ワンドロ【青春】【風邪】 不満げな表情をみせても、カーヴェの言い分は変わらなかった。
「今日はこれで終わり。議論はまた今度しよう。風邪がうつったら大変だろ?」
「問題ない。いつも通りの食事をとって寝れば治る」
「君はそうかもしれないけどさ。大丈夫だよ。すぐに治るから、待っててくれ」
制服を纏った腕が伸ばされ、頭を撫でられた。宥めるような優しい手つきに唇を噛む。
「じゃあねアルハイゼン。また明日」
看病なら俺がすると言ったのに、先輩の顔を崩さないカーヴェに丸め込まれた。頼られなかった悔しさと、一緒にいたのに気づけなかったという後悔。
この記憶を思い出したということは。
「風邪か……」
夢から覚めて最初に自覚したのは喉にはりつく違和感だった。全身を包む倦怠感に息を吐いて、アルハイゼンはベッドから身を起こした。
廊下が騒がしいと思ったと同時に、執務室の扉が音を立てて開かれた。大股で入ってきた同居人に視線を向ける。
「アルハイゼン。申請書のチェックをすぐに頼む」
「仕事から帰ってくるのはまだ先じゃなかったか」
発した言葉が終わるよりも早く、カーヴェは踵を返して扉を閉めた。
「君ねぇ! 教令院で僕の予定を知っているようなことを言うな! 君と同居していることがバレたらどうするんだ」
「酒に弱い君の体質を鑑みるに、周囲の人々は君の帰る先についてとっくに勘付いていると思うが」
「そ、そんなわけないだろう。ああ、違う。急いでこの書類に印鑑をくれ。僕はまた急ぎの仕事があるんだ。家にはまだ帰れそうにない。ちゃんと掃除してあるだろうな?」
「帰って確かめるといい」
「できないから言ってるんだろ。無茶を言うな」
カーヴェと会うのは一週間ぶりだった。仕事柄、カーヴェは家を不在にすることが多い。今回の出張はもう少しかかると聞いていたが、仕事場所が変わったのだろう。書類のためだけに教令院に戻ったとは思えない。
「よし。じゃあ僕は仕事に戻るから。アルハイゼン、きみ……」
「なんだ」
「いや、なんでもない」
結局何も言わずに、カーヴェは執務室を出ていった。
「……コホ」
会話を続けたせいか喉が渇き、痛みが顔を出す。違和感を流し込もうと水に手を伸ばした。
仕事終わり。風邪の症状は今朝よりも悪化していた。
体調に違和感があった時にすることは、腹いっぱい食べて寝る。ただそれだけだ。そうすれば、翌日には改善している。
一日の仕事を終えて帰る途中、グランドバザールへ寄るべきかと思案する。しかし途中にある自宅を通り過ぎてまで足をのばすのは面倒だった。
何かしら食べ物はあるだろう。
同居してから数ヶ月。家の食材の管理はカーヴェが担っていた。彼が不在の時は適当なものを食べている。家に残っている食材の量は心許ないが、早く家に帰りたかった。
坂を下りきって自宅の前に着いたとき、嗅ぎ慣れたスパイスの香りがした。急かす心を抑えながら玄関を開けて、まっすぐキッチンへ向かう。
「早かったじゃないか」
キッチンにたどり着くと、愛用のエプロンを身に纏ったカーヴェが振り返った。
「もう少しでできるから待っててくれ。腹いっぱい食べるつもりだろ? 僕はどうかと思ったけど、今日はステーキとビリヤニとミートロールにしておいたぞ。あとはいくつか果物とかも買ってきたけど……」
「なぜ?」
なぜ、風邪気味だから沢山食べたいとカーヴェは気づいていたのだろう。
純粋な疑問は短い言葉で伝わったらしい。
「え? だって君、体調悪かっただろ。喉が痛いんじゃないか?」
「…………」
「風邪を引いたときはたくさん食べて寝れば治るって言ってたじゃないか。僕が風邪だったとき――あ、メラック! 皿を準備してくれ!」
「ピポ!」
準備するのを忘れていたと騒ぐカーヴェの姿に拳を握りしめた。唇を引き締めてから「手を洗ってくる」と言い残し、ゆっくりとした足取りでその場を後にした。
「本当に……体調不良の時こそ食べるんだな……」
ステーキが盛られていた大皿を見て、カーヴェが呆れたように呟く。
「これで明日には治っているだろう」
最後のミートロールを食べ終えてからそう言えば、「それならいいけどさ」とカーヴェがグラスを傾ける。仕事はひと段落したらしい。目処が立ったから帰ってきたという。
「君が風邪なんて珍しいこともある」
「記憶にある限り、久しぶりだ」
「僕が出張だったからって適当な食事をしていたんじゃないだろうね? 思っていた通り、掃除もしていなかったじゃないか。まったく」
切り分けた果物にフォークを指しながら、カーヴェは酒をあおる。
知っている限り、カーヴェが風邪をひいたのは学生の頃の一度だけだった。ひ弱でありながらも免疫力の高い男だ。そもそも体調を崩すことが少ないのかもしれない。
再会までの間に体調を崩したこともあっただろうが、人に頼ることを苦手とするカーヴェは一人で治してきたのだろう。
あの時も、俺に頼る選択肢を取らなかった。
今朝の夢を思い出す。手に持ったカップは空になっていた。
「僕にうつさないでくれよ?」
聞こえた声に視線を向ける。
ボトルから酒を注いだカーヴェがグラスをあおり、上機嫌に唇を歪めた。
「僕が風邪を引いたら、看病するのは君なんだからな」
何か言おうと開いた自分の口は、言葉を発することなく閉じられた。
「ふふん。看病される時はこき使ってやるぞ。果物を買わせて好きなものを買ってきてもらうからな」
「なるほど。では、高級なステーキ肉も買っておくとしよう」
「君じゃないんだから食べられるわけないだろう! 僕の看病の方法を学ぶべきだ。誰もが君のような消化能力を有していると思うなよ、アルハイゼン!」
「ならば君好みの看病をご教授いただこうか、カーヴェ先生」
「客員教授として授業を始めたことをからかっているのか? それだけ元気なら明日は問題ないな。僕はようやく仕事が終わったんだ。明日からの休みを満喫するためにランバドに酒も頼んである。君の看病は今日で終わりだ」
「看病らしい看病をしてもらった記憶がない」
「君の希望通りだろう! 全部食べきっておいて文句を言うな」
「パティサラプリンはないのか」
「今日はない。風邪の時食べたいなら先に言っておいてくれ!」
機嫌を損ね横を向いたカーヴェの姿に安心した。カップに寄せた唇が緩んでいたことは、気づかれていないだろう。
翌朝。
「君は本当に言っていたことを回収するのが得意だな。さすがは大建築士様。恐れ入るよ」
カウチに寝転んだカーヴェに声をかける。
「うう、頭が痛いのに君の小言を聞いてる余裕はないんだ」
体調万全で目覚めたこちらとは違い、カーヴェは頭を抱えて横たわっていた。手触りの良いブランケットの中から聞こえる声はかすれていて、時折咳も聞こえてくる。
「風邪だな」
「……というか、早く仕事に行けよ。書記官だろう」
「昨日の体調を鑑みて、今日は有給を申請してある。俺は今日から三日間休みだ」
「はぁ? そんなことが許されるのか!」
「自分の仕事にも有給制度を導入するといい。君のことだから、有給にした日も設計図やスケッチをしているだろうが」
「ふんっ……う、……喉に違和感がある……」
「君も仕事は終わったと言っていただろう。部屋に戻って寝るといい」
「……仕事じゃないのに着替えてるってことは、買い物にでも行くのか」
鍵を手にした姿を見て、カーヴェが緩慢な動作でカウチから身体を起こす。
「果物と消化にいいもの、だったか」
「……そうだよ」
「すぐに戻る。帰ってくるまでには部屋に行っているように」
小さく聞こえた返事を背中に受けながら、玄関を開ける。ランバド酒場で酒を受け取るのは治ってからでいいだろう。
昨晩は行くのが面倒だと思ったグランドバザールに向かおうと、軽い足取りで家を出た。今日一日の予定は決まっている。
End