ワンドロ【瞳】【寝言】 なんだかとても幸せな心地だ。
目が覚めて、カーヴェは知恵の殿堂で眠っていたことを理解した。机に置かれた本たちが視界に広がる。閉じられた本の上に乗っている見覚えのあるグローブに目を瞬かせた。
予想の通りそこにいたのはアルハイゼンだ。ふわふわとした夢心地の気分で、カーヴェはアルハイゼンの横顔をこっそり見る。そして彼の唇が嬉しそうに笑っているのを見て閉じていた口が開いた。
「あ、」
「起きたか」
カーヴェがいる方ではなく、本棚の方を見ていたアルハイゼンが発した声に気づいて振り返る。
「昨日も朝まで作業をしていたせいだろう。知恵の殿堂で眠るのが学生以外にもいるとは。知見が広がったよ」
「……君ねぇ。寝起きから皮肉ばかり聞かせないでくれ。知恵の殿堂に身分を登録していれば、卒業生だって使用許可があるはずだ。賢者たちもそう言ってる。妙論派の卒業生が知恵の殿堂で調べ物をしていても構わないだろう」
「ああ、構わない。しかし知恵の殿堂の施錠時間は守ってもらおうか」
「えっ」
慌てて起き上がり周囲を見回すと、テーブルに座っている人は誰もおらず、皆急いで本を棚へと片付けているところだった。
「グランドキュレーターに小言を言われるのは面倒だ。さっさと片付けるといい」
そう言ったアルハイゼンの手によって本が重ねられていく。
「俺はあちらに返してくる」
「は? いや、やるって」
声をかけるよりも早く、アルハイゼンは階段を下って中央にある円柱型の本棚へと歩いていってしまった。
「…………」
その後ろ姿に声をかけることもできずに、カーヴェは唇を曲げた。
眠っていた時の幸福な気持ちはすでに散ってしまっている。残っているのは起きてからの記憶。アルハイゼンが誰かを見ながら笑っていたのを見て、なぜだか息が詰まるような感じがあった。
何が思考に引っ掛かっているのか理解できず、モヤモヤだけが心に募っていく。
「はぁっ」
身体の中の空気を入れ替えるように息を吐いて、カーヴェは重たい本を抱えて歩き出した。
アルハイゼンには好きな人がいるのかもしれない。
知恵の殿堂で居眠りをした日の夜。一人きりのベッドの上で、カーヴェは予測を立てていた。
アルハイゼンは感情表現が乏しいと周囲の友人は言うが、そうは思えない。あいつは興味を引く本や論文を見た時、透き通ったような目が幼さを取り戻すことがある。ひらめく直前は瞳孔が広がるという説があるが、まさにそれだろう。
興味のあるものにしか視線を向けない男が、瞳を細め口元を薄く緩めていた。これは重大な事件だ。
一人で悩んでもどうしようもないと、カーヴェは数日間アルハイゼンの様子を伺うことにした。しかし家にいる時は彼の周囲がわからない。積極的に教令院に顔を出したが、カーヴェが見かける時のアルハイゼンは暇なことが多いようで、なぜか近づいてきてカーヴェに話しかけてくる。そのせいで、終ぞ他者を見ている様子を見ることができなかった。
周囲からの観察で恋慕の相手を見つける事を断念したカーヴェは、酒場で久しぶりの酒を口にしていた。その帰り道。坂の下にある家の前で、数人の教令院の学者と話しているアルハイゼンを見つけた。
あいつがシティで学者と話しているなんて珍しいと思ってすぐ。あの中にアルハイゼンの好きな人がいるんじゃないかと思い当たったカーヴェは、足早に近くへと向かう。
気づかれない距離と思っていたにも関わらず、アルハイゼンには見つかっていたらしい。
「俺はこれで」
それだけ言って彼らから遠ざかるアルハイゼンの姿に、カーヴェは不満げな表情のまま帰宅した。もちろん学者たちがいなくなるまで待ってからだ。
「こそこそ様子を伺っているようだが、君の疑問は解消されたのか」
リビングに入ると、グラスを持ったアルハイゼンがキッチンから姿を現した。
「疑問? 気づいていたのか」
「ここ数日の君の奇行を見れば推測は容易だ。知恵の殿堂で眠りこけていたあの日以降、そわそわと落ち着きもない」
「ちょっとさ、アルハイゼン。笑ってみてくれよ」
「は?」
なんの意味があるのかを考えようとしているアルハイゼンの前で腕を組んだカーヴェは、首を傾げる。
「僕が知恵の殿堂で眠っていたあの日、君は何か喜ばしいことでもあったんだろう? 表情に出ていた」
「…………」
そんなことはないという言葉を期待しての言葉だったが、アルハイゼンは珍しく数秒口を閉ざした。それからふと目を細めて、カーヴェをじっと見つめる。真意が掴めず腰に手を当てたカーヴェを見たまま、アルハイゼンはため息をついた。
「愉快といえば愉快なことはあったな」
「へえ。それは……ええと、誰かを見つけたとか?」
「見つけた? 違うが」
「そ、そうなのか」
予想していたのとは違っていたらしい。カーヴェは指を顎に当て、もう一度検証を始めようと思考を巡らせる。勘違いだったのか。誰かを見ていたように思えたが。
「愉快なことの内容は、君が寝言で俺の名前を言っていたからだ」
「え?」
突然の真相に、思わず動きが止まる。
「苦しそうに唸った後に俺の名前を呼んでいた。さぞ愉快な夢だったのだろうと様子を見ていたが、盛り上がりの瞬間に起きたようだな」
「スメール人は夢を見ないだろう? 嘘を言うな」
「嘘? 俺が事実を誤魔化すことに何の意味がある」
アルハイゼンの言い分はもっともだったが、カーヴェは腑に落ちなかった。その表情が滑稽に見えたのか、アルハイゼンは目を細めた。あの時とは違い、その瞳にはカーヴェが映っている。
「スメール人が夢を見るのであれば、俺はあの場で君にどんな夢だったかを問い詰めていただろう」
「たとえ僕が夢を見たとしても、君には内容を絶対に教えない! 絶対だ!」
「さあ? 君なら嬉々として言いに来ると思うがな」
目を覚ました後の時とは違って言い合いになっているにも関わらず、なぜか心が軽くなった気がした。少なくとも、今のアルハイゼンの瞳にはカーヴェが映っている。それがなんだか充足した気持ちを芽生えさせて、カーヴェの中の数日の悩みは霧散して消えていった。
そもそもなぜあのモヤモヤした感情が芽生えたのか。その感情の起伏の名前を、カーヴェはまだ知らない。
End