2025年バレンタイン 異国の空気が入り混じるオルモス港の一角。他国の品々が並んだ市場の一つで、アルハイゼンは足を止めた。
「お兄さんも、ひとつどうだい? 今日が当日で、いっちばんの盛り上がりさ!」
稲妻訛りの言葉で客寄せをしている恰幅の良い女性夫人が、熱がこもった口調で品物の説明をしてくる。異国の文化は物珍しく、興味を惹かれた知識に耳を傾けるのはアルハイゼンにとって当然の行動だ。
店先の赤色の包装紙は同居人の瞳と視線を連想させ、その結果アルハイゼンは手のひらの上に乗る程度の小さな箱を購入するに至った。
己らしさとはかけ離れた行為だと自覚していたが、そうしようと思うくらいには同居人との距離感に変化を求めていた。もっとも、方向性を間違えてはいけないと己を律する気持ちを忘れてはいない。
「どうぞ」
渡された紙袋。綺麗にラッピングされた箱の中身は、たったふた粒のチョコレートだ。支払ったモラの額を聞いたら、同居人は酒のボトルを一気飲みした後に散々文句を言うだろう。しかし手渡されたプレゼントを突き返すことはせず、なんだかんだ言いながらラッピングを解いていく姿が思い浮かぶ。
「良いバレンタインを!」
離れた屋台から聞こえた声に振り返ることもせず、アルハイゼンは仕事を終えたその足で夕暮れのオルモス港を後にした。
◇
場所は変わりスメールシティ。外の寒さとは対照的にグランドバザールは暖かかった。並んだ市場の一角で、カーヴェは腕を組み唇を尖らせて悩んでいた。
店先で何分も悩んでいるカーヴェに対して、フォンテーヌの商人は両手を広げて商品の魅力を語っている。花瓶に生けられた色とりどりの花束たち。
赤色、黄色、橙色、青色に紫色に白色と、その姿はどれもが主役級の美しさで、店先に立っているだけで花の香りに全身が包み込まれる。
「フォンテーヌでは、家族や親友への日頃の感謝として花束やカードを送るんだ! もちろん、恋人や好きな人に渡してもいい。今日が当日、しかも夕方! 今買うしかないよ!」
店主の女性の言葉にカーヴェはさらに唇を尖らせていく。
数秒してから、意を決して口を開いた。
「あの」
「はいっ!」
「ええと、その……花束っていうのは、男から男に贈っても……?」
「もちろんいいに決まってるじゃないか! 指定の花で花束を作るから、気軽に声をかけてね」
「ううん……そうか」
バレンタインに花束。芸術やロマンを理解できないあの男にとっては、何の意味もなさないものだろう。そう思いながらも、一抹の不安が後ろ髪を引いた。
アルハイゼンと同居を始めて一年以上。昨年のバレンタインは同居したてで関係が掴みきれず、イベントごとを楽しむような雰囲気ではなかった。
今は家で二人の家で酒を飲んだりアルハイゼンの誕生日をサプライズパーティーで祝ったりと、関係性はずいぶん柔和になった。変わったのは関係性だけではない。カーヴェのアルハイゼンへの感情も、それにつられるように変化していた。
アルハイゼンへの恋愛感情に気付かれてはいけないという感情と気づいて欲しいという相反する感情は、すでに目を逸らすことができないほどカーヴェの中で大きくなっていた。もうずっと長いこと、きっかけを探しているように思う。
稲妻のチョコレート文化のように『好きな人』へという直接的な表現ではないし、家族への感謝という体ならアルハイゼンへの恋心は悟られないだろう。でも本当は気づかれたい。
「気づかれなければそれでいいし。別にどうこうってわけじゃ……」
ぶつぶつ独り言を呟いていると、店主から「何かお探しかい」と声をかけられた。臨時でスメールシティに来ているフォンテーヌの商人だ。明日には国に帰るという彼女は人の言葉を引き出すのが上手い。
いくつかイメージを伝えていくと、こちらの感情を察知した店主にいろいろ質問された。勧められるまま恋心の話まで吐露してしまい、カーヴェは慌てて頷いた。
「店主、決めた。この花束で!」
「いいよぉ! 任せておいて!」
ノリの良い店主に包んでもらった花束と差し込まれたバレンタインカードを抱えて、カーヴェは買い込んだ食材の入った袋と共に僕たちの家へ向かった。
その日の夜。
カーヴェが自室から花束を持ち出したのは、アルハイゼンが風呂に入っている間だった。出てきた時に「薦められたから買ったんだ」と言い訳を重ねながら渡そうと意気込んで、カウチに腰を下ろす。
聞こえてくる廊下を歩く音に、緊張から心臓が高鳴る。リビングに現れたアルハイゼンの目につくようにとテーブルの上に花束を置いて、カーヴェはスケッチに夢中なふりをした。
「……これは?」
リビングに姿を現したアルハイゼンは予想通り足を止めて、テーブルの上の花束をじっと見て問いかけてくる。
「今日はバレンタインだろう? グランドバザールで薦められたんだ。断りきれなくて買っただけさ。感謝の気持ちにって言われて」
スケッチブックから目を離さないまま早口で言えば、アルハイゼンは無言でリビングから出て行ってしまった。
「は? ちょっと、アルハイゼン」
驚いて名前を呼ぶと、すぐにアルハイゼンはリビングに戻ってきた。そのまま、真っ白なスケッチブックを抱えていたカーヴェのそばに立つ。
「はい、これ」
差し出された小さな紙袋。わけもわからず受け取って中を覗くと、手のひらサイズの小さな箱が入っていた。
異国の包装に包まれているそれはデザインが物珍しく、カーヴェは袋から箱を取り出してしげしげと眺めた。
「君が、僕に? 珍しいこともあるじゃないか」
「君と同じだ。オルモス港で薦められた。バレンタインだからとな。商人はなかなかの手腕だったよ」
「僕もフォンテーヌの商人から……」
カーヴェの言葉が詰まったのは、手のひらに乗った箱の中身が何か察したからだ。アルハイゼンを見るといつもの指定席に腰を下ろし、置かれていた花束に添えられたカードをめくるところだった。
あのカードって中に文字が書かれていたのか。という驚きが一瞬脳裏に浮かぶが、手元のプレゼントにそれどころではないと思考を切り替える。
「アルハイゼン。君、これの中身って、まさか」
おそるおそる問いかけると、アルハイゼンは手元のカードから視線を逸らさないまま答えた。
「チョコレートだ。稲妻産の」
稲妻のバレンタインの意味を理解していないのか⁉︎
アルハイゼンのさっぱりとした肯定に、カーヴェは心の中だけで頭を抱える。恋人または好きな人にチョコレートを贈るという文化をアルハイゼンが把握していないとは思えない。しかし、稲妻が外交を解禁したのはまだ最近のことだ。稲妻独自の文化がスメールに浸透するまでは時間がかかるだろう。
カーヴェは仕事柄他国の人間とも関わるためバレンタインについての知識はあるが、教令院内での仕事が多いアルハイゼンが知っているかはわからない。
これで変に指摘して回収されるのは避けたい。咄嗟に胸元に箱を引き寄せて、カーヴェはアルハイゼンの様子を伺った。
「ま……まぁ、君にしてはセンスがあるんじゃないか? ありがたくもらっておくよ」
「ああ、まさか君からこれほど早く返事が来るとは思っていなかったよ」
「返事?」
なんのことか見当もつかず、カードを読んでいるアルハイゼンの方を訝しげに見つめる。アルハイゼンは見やすいようにとカードを目の高さまで持ち上げて、くるりと半回転させた。
「こちらの意図を完璧に読み取るとは、フォンテーヌの商人は非常に優秀なようだな」
「は……?」
目の前に掲げられたカードに書かれていたのは、愛情を表す文字だった。
「君は俺がこの日にチョコレートを渡す行為に含まれる意味を知らないと思っていたのか? 国によって意味が違うが故に、人々の認識が必ずしも完全に一致するとは言えないが、少なくとも俺と君のバレンタインに対しての認識は同じだったようだ」
バレないはずだった。たくさん並べられていた花の中からそれを選んだ理由だって、アルハイゼンが気づくはずがないと思っていた。
本当に?
ロマンと建築と芸術と美しさを、この男が幼少期から教わっていないはずがない。
「テイワット各国の薔薇が持つ意味を包括した結果、薔薇には『愛情』という意味が込められる。祖母が持っていた妙論派の教科書に記載されていた内容だ。君も同じ本を愛読していたな」
視線を逸らさないままアルハイゼンは淡々と語る。
「まさか妙論派の栄誉卒業生カーヴェが、バレンタインに赤色の薔薇の花束を贈る意味を理解していないはずがない。もし理解していないというのであれば、今後君はロマンについて語る資格を失うだろう」
赤色の薔薇は『告白』を意味することも、この男は重々理解していたのだろう。
とっさにカードを奪い返そうと思ったが、テーブルを挟んだ位置からでは意味がない。頬が熱を宿すのがわかる。回転の速い頭脳は、予感が確信だったと警報を訴えていた。
ここまで言っておきながらも、アルハイゼンだって墓穴を掘っていた。バレンタインに薔薇の花束を渡す理由を理解しているのであれば、チョコレートを渡す理由だって理解しているはずだ。
遠回しすぎる告白は自分たちらしくもあり、らしくもない。
曝け出した互いへの恋愛感情を前にしても、余裕そうな表情を崩さない後輩に腹が立ってくる。
「ふん。君からのは稲妻式だったな。返事はホワイトデーでいいか」
「まさか。俺は一ヶ月も悠長に待つつもりはない」
小さな抵抗など無意味だった。
「俺が君に薔薇を贈ったとしても、君は色々と理屈を並べて薔薇の意味も知らずに渡すのはなどと説教を始めただろう。ロマンを知らないという君の俺への評価は表現のことであり知識のことではない」
「まさかと思うが、君」
「俺は回りくどいものよりもわかりやすい方が性に合っている。チョコレートを渡された君がその意味を理解するのは想定の範囲内だ」
「やっぱり、あえてこれを選んできたのか!」
「当然だろう。まあ、君から当日に同じ返事をもらえるとは予想していなかったが」
踏み込むタイミングを伺っていただけで、相手の気持ちに気づいていたのはカーヴェだけではなかったのだと思い知らされた。
心臓がうるさい。カーヴェが最適な言葉を探し出すよりも早く、アルハイゼンによって決定打が下された。
「君とこれ以上、同居人のままでいるつもりはないよ。カーヴェ」
「僕だってそうだ。返事なんか分かりきってるだろ!」
唇を綻ばせるアルハイゼンに一矢報いたくて、カーヴェは言葉を続けた。
「来年のバレンタインは君が花束担当だからな。シティで噂になればいい」
「……いいだろう。今年も来年も、君からのチョコレートを期待しておく」
「待て、今年? 今年はもういいだろ?」
「バレンタインを散々悩んでいたようだな。君がこの家のキッチンに材料を隠し持っていることが、俺にバレていないとでも思っていたのか?」
あからさまかと封印していた戸棚のチョコレート。その目的が無事に達成されたのは、翌日の十五日のことだった。
End