ワンドロ【もしも】【チョコレート】 カーヴェが自室ではなくリビングで酒を飲むようになったのは、いつの頃からだろう。
本に落としていた視線を上げれば、向かいのカウチに座って酒を煽る金髪が見えた。テーブルに置かれた酒とつまみを右手で口に放り込み、膝を曲げ太ももに置いたスケッチブックの上で左手を動かしている。
「……うーん」
その内に、ペンの動きが鈍くなる。横髪を掻き上げて唇を尖らせたまま、カーヴェは照明の光で血色が良く見える頬を膨らませた。それから足を放り出して、スケッチブックを広いカウチの上に置き身体を伸ばした。
「おい、アルハイゼン。きみ、酒にもつまみにもまったく手をつけていないじゃないか」
大方、行き詰まったのだろう。筆が乗っている時はこちらの様子など気にも留めないくせに、己の興味が霧散した途端に周囲に目を向けるのは学者の悪癖だ。
自身にも身に覚えがある行動原理に息を吐き、ならば数分前からカーヴェの行動を把握している自分は何に興味を持ったのかと思考を巡らせる。もちろん、彼への返事も忘れずに口を開いた。
「酒もつまみも君好みだったようだな。随分と気に入ったようだが、俺は読書をしながら飲んでいるんだ。君のようにアイデアの為に糖分を欲する体質ではないし、甘すぎるものは好まない」
「君ねぇ……せっかく旅人とパイモンが外国のお土産だと持ってきてくれたんだぞ。スメールではなかなか手に入らないものだと君も話していたじゃないか」
「この品々の希少性は理解している。ナタの特産品をこれほど早く手にすることができるとは思わなかった。あの国は長い間閉鎖的だったし、ナタ人の海外渡航が可能になったのは最近のことだからな」
「みたいだな……」
昼に会った旅人とパイモンのナタでの冒険の話を思い出したのだろう。カーヴェは思い浮かべた情景を目に焼き付けるように瞼を閉じた。
噂以上の想像を絶する戦火の最中、彼らは果敢に戦い抜いたという。
「アイデアが湧かないからと突拍子もない話をするのが君の常だったと思うが」
「僕がいつも君に面倒な絡み方をしているようなことを言うな」
「酒がまわってからの常套句だ。そう言い始めて以降のことを、君が翌日まではっきりと覚えていた日数がどれほど少ないか。自覚していない訳ではないだろうな」
「うっ……」
数日前の言い合いをまだ覚えていたらしい。カーヴェは空になった皿を横目に立ち上がり、隣へ移動してきた。
「僕の分のつまみがなくなった。君はあんまり好まない味だろうから、残りは分け合おう」
「聞いていた通りの味だったのか?」
「ああ。元々は苦かったが、今は砂糖を入れた甘味が強いものが主流というあの論文は間違っていないようだ。君には甘すぎる」
「好きにするといい」
こちらの了承に気をよくしたカーヴェはつまみを口にして、自分のグラスに酒を注ぐ。
赤色の甘口の酒が注がれるのを見ながら、やはり彼の許容量はすでに超えているだろうと予測を立てた。モンド産のワインは度数が高い。
「酒にもつまみにも罪はない。アルハイゼン。今夜の議題を考えよう……そうだな」
「議論か?」
「君好みのものが提供できるかはわからないけど、教令院内で学生が話していた『もしも』について話すのはどうだ」
悪戯っぽく眼を細めたカーヴェがこちらの顔を覗き込む。今夜は悪酔いらしい。明日は頭痛を抱えてベッドから出てこないだろう。
カーヴェの顔を一瞥すれば、それを了承と受け取った彼が話し出す。
「そうだな……」
悩むような素振りをしながら瞬きを繰り返す顔には眠気が現れていた。すでに思考もアルコールに溺れているだろう。ここから先は戯言が主役だ。なんの実にもならない、こちらの記憶にしか残らない、幻のような時間。
「もしも……僕たちの共同研究が、破綻しなかったらどうなっていたと思う?」
息を止めたことに気づいたのは、カーヴェが「君はどう思う?」と問いかけてからだった。問いかけの前に何かを言っていたが、意識の外に追いやられていた。
「……変えようのない過去を夢想することは意味がない。今夜は悪酔いをしているようだ。君が明日の朝絶望することは目に見えているが、これ以上墓穴を掘るのはやめた方がいい」
彼と暮らしてから一年以上。共同研究の話題が上がったのは、これが初めてだった。
互いに踏み込まないようにしていた一線だった。それをカーヴェが口にした理由と動機は、己の頭脳をフル回転させても思いつけなかった。
「僕は、君の卒業する姿が見れなくて、残念……だったかな。それ、と……」
途切れ途切れの言葉に視線を向ける。アルコールのせいで眠気を抱えていたカーヴェは、思っていたとおり目を閉じてゆらゆらと揺れていた。
バランスを崩して頭をぶつけるとまた騒がしい。以前起きた面倒ごとを思い出して、揺れているカーヴェの頭を引き寄せた。頭を肩に寄せたカーヴェに顔を近づけて、どうせ忘れられる戯言を音にする。
「俺は、もっと早く、君と一緒に暮らしていたと思うよ」
顔を傾けるだけで届く金髪に頬を擦り寄せる。酔っ払いの相手は面倒だ。幾度となく立てられたフラグは折られ、記憶は消され、何度目かの告白は闇の中へと忘れ去られる。
何度も味わった肩透かしは、いつもの日常。慣れたものになってしまった。
「…………」
「……はぁ、カーヴェ。寝るならベッドに」
数秒待ってから反応がないことに寝入ったと確信し、肩を揺らす。
いつものようにむにゃむにゃ言いながらカウチに倒れ込んで眠るのだろうと顔を覗き込んで、動きを止めた。
「…………」
「…………君……」
見たことがないほど顔を染めたカーヴェが、瞼と唇を震わせて寝たふりをしていた。
どう見ても意識があるのに、目を開けたら負けだとでも言うように口と目を閉ざしている。
「カーヴェ」
どこまでが本心でどこからが違うのか。この家で過ごした日々は、自分たちの距離をどれほど近づけていたのか。誰よりも長く、誰よりも深くカーヴェを見てきた自分の経験が心臓の鼓動を早めさせる。
「あ、アルハイゼン……」
観念したように小さく名前を呼ばれた。うっすらと開いていくカーヴェの瞳から目が逸せなかった。感情を抑えるのは得意だと、自負していたはずだったのに。
「君も?」
カーヴェの問いかけに隠された恋慕の感情を読み解けないほど浅い付き合いではなかった。
彼の目がこちらを探すよりも早く、顎を掴んで上を向かせ、驚いたように見開かれた赤色を捉える。開かれた口を己のそれで塞いで、すぐに離す。
「い、つから、僕の、こと……」
蚊の鳴くような声は確かに鼓膜を揺らした。もう一度唇の先を触れ合わせ、逃げられない距離で応える。
「さあ、いつからだと思う」
隙を見せたのはカーヴェの方だ。下手な芝居も悪くはなかった。こちらが『もしも』に囚われ、内心を吐露するくらいには騙されたから。
それでも。
知った以上は逃してやれない。
「んんっ……」
三度目のキスは、カーヴェが好んで食べていた甘いチョコレートの味がした。
End