これからもおだやかに 年の変わり目が近づくにつれて、璃月の人々の動きは忙しなくなっていく。新しい年の初め、今年一年の厄落とし、年末安売りに、初売りの準備。新年を迎えるにあたって様々な行事がある璃月だが、その中でももっとも璃月の人々にとって大事なのは、年の瀬を迎えた後にある海灯祭だ。
新たな年を迎え、その年て一番最初の空に浮かぶ満月の日に向けて人々は足早に準備を進める。それ以外の行事は、正直なところ全て二の次なのだ。
そして、そんな忙しない賑わいは夜も続く。その中で、優雅に酒を飲む客卿がいた。
岩王帝君の誕生した日は璃月では『岩王節』と呼ばれている。が、璃月の民は誰一人として、この日を正確に知るものはいない。
昔、璃月の民は岩王帝君に問うた。璃月建国という偉業を成し遂げた帝君の誕生した尊ぶべき日に祭事を行うべきだと。これに対し、岩王帝君はこう答えた。
「必要ない。民の信仰は余すところなく届いている。尊ぶ心があるのなら、これからも契約を守り、璃月の発展の担い手として、一人一人が尽力することを求める」
それ以降、その日付が定まることはなかったが、璃月を含め各地方の学者で岩王節がいつなのか、という見解を持たない者はいない。
「岩王帝君は岩元素を操る魔神である。その体の構成要素は岩元素が大半を占めていると言ってもよい。これは彼のお方が岩元素を巧みに扱い、モラを血肉と読んでいる事からして、岩王帝君における「岩」が彼の肉体を構成する要素である前提から、自然と出た言葉であろう。
ならば、その岩王帝君が生まれるに至っては元素力が不可欠であり、彼が生まれたのは岩昌蝶の生息が確認できる絶雲の間から奥蔵山にかけての何処かであると推測できる」
「それが一体、岩王帝君の生誕日とどのような関係があるというのだ」
「我々が聞きたいのは場所の話ではなく、日付の話だぞ」
根拠を語った学者は、わかりやすくため息をついた。
「人の学説ぐらい最後まで黙って聞いてくれないと困りますぞ。ここは飲み屋でも賭場場でもない。野次は控えていただきたい」
ごほん、と閑話休題の咳払いが一つ。学者は続けた。
「この地域の地脈についてスメールの地脈研究学者のズィヤードの研究結果によると、この地の地脈は、八月から十月の間、通常の測定値より約1.5倍の数値である事が判明した。故にこの時期に地脈が活性化していることは明らかであり、地脈の活発化はその地に眠る元素力を活性化につながる。故に岩王帝君の生誕日はその三ヶ月間に絞られる」
さらに、と学者は続ける。
「その時期には、璃月には月逐い祭が開催される。この祭りの歴史には諸説あるが、この時期に祭りを行う起源の一つに岩王節があったからこそ、岩王帝君は我々に祭りを行うことを許可したのだと思えば辻褄も合う」
「それは少しこじつけではないかな」
学者の男の説明の終わりを待ってから意を唱えたのは、同じく席を囲んでいる女性だった。
「月逐い祭の起源に岩王節があるとされる文献を私は読んだことがない。もし、仮にそんな文献があるのなら話は別だけれど、私は以前月逐い祭の歴史について論文を書いたことがある。その論文を書く際に、三年間かけて月逐い祭の歴史に関する文献に目を通している。もし、そのような文献が本当に存在するのであれば、浅慮で申し訳ないが後学のために教えて欲しいのだが、どうだろう。徐殿」
徐と呼ばれた学者の男は、女性の言葉に口籠った。
「月逐い祭との関連性がないとしても、他の推論もどうかと僕は思いますがね。岩昌蝶が元素に惹かれる昆虫であるとしても、絶雲の間以外の場所にもみられる蝶だ。根拠としては可能性は低い」
「確かにそうだ。しかし、例えば孤雲閣に岩昌蝶が現れるのは、かつて岩王帝君が渦の魔神を封印した際に使った岩槍に含まれる元素力に惹かれの事だ。これは測定をもとに証明されており、皆も知っていることだろう。このように後転的な理由により岩昌蝶が生息するようなった地も存在する」
「そう考えると、絶雲の間は仙人が住む場所。彼の地に仙人が集まるのは、仙人の祖である帝君が生まれたためという関連性はあるように思うが」
「それも推論に過ぎないだろう。大体──」
学者達はそんな議論は今日も珠鈿舫の上で行われている。一度帝君によって祭日とすることが拒否されているため、わかったところでどうにもならない。この議題は、年の瀬に集まり、酒を飲みながら新年を待つ間の語り草としてはうってつけなのだ。酒によって理性が解けた学者達が、生産性のない議題に弁を振るう。忙しなく動く港の人々と違って、この船の上はいつも通り、浮世とは離れた場所で、璃月港の夜の灯りを楽しんでいる。
「実際、どうなんですか?」
鍾離の目の前にいる女は興味を持った質問に反して、目を閉じながら酒を味わう。白熱する学者達の姿を横目に、鍾離は笑った。
「知りたいか?」
「それはもちろん。こんな年の瀬にお食事に誘ってくれるような方の誕生日は、ぜひ知りたいですね」
「今日だ」
「…………はい?」
「今日だ」
学者の話を最初から聞いていたのなら、鍾離が一度その質問を璃月の民からされて濁している事もしかと聞いていたのだろう。今一度、鍾離にその質問をするのは、興味を押し隠すほど気を遣う必要があると女は思っていたようだ。
そんな冷静さを装った女の目は、目をまんまると開かれ、次の瞬間お猪口が乱暴に机に置かれて中の酒が波打つ
「馬鹿あああああああ!!!!!!」
「どうした、急に」
「な〜〜〜〜〜んでもっと早く言ってくれないんですか!! 今日がもう終わるって時に!」
「聞かれなかった」
「聞いても答えなかったんでしょうがだいぶ昔に!! もう!! これじゃ何にもお祝いできないじゃないですか!!」
声を荒げて、席から立ち上がりそうになる女を見ながら、鍾離は女の飲んだ酒の量を思い出していた。確かにその昔、民に聞かれた時は答えなかったが、女に誕生日がいつかと聞かれたのは、今日が初めてだ。
「落ち着け。水を持ってくるよう頼もう」
「いりません!! 酔ってないです!!! 怒り上戸じゃないです!! 正当な怒りです!!」
鍾離は手をあげ水を注文する。女は今度は体の力が抜けたのか、席に突っ伏すような形になった。
「打っても響かない……さすが岩のような御人」
「よせよせ。こんなところで」
顔をあげた女が恨めしそうに鍾離を睨む。そうしている間にテーブルにグラスが置かれた。いらないといったグラスを掴みそのまま水を飲み干す。鍾離は思わず笑った。
「重要ではないと思っていたんだ」
「お誕生日のどこが重要じゃないと?」
じとりと睨みつける目を見ても、鍾離は全く脅威を感じない。それどころか愛おしく思う。
「璃月の民は、岩王帝君の生まれた日に祭事を行うと言った。祭り事とは、その意味を失っても人々の間に習慣として残るものだ。だとすれば、岩王帝君が生まれた日よりも残した方がいいものは璃月には多くある」
璃月という国と、そのに住む人々を守る代償は、璃月に住む多くの人々に知れ渡っている。平和な土地を人々が享受するにあたって、岩王帝君の元に多くの勇士が立ち上がり、血を流し、人々はその恩恵を持って今の安寧を獲得した。
海灯祭は、そんな英雄達へ、守られた人々からへの感謝の印として受け継がれている祭りである。
「俺の誕生日は、この忙しい時期にある。璃月を守った仙人達の感謝とともに年がはじまるというのは、この国の在り方として良い事だと思った。すでに忙しくする人々にこれ以上負担を強いるのは俺の本意ではない」
鍾離はもう一度璃月港の方を見る。海灯祭に向けて、早いものは半年以上前から準備を始める。昔はそのような大掛かりな祭りではなかったが、この祭りがこれほどまでに人々に浸透したことは、鍾離にとって喜ばしいことだった。
「旅人に聞いたことあります………。お年玉と誕生日プレゼントが一緒になるってタイプのやつだこれ……。お祝い事が集まり過ぎて一つに集約されちゃう可哀想な子……」
「お年玉とはなんだ?」
「別の世界の風習だそうです。なんでも、年の初めにお餅を配るとか……?」
「ほう、そんな風習があるのか。面白い」
女はぶつぶつとつぶやく。「やっぱり盛大にお祝いしなきゃ」「今からお店空いてるかな」「でもこの船まだ降りれないし、ご飯ももう食べちゃったし」等々。
「何か買いたいものがあるのか?」
「貴方への贈り物です! 全くもう、他人事なんだから」
何を言っているんだと、再び睨まれる。鍾離は笑った。怒らせてばかりではあるが、自分の事で一喜一憂する女を見ているのはどうしてか愉快になる。
「構わない。誕生日とは産まれたことを祝う日なのだろう? お前が俺を祝ってくれているのは十分伝わった」
「気持ちだけで済ませるわけないでしょうが。せっかくお祝いすべき日に、一緒にいるって言うのに……」
そこでふと、女は言葉をとめた。鍾離は今日が自分の産まれた日である事を知っている。そんな日に、いつもとは違う場所に女とともに赴き、食事と酒を楽しんだ。ここに招待したのは鍾離だ。女中である女一人では珠鈿舫に乗る事はできない。
「あの……どうして」
「ん?」
「どうして今日、この日に、私と食事をしようと思ったんですか?」
誕生日を祝われる、と言う経験は鍾離の人生の中ではそれほど多くない。元々人間の風習だ。彼らが誕生日を祝うのは、今年も生きていたと言う確認と、次の年も生きていて欲しいという願い。刹那的な人の生命とは違い、揺らぐ事ない生命である鍾離には余る願いだった。
「生まれた日が自分にとっての節目であるという自覚はある。だから、その日にお前と過ごし、そして夜を明かしながら新年を迎えることができれば、それ以上のものはないと思った」
璃月港は、鍾離が岩神として最も手をかけて、そしてその努力が大成した都といってもいい。その港に住む人々が灯す街の灯りを見る上で、これ以上最適な場所はない。右手に美酒。左手に女はいなくとも、向かいに将来を誓いたい相手がいれば、それ以上のことはない。
「今日はいい日だな」
潮風が頬を撫でる。遅れて「はい」と返事が聞こえてきた。
「それはどういう表情だ?」
「誘ってくれて嬉しいと、やっぱりお祝いしたかったと、せめてプレゼントぐらい用意したかったを足して三で割った顔です」
「はははっ。忙しないな」
珍妙な顔の女を見ながら鍾離はお猪口を傾ける。本当に良い日であり、いい景色が目の前に広がっている。
「来年は、お祝いしますからね。覚悟しておいてください」
「……もう来年の約束をしてくれるのか?」
「えぇ、そうです。気が早いでもなんでもいってください。来年こそは、鍾離さんの知らないところでお誕生日会計画を立案して、実行します」
気がはやいとは、確かに思った。まだ年も開けていない。来年の今日は、再来年の前日だ。人の時間の感覚ではあっという間とはいかないだろう。
「それは、楽しみだな」
けれど、それは鍾離の胸を躍らせた。鍾離という名と身分を得なければ、祝われる事さえ難しい。凡人であるのなら、凡人の風習に倣うべきだ。
「凡人になってみるものだな」
「凡人はそんなこと言いませんけどね」
「本当に喜んでいるぞ。そんなに怒らないでくれ」
「怒ってませんよ。精一杯お祝いするので覚悟しておいてください」
人の誕生は、多くの場合祝福される。鍾離は自分が生まれた、もとい始まった時のことを覚えている。誰もいない場所で、この地に初めて降り立った時、鍾離は間違いなく一人きりだった。そこから国を作り、多くの者と交流し、多くの別れを経験して、今。神をやめて尚、友人に恵まれ、来年を約束してくれる人に出会えている。
ああ、来年こそは、向かいではなく隣に来てくれるといい。肩を寄せて座り、ともにこの日を過ごしてくれたら、やはり鍾離にはそれ以上はないように思えた。
「期待している」
女は笑う。得意げに、明るく、子供のように。きっと何が怒っても今までにない素晴らしいもてなしになるだろう。笑っていてくれるなら、それだけで十分、心が躍る。
こほん、と女が咳払いを一つ。
「改めまして、お誕生日おめでとうございます。鍾離先生」