顔。その顔よりも、自分が勧めた料理を鍾離が気に入っている様を見ている女の顔は綻んでいた。鍾離の様子を見届けた女がご満悦に料理を頬張る姿を、今度は酷く優しい眼差しで鍾離が見る。
「微笑ましいですねえ」
こんないい娘は、そうそういない。うちの娘の次ぐらいにいい娘だ、二人の姿を見ながら卯はそう思ったのだった。
鍾離が女中を雇ったというのは、璃月港ではそれほど珍しいことでもない。むしろ既に何人も雇ってそうな風格はあるが、その私生活は女中を雇った今でも謎めいている。
「俺には、ただの雇い主と労働者にしか見えないんだけどねえ」
「なんですか不躾に」
タルタリヤの視線は、日陰に座り込み、怪訝そうに自分を見上げる少女の姿だった。
「鍾離先生に御用でしょうか?だとしたらすみません。先生は今買い物中です」
「あれ。だったら一緒にお店に入っていれば良いのに。日差しがきついだろう?」
「鍾離先生が店主と話があるから、待っていてくれと。急用であれば呼びに行きますが」
顔には明らかに呼ぶな、と書いてある。しかしながら、タルタリヤの身分を理解した彼女は、嫌々といった具合に丁寧な言葉で棘を隠す。
「別に急ぎじゃないよ。この後鍾離先生と芝居を見に行く約束をしてたから、迎えに来ただけ。時間がまだあるから用が済むまで待たせてもらおうかな」
少女の隣に、タルタリヤも座る。タルタリヤを気遣うふりをして少女は少しばかり距離をとる。
「良かったら、一緒に見に行く?今からでも俺なら席を用意できると思うよ」
「どうして雇い主とその御友人の会席に、雇われの私なんかが参加するんですか。有難いお誘いですが、遠慮させて頂きます」
「そういう所だよなあ」
「何の話ですか?」
どこからどう見ても、良くも悪くも普通の少女だ。あの鍾離が傍に置く理由が見つからないほど。
「いやね、俺は鍾離先生にはもちろん興味あるけど、それと同じぐらい君にも興味を持ってるんだ」
だからタルタリヤは調べた。どんな経緯があって、この少女が岩神の女中として雇われるようになったのか。
「えぇ…………」
「そんな嫌そうな顔をしないでよ」
「もしかして、私の事聞き回ってたの、あなただったんですか。行く先々でファデュイが私の事調べてるって、心配されたんですよ」
少女はため息をつく。ファデュイと聞けば、その名前をおぞましく感じる人間はこの大陸に少なからず存在する。その団体に素性を調べられていると知って、ため息ひとつで済ませると少女は呆れた目でタルタリヤを見る。
「で、なにか収穫がありましたか?」
「何も。君と鍾離先生が仲がいいって事しか分からなかった。俺は君たちのそういうところ見た事なかったから、新鮮だったけど、結局それだけだったね」
ふうん、と少女が相槌を打つ。
「でもそれって君って俺がいる時、いつも以上に先生に対してかしこまっているって事だよね? 一体どうしてかな?」
少女は樽タリヤを見る。睨むと言っても差し支えない眼光で。
「別に、いつも通りですよ。貴方が人から聞いたほど仲がいいと言うわけではありません」
「そうなの?」
「はい。私はただ、仕事をしてるだけですよ。それに仮に肩の力を抜いていいとしても、貴方がいる前で今日の夕飯の事とか話したら、なんか変な感じになっちゃうでしょう?」
「へ?」
タルタリヤは少女の不審そうな表情を見ながらすぐに合点が入った。彼女はこの街でのファデュイの立ち位置、タルタリヤの身分を正確に理解している。怪しげな団体の幹部である男と、主人である鍾離、そして女中。話題は、夕飯に何を食べるか。そんな構図を想像して、確かにそれは酷く間抜けであることに気づいた。
「なるほど。理解したよ。それにしてもひどいなあ。俺は別にそういう話されても気にしないよ?」
「嫌ですよ。少なくとも、陰で私をコソコソ調べるのような人に、何を食べてるかまで教えたくありません」
「随分な嫌われようだな。俺が鍾離先生に無礼を働くとでも? 困ったことがあればできる限りの力を尽くして助けているっていうのに」
「確かに、モラの面ではお世話になっていますが……。ほらでも、この街でファデュイと聞いて警戒しない人はいませんよ」
「鍾離先生はそんなことないみたいだけど?」
「鍾離先生の感覚を基準にして考えるのはお勧めしません。あの人は良くも悪くも物の捉え方が無機質な人ですから。多くの人は、あの人のように理性的に判断ができません」
少女は鍾離の正体を知らない。鍾離が、かの岩王帝君だと知っていれば、舐められる心配をする必要が無いのだ。正体を知っていれば、それがどんなに気さくに見えたとしても、警戒すべきことがよく分かるのだから。
「私に対して雇われた秘密が何かあると思っているようですが、無駄ですよ。鍾離先生は、あの通りのお方ですから、目に止まれば大抵の人の助力をしようとしてくれます。私は明日食べるものにも困るほどお金が無くて、仕事を探していただけで、たまたま鍾離先生に会った。そして、鍾離先生には私を助ける術があった。それだけのことですよ」
「そんな単純な話かなあ」
「そうですよ。……なんですかその不満そうな顔は。それともなんですか。私が生い先短いとか、監禁されてたとか、そういうわかりやすい不幸でも背負っていれば雇われたことにも納得できましたか?」
岩神の傍にいることを許された少女は、一体どんな特別な力を持った存在なのだろうか。タルタリヤが知りたかったそういう事だったが、それを知ってか知らずか揶揄うように笑ってから少女は立ち上がる。
「私は、特別じゃありません。あなたにとっても、先生にとっても」
ふと、少女が黙る。会話を終わらせたかったのかと思ったが、正面を見ると店から出てきた鍾離がこちらに向かって歩いてきた。
「おかえりなさい」
「ああ、すまない。待たせたな」
「大丈夫です。それより、公子様がお見えです。何でもこの後お芝居を見にいくとか。荷物があるなら私が家に持って帰っておきますよ」
鍾離という人物に対する理解として、近くにいるだけあって、少女は正しく把握している。
けれど、この璃月港に働き口なんて吐いて捨てるほどある。それも鍾離の人脈であれば、容易に優良な仕事を見つけることができるだろう。それにも関わらず、住み込みの女中として雇われたこの少女は、やはりタルタリヤの目から見て、やはり特異な存在に見えた。
「そうだな。持って帰ってくれ。といっても荷物というより、これはお前に宛てた物だがな」
そう言って鍾離は持っていた箱を開ける。驚いているのか、少女は箱を凝視したまま動かない。
「これは……」
箱に入っていたのは、組紐があしらわれた髪飾りだった。装飾の色合いは、少女の髪色によく似合うように選ばれたことがわかる。
「最近の流行りの髪飾りらしい。お前に似合うだろうと思ってな」
おずおずと少女が箱におさまった髪飾りに触れる。後ろ姿しかタルタリヤには見えないが、鍾離の満足そうな顔を見るに、少女の反応が悪くないのだろうということがわかる。
「あ、ありがとうございます……。でもこれ、どうやってつけるんですか」
「さっき付け方を店員から教わった。貸してみろ」
鍾離が髪飾りを手に取って近づき、少女の髪に触れる。一房取り、髪飾りを固定していく。なんとなく、今日が乗ってタルタリヤは正面に回った。少女と目が合い、口を釣り上げると、少女は眉を釣り上げた。少女のそういった顔を見るのはタルタリヤにとっては愉快なものだった。
「うん。これでいい」
鍾離が離れると、少女の頭には一つの花が咲いていた。それを崩さないように少女は手で触れる。
「似合っているな」
「そ、それはよかったです。ありがとうございます」
「気に入ったか?」
「可愛いと思いました。でも、今は見えないので、その、どうついてるのかなって……」
「む」と鍾離が声をあげる。鏡でもあれば確認が出来ただろうが、そのことを失念していたのだろう。その様子を見て少女は慌てて声を上げた。
「で、でも嬉しいです! こんなのもらえると思ってなくてびっくりしちゃって。ありがとうございます。後で付け方、教えてください」
「ああ、帰ったら教えよう」
では、と少女は頭を下げて先に家に帰る。足取りが少しばかり早足なのは、おそらく恥じらいのせいだろう。
鍾離が女性に特別何かを与えることも、珍しくない。何かの礼に花や食事を贈る姿を、タルタリヤも見たことがある。しかし、明らかに前もって彼女のために注文していた髪飾りを贈ることが、果たして。普段のそれと同じ意味を持つのか。
しかし、タルタリヤはこれを見てもう余計な邪推をすることをやめた。こういうことは客観視できる外野の人間が一番事態を正確に判断できる。
(お互い気づいてないって言うなら、教えてあげる義理もないしね)
この手の話に理由は必要ない。愛はどこにでもあるもの。かつての岩神は自分の思ってたより凡人の生活に馴染んでいるようだ。少女の後ろ姿を見送る鍾離の目を見ながら、二人の関係性を何かしらの言葉で当てはめることを、タルタリヤはやめたのだった。