神のいない白日 小春日和と呼べる様な柔らかな午後の陽射しが事務室に降り注いでいた。光の中をちらちらと舞う埃。窓ガラスが汚れているな、そろそろ拭いておかないと。清水は文書をチェックしながらぼんやりと思う。
「日車さん。明日の新幹線、手配しておきましたから」
「ああ、分かった」
パソコンの画面から目線を外さないまま日車が答えた。そして沈黙。キーボードと時折頁を捲る音だけが響き渡る。張り詰めた空気に耐えられなくなったのか、清水は伸びをして椅子から立ち上がった。
「ちょっとコンビニで何か飲み物買ってきます。何か欲しいものありますか」
日車は少し考えた後、何か甘い物をと言った。珍しい事もあるものだと思いながら清水はただ一言分かりましたと返事し、ショルダーバッグから事務用の財布を取り出した。
「何だこれは」
「ハロウィン限定のかぼちゃフレーバーのカフェラテです。甘そうでしょ」
「毒々しい色だな……」
日車は戸惑いながらカフェラテのカップを受け取った。鮮やかなオレンジ色のパッケージには黒いジャック・オ・ランタンとコウモリのイラストが描かれている。自分で甘い物とリクエストしたのだからこれ以上文句は言えまい。添付のストローを突き刺し一口啜る。コーヒーに混じってかぼちゃのどろりとした食感と甘みが舌に絡む。
「甘い」
「それは良かったです。疲れてる時には糖分ですからね」
りんごジュースのパックを片手に清水が笑う。顔をしかめる日車の額に降りる幾筋の髪は彼の疲労を際立たせている。目元の隈がまた濃くなったみたい、と清水は上司の横顔を盗み見ながら思う。
まあそれも明日の二審でどうにかなるだろう。あの不利な状況から一審無罪を勝ち取った日車の事を清水は信頼していた。というよりも信頼する他なかった。心身を擦り減らして依頼人の為に奔走していた彼は報われるべきだと思う。少なくともあんな誹謗中傷を受けるような謂れなどなかったはずだ。私達は何も恥じ入るような事はしていない。
「日車さん、こないだ言っていた地裁の近くに出来た甘味処、明日カタがついたら行きましょうね。ぱーっと美味しいもの食べましょう」
「もう既に勝ったような口ぶりだな」
「ま、そういう事にしときましょうよ。て言うか私特に今回はめちゃくちゃ頑張ったんですよ⁉︎特別手当もらってもバチは当たらないと思います」
部下の突然の剣幕に日車は苦笑を隠せない。
「世の中の人間が皆清水みたいだったらさぞ平和なんだろうな」
「嫌味ですかそれ」
拗ねて膨れっ面になった清水を宥めるように日車は柔らかく名を呼んだ。
「清水」
「なんでしょう」
「今回の事、感謝する」
「……日車さん熱でもあるんですか?」
やはり柄にもない事を言わなければ良かったと後悔しつつ、どこか擽ったい感情が心を満たしていく。大江にありがとうと言われた事が俺はそんなにも嬉しかったのだろうか。
「感謝するのもされるのも、たまには悪くないと思っただけだ」
清水も同じ事を考えていたのだろう。
「そうですね。たとえ見返りなくやった事だったとしても嬉しいものですよ。どういたしまして」
清水は静かに微笑んだ。どうかこの人が報われますようにと願う。私は都合の良い時にしか神頼みをしない不信心な人間だけれど、そう祈らずにはいられなかった。
「それにしてもどこもかしこもハロウィン一色ですね。特にここ数年で一気に定着した感じです。渋谷とかお祭り騒ぎが凄いですし」
清水の呟きを聞きながら日車は飲み終えたカフェラテの容器を潰す。派手なオレンジと黒色のそれはゴミ箱に投げ入れられ、かさりと乾いた音を立てた。
「まあ地方者には関係ない話だな。だが日本でいうお盆にあたる行事が若者を中心にイベントとして根付いたのは興味深い」
相変わらずおじさんみたいな捉え方をする人だと心の中で思いながら清水は頷く。陽がやや傾いたものの燦々と降る光が室内を満たす。完璧な秋の午後だ。この穏やかな中で微睡んでいられたらどんなに良いだろう。
「神は天にあり 世はすべてこともなし、だな」
窓の外を見遣りながら日車が独りごちる。
「ブラウニングですか」
「知っているのか」
「赤毛のアンが愛読書ですから。これでも私、昔は文学少女だったんですよ」
得意げに答えながら清水はどこか寂しさを覚える。本当に神というものが存在するのなら、彼のしてきた事は。そこまでで考える事を止める。後は神のみぞ知る。逆らいようのない流れに私達は身を任せるしかないのだ。
「明日の仙台、よろしく頼む」
「もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」
そう返事をし、感傷的な考えを振り払うようにデスクに再び向かう。うつむきがちに書類に目を通す日車はいつも通りの姿で少し安心する。
きっと大丈夫。そう言い聞かせながら清水はパソコンのキーボードを叩いた。