ワンドロ【ネクタイ】【運任せ】 着慣れない服というのは身につけるのに時間を要する。
ズボンにシャツの裾を入れて、ベルトを巻いた。いつも腰に巻いている布よりも細く硬い紐だ。
黒いシャツの上にネクタイを巻いてからベストに腕を通す。ボタンを留めてタイの位置を調整して、タイピンをつける場所をどの高さにしようかと悩んでいたとき、カーヴェの背後にあった扉が開かれた。
「用意は終わったか。旅人が来ている」
声と共に部屋に入ってきたアルハイゼンはいつもと変わらない服装だ。対して、カーヴェは白いスーツを身にまとっていた。
「時間よりも早く着いてしまったから急がなくていいと伝えてくれ、だそうだ」
「よかった。もう時間かと思ったよ。君がわざわざ言いに来るなんて珍しいじゃないか」
タイピンを手にしたまま振り向くと、カーヴェの自室の扉を閉めたアルハイゼンが近づいてきた。
「読んでいた本をパイモンに渡したから手が空いただけだ。昨晩の失態は覚えているんだろうな」
「うっ……」
腕を組んだ姿勢のままこちらのスーツ姿を上から下まで観察するアルハイゼンの落ち着きとは違い、カーヴェはその一言に身体をこわばらせた。
「ちょっと飲み過ぎただけだろう? 以後気をつける、で決着したじゃないか」
「俺が不在のパーティーだからと羽目を外し過ぎないようにと警告しただけだ。同行する旅人とパイモンの心配を鑑みて、君に釘を刺しておくべきだと判断した」
「た、確かに昨日は旅人とパイモンに会うのも久しぶりだったから、少し羽目を外してしまったけど……」
昨日の夜のことはまだ記憶に新しい。
久しぶりにスメールに来た二人とティナリとセノ、コレイとアルハイゼンの七人で酒を飲みに行った。その店でカーヴェが気に入った酒は想定よりも度数が高かったようで、体の火照りに負けたカーヴェはその場で暑いからと服を脱ぎ出した。目にも止まらぬ速さでティナリに制裁を加えられアルハイゼンに連れて帰られたが、目も当てられないのは帰ってからの方だった。
まだ飲むと言いながら着ていた服をポイポイ捨てながらキッチンに行き、自室に入ろうとしていたアルハイゼンを捕まえてカウチに座らせ絡み酒に散々付き合わせた。
深夜に寒さで目を覚ましたカーヴェは下着一枚でブランケットにくるまっていて、朧げな記憶のままアルハイゼンに詰問し、ひどいしっぺ返しを喰らった。
『自ら服を脱ぎながら俺に絡んできたのは君だが?』
地を這うような言葉と共に一切乱れていない服装のアルハイゼンに断言されたら、カーヴェの酒癖のせいだと結論付けられるのは当然の結果だ。
飲み会をした翌日の今日。
今夜開催されるパーティーにズバイルシアターからスペシャルゲストとして指名されたカーヴェは、教令院から支給されていた白いスーツに着替えていた。パーティーの目玉は新しい衣装を身に纏ったニィロウの踊り。同行者は旅人とパイモン。アルハイゼンは留守番の予定だ。
「今日のパーティーでは新作の酒が振る舞われるらしい。僕が聞いたところによると、ドリーの援助のおかげで規模も大きいという。つまり参加者も多いんだ。勧められて酒を飲むことはあるだろうけど、昨晩みたいな失態は……」
カーヴェがそう説明をしていると、アルハイゼンの手がカーヴェの胸元に伸びてきた。
「ん?」
驚いた隙にベストの中に仕舞われていたネクタイが引き出される。そのまま首元の結び目が引っ張られ、結んであったネクタイが解かれた。
「スメールではあまり見かけない服装だ。興味深い」
「はっ? ちょっと、解かないでくれよ。慣れないから大変だったんだぞ」
「さほどの労力もかかっていないだろう? 君は手先に関しては器用な部類に入るからな」
言いながら、アルハイゼンは二本の紐になったネクタイをシュルシュルと重ね合わせ結んでいく。
「どういう風の吹き回しだ?」
首を取られていては身動きもできない。結び方が先ほど自分が行ったスタンダードなものとは違うことは気づいていたが、アルハイゼンの意図は読みきれなかった。
「人間は多くの場合、予測不可能な出来事を天に任せるという選択をする。己の力ではどうしようもないことを、理由を並べて受け入れるためにな」
「……また君の神秘主義の授業でも始まるのか?」
「希望なら、これから講義でも始めようか?」
チラリと視線をこちらに向けてきたアルハイゼンから顔を逸らし瞼を閉じると、カーヴェは「必要ない!」と断った。
「神に任せるという建前を置くことで自己覚知を放棄し運次第と手放すのは、物事の因果関係を証明する労力を怠った人間のすることだ」
「つまり、君は運命というものを信じないわけだ。曖昧なものに自らの選択を委ねないというのは学者の矜持の一つだろうが……」
「結果をどう捉えるかは本人次第だが、何もせずに運に全ての責任を押しつけるのは間違っている。大きな力に対抗するために、小さな力である人間がすべきことは一つ」
そう言って、アルハイゼンは結び終わったネクタイから手を離した。
「人事を尽くして天命を待つ。物事を多角的に見れば、それも一つの運任せと呼べるだろうが」
「人事?」
「そのうちにわかる。早く来るといい。そろそろ時間だとメラックが慌てている」
部屋から出ていくアルハイゼンの横で、メラックが今の時間を映し出す。思っていたよりも時間がかかっていた。カーヴェは慌ててタイピンをつけアルハイゼンの後を追った。
◇◇◇
パーティー会場で酒が入って暑いなと思ったのが一時間前。旅人とパイモンに心配されながら教令院を出たのが十五分前。カーヴェが風呂に入っていたアルハイゼンを待ち構えていたのが数分前。
「アルハイゼンっ! 君ってやつは!」
「早い帰りだったな」
「君のせいだろう? このネクタイ、どうなってるんだ!?」
そう言って、カーヴェはベストの中に仕舞っていたネクタイの先を引っ張り出す。首元の金色の装飾品はすでに外した。タイピンも外した。会場で「おしゃれな巻き方ですね」と称賛もされた。それなのに。
「どうしてネクタイが外れないんだ!」
暑くなってきたし身軽になれば、と身を案じてくれたのはどこの社長だったか。
ニィロウの踊りも終わり、教令院関係者や企業の代表者たちと和気藹々と話しながら過ごしていたカーヴェは、もう何杯目かわからない酒を口にしていた。
「酒に弱いのに勧められるまま飲んでいたのだろう。君の赤い顔を見れば想像は容易い」
「断れるわけないだろう? いつもはもっとシャツが開いているから涼しいのに、スーツにベストに着込んでいたんじゃ熱が逃げない」
会場で注がれるまま酒を飲んでいたカーヴェは体温の上昇を感じ、上着を脱いで首元を緩めようとした。そこでようやく、アルハイゼンが行った人事を知る。
「君が巻いたネクタイが外れないんだ。どう頑張ってもできなかった。きみ、なにか仕込んだだろう!?」
「まさか。ただ、スメールでは珍しいタイプの衣服に興味を持って自分なりの方法でネクタイを結んだだけだ」
「そのせいで熱が逃せなくて大変だったんだぞ! 旅人とパイモンに外に連れ出されて風に当たって、無理せず帰った方がいいって帰されたんだ! はぁ、まだ気になる酒もあったっていうのに……」
モンドの酒造から取り寄せられていたワインを思い出して、額に手のひらをつけて頭を振る。今度アルハイゼンのモラで買おうと心に決めたところで、アルハイゼンがカーヴェの持っていたネクタイに触れた。
なにも言わないまま細い方のネクタイを輪っかに通す。それを二回行ってから、アルハイゼンは無造作にネクタイを引っ張った。
「うわっ」
前のめりにたたらを踏んだカーヴェを肩口で受け止め、アルハイゼンは自身の背中側まで手を引く。あれほど外せなかったネクタイはあっさりとその役目を終えた。
「昨晩の君の行動を抑制しようとした結果だ。どうやら、天命は俺に向いていたらしい」
「運もなにも、君が仕組んでいたことだろう!」
アルハイゼンの両肩に手を乗せて、すぐ近くの顔に抗議すれば、首を少しだけ傾けたアルハイゼンに唇を塞がれた。
「恋人が失態を犯さないように最善を尽くしたんだ。おかえり、カーヴェ」
ずるいと思った。このタイミングで、今の自分たちの関係性を出してくるとは。
彼なりの心配が垣間見えたような気がして、それに絆されてしまう自分も大概だと言い合いの着地点を見つける。カーヴェは眉を寄せて不満げに唇を尖らせて。
「はぁ……アルハイゼン、ただいま」
二人にしか聞こえない小さな声でそう呟き、年下の恋人にキスを返した。
End