一緒に寝ようと誘われた夢主が当日怒られる話 岩王帝君が生きた名残が残る璃月の地は、小高い丘や、常人では登れないような崖が多く存在する。それらの大地から太陽が登ってやまない時間にある言葉が発せられた。
「一週間後、お前と床を共にしたいと思うんだが、いいだろうか」
女の理解は朝の陽気と同じく起きたばかりである。確かに、男と女の寝室は別な事は思い出すまでもない。
「……模様替えの話ですか?」
「何故そうなる」
夫婦となって日が浅い二人ではあったが、以前から女は鍾離の家で女中として働いていた。関係性が変わっても、日常に目新しい変化はない。変化がない故に、当たり前のように寝室は別だった。しかし、磐石を尊ぶ璃月であっても、これほどまでに変化がないことは、少し問題なのかもしれない。
夫婦ともなれば寝室が一つというのも、珍しい話ではない。寝室という名の自室に近い女の部屋が無くなることを理解し、片付けや家具の移動にかかる時間を計算し始めたのだが、どうやら言いたいのとは違うらしい。
「俺達は、晴れて夫婦となった。ともなれば、共寝をすることも何ら不自然な事ではないだろう」
鍾離の主張は、女の中にあった認識を酷く現実的なものにした。寝室が一つになるということは、寝台も一つになるということだ。部屋が一緒になる、という意味が鮮明になる。
「た、確かに……」
「また何が違う勘違いをしているな」
「そんなことありません。意味わかってますよ? 二人で寝るとなるとベッドの新調が必要かもしれないと思っていただけで」
眉ひとつ動かなかったが、鍾離の表情が芳しくないこと充分にわかった。また何か間違ったことを言ったのただろうか、と女は考えを巡らせたが、一緒に眠るという事が妙に生々しくなってしまったため、どうも集中できない。床で休む時は最も無防備な状態だ。その状態を好きな人に見られる、というのは、大変気恥しい。けれど、望まれるのであれば、応えてあげたいと思う。
「新調は必要ない。家具の移動も不要だ。今使っているもので充分事足りるからな。お前は一週間後、俺の寝室を訪れてくれるだけでいい」
「……? その日だけでいいんですか?」
「……その日以外も共に寝てくれるのか?」
「え、ええ。夫婦ですし」
そうか、と鍾離が口元を抑える。しばらく女が眺めていると、一つ咳払いをして、鍾離が佇まいを正す。
「では、一週間後」
「え、ええ。分かりました」
そう言って、鍾離は家の扉を明け、外へと出ていった。何ら不思議なことは無い、今日も仕事か、はたまた璃月の散策か、何にせよ璃月の勤め人と同じように鍾離はいつも朝早くに家を出る。朝餉の片付けを終え、家の事を一通り行ってから、女も女中であった頃と同じように、鍾離からの頼まれ事をこなす予定だ。
いつも通りの朝だった。いつもには無い会話を除けば。そこで気づく。結局、何が言いたいのか詳細が分からないままだということに。
床を共にする、というのは寝室を合体するという意味ではないらしい。鍾離はただ一週間後に寝室に来ればいいとだけいったが、だとすれば一週間前にわざわざ告知をする意味が分からない。来るだけでよく、そばで眠るだけでいいのなら、当日に言えば済む。夜になって湯浴みが終わった後であっても差支えがない。
ならば、何故わざわざ一週間という猶予が与えられているのか。それだけの時間が与えられているのであれば、当然、それまでにしなくてはいけない事も存在するはずだ。でも、一体何を? わかったと言った手前、聞くに聞けない状況に自らを追い込んだ女は、テーブルに並んだ皿を片付ける手を止めてまでして考えた。結局答えはでなかった。
「新手の拷問だよ」と後に公子 タルタリヤは語る。
「どうしてそれ俺に聞いたの……?」
「同じような成人男性で、話す頻度が多い人が貴方しかいなかったものでして。ちょうど先生のお使いで会うしと思って」
鍾離がどのような意図をもって会話をしたのか、同じ男性であるタルタリヤに意見を求めたという次第だろう。年頃の少女達が好みそうな話題の中に場違いにもぶち込まれたタルタリヤは頭を抱えたくなった。本来であれば、岩神とその伴侶の事について、いつか使える情報があればと、積極的に交流していきたいと思っているが、今回は、積極的の意味が通常の濃度の二倍暗いある勢いの話を持ちかけられたため、呆れを通り越して心配になってくる有様だった。
「君に友達が少ないってことはわかったよ」
「私にはわかりません。貴方に馬鹿にされたということ以外は」
これが当事者じゃなければ、きっと笑い転げていた所だろう。かの岩神の心を射止めた女に、数千年間対人関係を築いて生きてきた男のアプローチが全く伝わってない、だなんて。床に転がって笑い倒したかったと思う、切実に。しかし、建設的な意見を求められている以上、そういう訳にもいかない。
「ハア…………。で、なんだっけ?」
「だから! 男女が共寝をする時に用意すべきものとはなんですかと、聞いてるんです」
最後の足掻きとして、質問を無かったことに出来ないということが分かると、タルタリヤは腹を括った。少しの失言が、タルタリヤを岩で出来た馬の足逃げられて死ぬ邪魔者へと変える。質問者は微塵もわかっていないようだが、返答にもそれなりの覚悟が必要なのだ。
「ハイハイわかったよ。ともかく、そんな大声で聞かない方がいいよ? 夫婦間の問題なんだから。誰にでも相談できるような事じゃないからわざわざ俺を頼ってくれたんでしょ?」
「うっ……それはそうですが」
女が勢いを沈めたところで、さてどうしようかとタルタリヤは思案する。
「最初に言っとくんだけど、俺から話を聞いたって、鍾離先生には絶対言わないでよね」
「何故ですか?」
「俺まで怒られたら困るじゃないか。鍾離先生とは今後も仲良くやっていきたいんだから」
「……それは怒られるようなことをするのが悪いのでは?」
本気で追い返そうかと思った。一瞬だけ。「というか、私が怒られるのは確定なんですか……?」と言いながら青ざめる女を見て、その考えを打ち消し、「まずさあ」と話を始めた。
「そんなに息巻いてるとこ悪いけど、何かしろって言われてる訳じゃないんでしょ? なら別に普通にしてればいいと思うけどなあ」
「何もしなくていいならわざわざ一週間前に了承を得ようとするのはおかしくないですか?」
何も無くても言ってそう、というのがタルタリヤの所感だか言わないことにした。何も考えずにいきなりタルタリヤに意見を求めたわけではないのだろう。真偽はどうあれ、何かしらの説得力のある回答をしないと女が引き下がらないことはよくわかった。
「……ひとまず、鍾離先生がどういう事を言いたいのか俺にはわからないけど、一般的な回答をするね?」
とは言え、覚悟を決めて、それが上手くいったとしても、タルタリヤにとってはあまり旨味のない話だ。しかし、不利と有利は紙一重。きちんと活かすことが出来ればこれは一つ貸しになる。女にとっても、鍾離にとっても。タルタリヤが助言しようとすると、女がメモをとる様子をを見せたので、貸しの桁が違うんじゃない、と言いたくなった気はするが、目を瞑ることにした。
「第一に、愛を伝え合うこと。君達はもう家族になったんだから、愛情表現は大事だよ」
「寝るのに喋るんですか?」
「ベッドに入って3秒で寝るわけじゃないだろ? 寝転がりながら他愛ないことを喋るのも乙なもんだよ」
結果として、寝るという言葉ついての仔細を教える勇気はタルタリヤにはなかった。当人達で何とかしてくれ、そんな死地に自分から出向くほどタルタリヤは馬鹿ではない。早く寝なさい、と叱られないだろうか、と女は見当違いな心配をしたが、タルタリヤは聞かないふりをした。
「第二に、正直に気持ちを伝え合うこと。これも一つ目と似てるけど、無理をする必要はないからね。体に障るようなことがあれば正直に言う。女性は特にデリケートだし、俺たちが察してあげられるのは限度があるから」
「……………………待って。何の話です?」
「最後に、この事についてもう一度、今度は大人の女性に意見を求めること。こればっかりは、俺からアドバイスできることじゃないからね」
「聞いてます?」
聞いてない。ので、返事はしない。「頑張ってね」と手を振り、話が通じないと判断した女は釈然としない面持ちで礼を言い、タルタリヤの元を後にした。
タルタリヤの助言によって、大人の女性への相談は万民堂への道すがらばったり出会った北斗に白羽の矢が立った。海の上では陸の料理が恋しくなったりすることもあるが、これ程寄港しなければ良かったと思う事もない。
「何でアタシなんだ……?」
「大人の女性に相談しろと言われたので」
そう言われれば、困っている女を見捨てる北斗ではない。
「寝巻きでも新調するか……。店なら知ってるが……いや、でもなあ、あの往生堂の先生の事だから、アタシ好みじゃない格式だか、しきたりやら何やらがあるかもしれないし」
「一緒に寝るだけなのにそんなことが?」
「ともかく、アタシよりも適任がいる」
女は痛感した。この話を人に持ちかけると、どうやら皆こちらの話を聞いてくれなくなる傾向にあるらしい。普段はこんなことないのに、と首を傾げている間に、玉京台まで連れてこられ、目の前に天権凝光が姿を表したのだから、首は元の位置に戻っては来れなかった。
「どうして、こんな事に…………。私はただ、何の準備がいるか聞きたかっただけなのに……」
郡玉閣が無くなって以降、住まいを移しているらしい玉京台にある屋敷の一室で待たされながら、北斗と凝光の話が終わるのを待っていた女の心境は、刑を待つ罪人の心境に近い。一体何をやらかしてしまえば、璃月で最も富と名声を持つ彼女の前に突き出されるというのだろう。
「初めまして。北斗から話は聞いたわ」
女の相談したい内容は、二言程度で終わる話のはずなのに、凝光が北斗と共に出てきたのは、女が待たされてから十分程だった後だった。
「は、初めまして。まさか凝光様にお会い出来るとは思わなくて、格好も整えずすみません」
「気にする事はない。コイツと会うのにそんな気遣いは無用だよ」
「そうね。そんな気遣いをするべきなのは、璃月の中ではこの人だけだから、気にする必要はないわ」
二人がそんな軽口を言い合ったのは、緊張をしている女への気遣いが含まれていたが、璃月における敵に回しては行けない二大巨頭に挟まれて、そんな二人の機微に気づけるわけもない。こんなところに連れてこられた意味もよく分かっていないのだ。
「用意するものを探していると聞いたわ。必要であれば、璃月の市場にある限りのものを集めましょう。それと、貴方自身のケアも大切ね。秘書達には、私が毎日やっている体の手入れを貴方にも手配するように言っておくから、これから毎日ここに来て頂戴」
「…………え」
何やらおかしいと思ったが、必要以上に話が大事になっている。何がどうしてこんな世界一下手くそな伝言ゲームみたいな状態になってしまったのか。思わず北斗を見たが、北斗は快活に微笑むだけなので、北斗に話した時点で何かしらの食い違いが発生してる事になる。頭を抱えたくなった。
「あ、あの……凝光様。お気遣いは有難いんですけど、お心遣いは感謝しますが失礼ながらそこまでしてもらう必要は無いかと」
「遠慮することはないわ。前から貴方と貴方の旦那様とは、縁があればお会いしたいと思っていたのよ。今回の件は、私にとってもとてもいい知らせだったわ」
「ただ寝るだけなんですけど……」
これがただの下手くそ伝言ゲームでは無いとすれば、自分が添い遂げると契約した鍾離は只者では無いということになってしまう。ただ眠るだけの事が、天権凝光にとっていい知らせになるなんて人物はこの世に存在しないはずだ。故に何とか誤解を解かなくてはいけない。そう思い口を開いた。
「貴方の気持ちは分からなくないけれど、やって困る事でもないでしょう? この件に関しての対価は、そこの船長さんから貰うことにしているから、貴方は何も気にしないでいいわ。それなら安心できるかしら」
思わず北斗を見る。「大したことじゃないから気にすんな」と北斗が言い、先程と同じく快活ひ微笑む。頭を抱えたくなった笑みだったのに、突然女神のように思えてきた。
「意中の相手に美しく見られたいというのは、恋をする者全ての本懐でしょう。後は貴方が頷くだけ。そうすればその願いは叶うけれど、願いを叶えるかどうかはは貴方に委ねるわ」
美しく見られたい。きっと無防備な姿を晒すから、それでも何とか見れる程度には、美しくありたい。その心を見透かされたような気持ちになったが、それでも、その願望に勝てるものは無い。女は深々と頭を下げ、「よろしくお願いします」と言ったのだった。
鍾離が凡人になるにあたって用意した家は、璃月港の少し外れにある小さな一軒家だ。3部屋とリビング、ダイニングを完備した平屋で、庭には畑もある。港に住むことは、多くの璃月人が夢に見ることであるため、その枠を一つ人々から取り上げることを良しとしない結果、この場所に家を整えた。
「おはようございます。鍾離先生」
毎朝思うことは、台所のそばに窓をつけたのは正解だったなということだ。窓から朝日が差し込み、食材が見やすいと女中時代から好評だったこと、朝の光が差し込む台所に立つ女が妻になったという実感が朝から鍾離の心を満たすのだ。
「おはよう」
「今並べますね」
慣れた手つきで食事を配膳する間、嘱託につきそれを待つ。食事を扱う際に、いつもまとめられる髪がひと房落ちそうになっている様をぼんやりと見ていた。
「最近、なにかしているのか?」
「え」
女が振り向き目を見張る。
「以前よりも髪に艶が出ている。肌もきめ細かくなったように思えるが、どうしたのかと思ってな」
「そ、そんなこと思ってても言わないでください……!」
気に障ったらしい。「すまない」の謝罪すると、女は居心地悪そうに視線を逸らした。
「そ、その……共寝をするにあたってどのような準備が必要なのか、色々相談しまして」
「それで……」と尻すぼんでいく言葉を聞きながら鍾離は理解した。自身が乙女の影なる努力を無意識に詳らかにしてしまったことを。鍾離からすれば、数日前までの記憶にある女の姿との差異を指摘しただけだったのだが、それを本人に言わせるのが酷だと言うことは、言わずとも理解出来ることだった。
「すまない、俺の失言だな」
「そこまで謝られるとこちらも申し訳なくなってきますから」
「お前がその様に準備をしてくれていることを、俺は嬉しく思う」
女は少し、頬を赤らめた。約束の時は日が沈めば訪れる。近づくにつれて高揚していた気分を共有出来ているという確信を持つには充分だった。
正直、伴侶になった女がこれほど共寝の準備をするとは、鍾離は思っていなかった。女性故に突然の誘いでは不都合もあるであろうということを考慮して、一週間という期間を設けたに過ぎない。女が了承してくれること以外、特に求めていなかった鍾離は、予想外の事に歓喜していた。
初めて出会った頃は、一人で生活することすらままならない世間を知らない女だった。そんな女を縁あって鍾離が女中として雇った。理由は明快で、女が困っていて、自分が助ける術を持っていたからだ。璃月の民の面倒をこれまで見てきた自分であれば、女一人、世話を焼くのはわけがないだろう、と思っていた。今振り返るとその考えは浅はかだったと言わざるを得ない。
たった一人、されど一人。その人間性と向き合うというのは、鍾離が思っていた以上に苦労があり、その分喜びもあった。同じ屋根の下、交流を密にしていくことで、夫婦になりたいと思えるようになり、今の関係に至る。しかし、夫婦になったといえど、女の人となりは変わらず、竈門の使い方すら満足に知らなかった頃の記憶がいつでも鍾離の頭の中にあるわけで、そんな女が、伴侶との一夜のために、体の手入れを行なっている様子を見ると、歓喜ない方がおかしいというものだ。
浮き足立つ思いを冷静に諫め、鍾離は市場を回った。せめて自分も女に見合う準備をと思い、用事や仕事を早めに済ませたのちに、情事の後に食べれるような果物や茶葉を探した。家に帰り、買ってきた茶葉を水出ししようと準備をしている間に、女が帰宅した。
「どうされました? 台所に立つなんてめずらしい」
「ああ、水出しの茶を淹れようと思ってな。今日の夜は特に喉が渇くだろう」
「あ、ああ……。でしたら、この水差しを使ってください」
「見ない物だな。新調したのか?」
「いえ、新調というより、その、頂き物です」
丁寧な装飾が施された陶器の水差しは、見ただけで価値のある品だと言うことがわかったが、朝の失態を思い出した鍾離は、深く追及はせず、その水差しを使うことにした。
これだけ見ても、伴侶が今日の情事に対して前向きな姿勢を見せていることは明らかだ。だからこそ、夫婦として初めて情を交わす特別な夜に、少しでも良い思いをしてもらわなければいけない。何度でも、と思ってもらえるように。その姿勢は一週間前から垣間見えたが、それは別として、鍾離はその後の日常ををこなしながら頭の中で妻へ配慮する点を考え続けた。
そうして、夜。妻を先に湯浴みに送り出した。上がった後に女性特有の準備があるとしたら、いつものように先に入るのは忍びないと考えたためだ。女は最初遠慮したが、渋々、というか、おずおずといった様子で風呂に向かった。
そうして、鍾離自身も風呂に入り身支度を整え、女が来るのを待った。迎えに行った方がいいかとも考えたが、一週間前に来てくれと頼んだのは鍾離のため、今回は待つことにした。次回があれば、その時は自分から迎えに行こう。待ちきれなかったと白状すれば、きっと許してくれるはずだ。そんなことを考えるほど、浮き足立っていると、扉をノックする音が聞こえた。
「今開けよう」
いつもより若干大股に扉に近づけば、広さを重視しなかった鍾離の寝室はあっという間に扉にたどり着く。早る心を一度扉の前で落ち着かせ、ドアノブに手をかけて開けると、ふわりと、白い波が揺れた。
「お、お待たせしました……」
またもや、鍾離は見たことがない。白い寝巻きの裾が、女が身じろぎをするたびに揺れる。軽そうな布地で作られたそれは、衣装の作りによって高級感があり、胸にあしらわれた刺繍は職人の意匠が容易に見てとれた。
「似合っている」
「ありがとうございます」
入るように促すと、優雅な衣装の動きとは裏腹に遠慮がちに寝室に足を踏み入れた。女が動くたびに品のいい瑠璃百合の香りがする。鍾離は女の手を取り、ベッドまで連れていく。
「あ、水差し、ありがとうございます」
「ああ」
「果物も、食べるんですか?」
「水代わりだ。お前も食べたかったら食べるといい」
ベットに腰掛け寝転がると、女も同じように横になった。滑らかな髪に指を通すと、女は肩をすくめた。
「嫌か?」
「いえ……くすぐったくて」
あえてもう一度指ですくと、もう、と女は少し笑った。硬くなった表情がやっと解れ始めた事に安心しつつ、完全の解れるにはもう少し時間がかかることもわかった。
「今日はどのような事があった? 往生堂の手伝いで買い出しを頼んだと、胡堂主に聞いたが、市場で何か発見などはなかったか」
「鍾離先生」
何か話でもして気を紛らわせようと思ったが、鍾離の話を遮って、女は呼びかける。話を遮られた鍾離はそれに気を悪くすることなく、むしろ話したい事があるなら聞いてやりたいと思い、「どうした」と話を促した。「えっと、その」と女は少し口籠もりつつ、答える。
「好きです」
その言葉は、数えるほどしか聞いた事がない。聞かなくても、女が鍾離を思ってくれていることは明らかなので、特段言葉を必要としたわけではないが、その言葉が、まるで枯渇していた燃料の如く、鍾離の熱をめぐらせる。落ち着かないのか、視線を逸らした顔も含めて、思わず微笑んだ。
「ああ、俺もだ」
鍾離の言葉に女は照れたように笑った。もう少し落ち着ける時間を置いて、と考えていたが、杞憂だった。女はもうとっくに準備ができている。後は鍾離次第だったのだ。そう思い、身を起こして女に覆い被さろうとした瞬間のことだった。
「では、おやすみなさい」
「え」
「え」
思わず声が出た。揺らぐ事ない岩神もこれにはびっくりだ。ここまでされて、自分の可愛い伴侶が、布団をかぶって寝ようとするのだから。
「…………寝ないんですか?」
さらに至極不思議そうに鍾離の顔を眺めるのだから、鍾離は先ほどまで自分がいた空間を見失いつつあった。ここがどこかもわからなくなりそうなところで、一週間前のことを思い出す。
元々、そういうことに疎いだろうと思っていた。きっとここまでの用意は彼女の相談者がよほど優秀だったのだろう。彼女の勘違いを放置したまま、床で起きるであろうことは二人に任せる、といった具合にお膳立てされたこの場所で、鍾離は頭を抱えたくなった。
「いや、少し待て……考える」
「? はい」
一週間前、彼女はわかったと今日を了承した。疎いことがわかっていたが、その日に限らず夜の誘いを彼女からした事に動揺し、きちんと理解したかの確認を怠ったのは鍾離だ。確かに、自分にも非がある。非があるが、それはそうとして、ここまで整った妻の横で何もせずに夜を明かせるほどではない。
「共寝の仔細について、なぜ俺に聞かなかった?」
「うっ……それは」
「いや、いい。原因を問いただしたいわけではない。俺が言いたいのは確認を怠ったお前に対して、知らなかったという言い訳を俺が聞く事がない、ということだ」
自然と声が低くなる。女はピリ、と背筋を伸ばし、顔を硬らせた。怒られた猫の様に急に体に力が入るのは、叱咤を怖がる時の女の癖だった。
「もちろん、俺にも非がある。故に、これ以上お前を追求することはない」
鍾離は体を持ち上げ、今度こそ女の上に覆い被さる。何が起こるかまるでわかっていない女は、鍾離の下で、目を白黒させている。
「今宵は、何よりも優しく扱うと誓う。だからお前も、俺を受け入れてくれ」
意味がわからず、声を発そうとした女の口を先に塞がれる。璃月の山々に浮かぶ月の下で、夫婦が共に過ごす初めての夜の幕開けは、甘く乱暴なものだった。