ねやね――ライチ
ムクロジ科の果樹・レイシの果実であり、その上品な甘さと香りは特に中国で古来より愛されてきた。その保存のきかないその果実は〝枝を離れて一日目で色が変わり、二日目には香りさえ消え、三日目には色も香りも、味わいさえも消え去ってしまう〟と伝えられている。中国唐代の皇妃であり、傾国の美女・楊貴妃が愛し、その生産地でった華南から都である長安まで早馬で運ばせた話は大変に有名である。
三毛縞は、そんなライチを見たことがなかった。そも、果物などに執着するようなタイプではなく、今現在国内のスーパーに普及しているリンゴや、ミカンや、バナナなどの顔ぶれこそ知っていたが、わざわざ変わった果物を探し出して買うようなことはしたことがなかったからだ。だから今日、箱を開けてまず、その香りの繊細な甘さに驚いた。
「ということは、照也も知らないのか」
その驚きを聞いた黒柳はわずかに眉を顰めながら問うた。無論、幼少期三毛縞に引き取られた照也が、ライチを見たことがあるとは思えない。そりゃ、知らんだろうなと三毛縞は答える。基本的に黒柳家では、親の財が許す限りの知識や教養は積極的に与えていく教育方針であり、それは黒柳誠から業へ施されるだけでなく、かつて黒柳誠自身も、彼の父から与えられてきたものだ。故に信じられない、といった感情を、黒柳はここ最近恒例になってきた不可思議なお茶会の今、露にすることなく紅茶とともに飲み干したのだった。
今日は土曜の休園日である。先述した黒柳家の教育方針に則り、子供に友人との予定がない日、特に土曜日は積極的に外出を促す日でもある。そのため、先日早まった裁判のおかげで今日が休日になった黒柳ともども、一家総出で郊外にある公園にいく予定が朝から立てられた。そのため、いつも昼すぎに行われていた三毛縞の気まぐれは、夕食後の今行われている。
足の速いライチだが、他にはない唯一の香りや甘味はフレーバーとしてもく使用されている。その一つがライチ・ティーである。先日のジャスミン・ティーはセンティッド・ティーと呼ばれる種類であり、茶葉に香りを吸わせて作る手法が用いられているが、今回のライチ・ティーは香料を噴霧などで着香させた〝フレーバード・ティー〟と呼ばれる種類のものである。湯を注ぎ、茶葉を躍らせながら蒸らす間でさえ香り立つ上品な甘さはその果実さえ知らなかった三毛縞のど肝を抜いた。砂糖さえ使っていないのにすっきりと甘い飲み口や、渋みのなさに合わせ三毛縞が選んだティーセットは、いつものシンプルで柄の少ないものとは一転、華やかな総柄のものだ。パッションフラワーやパンジーなどの花がカップ、ソーサーをぐるりと取り巻くように配置されている様はまるで意匠の凝ったドレスや、花束のよう。そのボディはわずかに波打ったデザインになっており、その曲線美が一層美しく感じさせる。飲み口や取っ手に施された蔦のようなデザインが輪郭をはっきりと魅せており、華やかながら上品に引き締まった美しいデザインのものである。
甘い紅茶は好かないだろうか、という三毛縞の僅かな不安はすぐに消え去った。黒柳はあまりファスト・フードやジャンクな味付けを好まないが、三毛縞が淹れる四度目の紅茶にも、今だ文句を言ったことはなかった。香りを楽しみながら、しかして称賛するわけでもなく、ただ黙って、どこか楽しそうに口をつける。年を食った男ばかりのこの時間はいびつで、しかし三毛縞にはらしくなく心地の良い時間だった。
「ライチの旬は夏だからな…… 来年は用意させよう」
黒柳が不器用ながら、こうして子供に接するのはいつだって三毛縞にとって新鮮だった。無論、実子である業にたいして黒柳はたいへん立派に父親としての責務を果たしていたし、預かった子とはいえ放任主義の三毛縞にはいつだって黒柳は素晴らしい父親だと思ったが、しかし同時に、あの堅物の黒柳が父親に、という落ち着かなさが消えることはなかった。実際、黒柳は三毛縞が連れてきた照也と、自分の子供である業を差別化して接することはなかった。もともと三毛縞にさえ甘い男である。三毛縞とはまた違った放任主義――と、いうよりも子供の自由を尊重しているようだった――ではあるが、叱るときは二人を震え上がらせるほど厳しく、褒めるときは彼らの自信や可能性を伸ばす様にはっきりと接している。やんちゃ盛りの照也に若干手を焼いてはいるようだが、それでも、わかりにくいなりに愛情をもって接しているのは三毛縞も、そして照也本人もわかっているのだろう。実際、照也ははじめこそ厳格な黒柳に戸惑っていたが、今はすっかり親子らしくなったように感じる。照也が朝の登園準備を黒柳と一緒にするようになったのも、そうだ。きっと来年の夏は、照也と業、そして三毛縞のためにライチが取り寄せられるのだろう。そうして照也の世界が広がっていく。三毛縞一人ではなし得なかったように。不器用同士が集まって、暖かい思い出が増えていく。黒柳の心に刻まれるであろうその中の一つに、この時間がほんの少しでもあればいいと、またひと口ご機嫌そうに紅茶を味わう黒柳を目に焼き付けた。
楊貴妃は、ライチのあまりのおいしさに微笑んだという。傾国さえなしえてしまうほどの美女が果物ひとつでほほ笑むのなら、どんなに足がはやい果物であれ、入手が困難であれ、手に入れようとするのが人間の性、だろうか。はるか昔の人間でさえ、美人の笑み一つに勝てなかった。今こうして、らしくなく手間暇をかけ紅茶を運ぶ三毛縞もまた然り。
明日も彼は、せっせと湯を沸かし手間をかけ、黒柳の部屋を訪れるのだろう。