たかが茶の一杯を淹れるため、どうしてこうも手間を掛けなきゃならんのだ。当初はそう呆れた三毛縞も、今や給仕の残したメモなしに黒柳の好む紅茶の淹れ方を覚えてしまった。当初こそ、突如発現した黒柳のドミナント性のコントロールに付き合うという関係性だったはずが、今や黒柳のダイナミクスは安定しており、コントロールにも問題ないどころか自らのダイナミクスを使いこなす様にまでなった。一方の三毛縞はと言えば、未だ命令にも、褒美を与えられることにも、仕置きをされることにも慣れずにいる。成り行きで結んだパートナーという関係性も、気づけば紆余曲折、三毛縞は黒柳から艶めいた黒革の首輪まで贈られ、今それは彼の首筋でくすむことなく輝き続けている。三毛縞の、パートナーのためだ、というのが、使用人をすべて解雇した黒柳の言い分である。無論、黒柳邸に尽くしてきた彼らは今、黒柳の口添えで新たな職場で活躍し、黒柳法律事務所の事務員として雇用され、また新たな分野で自らの夢を追いかけている。問題は、それまで家事などしたこともない三毛縞がそれらをいっぺんに任されたことだ。幸い、給仕たちは皆三毛縞に優しく、引き継ぎのための手記を残してくれていたものの、そのすべてを恙なく実行することはあまりにも大変すぎた。当初はもう、黒柳もろとも野垂れ死ぬんじゃないかと思うような問題の連続ではあったが、今――ぼんやりと考え事をしながらでも、完璧に紅茶を淹れられるようにまでなったことはもはや奇跡に近かった。
もうすっかり慣れた手順でティーセットを準備し、もう何度も往復した廊下を、低いカートを押しながら進む。黒柳の部屋に入る前、三毛縞は一度大きく深呼吸した。これから待っているであろう黒柳の言葉のあらゆる可能性に、自分を落ち着かせるためだ。何を言われたって冷静になれるはずだと自分に強く言い聞かせる。別に黒柳は三毛縞を使用人として一人前にしたいわけではなかった。無論、器用な男がなんだかんだ言って黒柳邸の家事をいっぺんに熟せることくらいわかっていた。問題は、三毛縞が家事を完璧にこなせるようになるほど、三毛縞自身が、自らのダイナミクスと向き合えなかったことだ。軽くノックし、帰ってくる声に合わせ扉を開ける。黒柳はいつも通り、今抱えている案件を片付けている最中だった。三毛縞は使用人ではない。だから丁寧すぎるほどのふるまいは終ぞしなかったし、黒柳も三毛縞に〝自らに仕えろ〟とは言うつもりもなかった。仕事の具合を確認したり、今日の夕飯について相談したり。昔じゃ考えられないような、穏やかで〝ふつうの〟会話は、二人ともぞんがい楽しんでいた。
三毛縞は、自分の前に用意した紅茶に手を付けることもできずにいる。いつだってそうだ、三毛縞は黒柳がひと口飲み終わり、その日の紅茶の淹れ方に関する感想を一つ言葉にするまで紅茶には指一本触れない。それは黒柳の命令でも、躾でもない。ただ――それどころではない、だけだ。
「三毛縞、ここへ」
なのに、今日はいつもと違った。いつも黒柳は自分のデスクで紅茶を楽しみ、三毛縞はその前にあるソファとローテーブルで茶を飲む。それはサブミット専用の椅子を用意しない、という黒柳の意思表示である。主従ではなく、対等な関係だと三毛縞に示すためだ。だというのに、黒柳は今日、三毛縞を自らの側に呼び寄せた。長い指が空を掻くように三毛縞を呼びつけると、三毛縞はその〝命令(オーダー)〟に逆らえない。体はまるで操られた様に黒柳の側へとふらり、ふらり動き出した。
“Sit(座れ)”
言葉の一つで、三毛縞はまるで軍用犬さながら即座に彼の足元へと膝をついた。じわりと汗が滲む。三毛縞は今、自分の体がそのまま心臓になってしまったように錯覚するほど緊張した。耳の奥で、ドクン、ドクンと血が脳へ昇っていく音さえ聞こえてくるようだった。黒柳の瞳は三毛縞を見下ろしている。侮蔑の色でも浮かべてくれればどれほどよかっただろうか。その愛おし気な、しかして鋭く、挑発するような目つきに三毛縞は詰まる息を何とか吐きだすだけで精いっぱいだった。汗が止まらない、体が、脳が、命令(オーダー)と褒美(リワード)を求めて狂いだしそうだった。
「――カモミールか。悪くないな」
口の中でど、っと唾液があふれ出す。視界にはもはや、黒柳誠(マスター)以外のすべてが排除され、ただ彼の一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませている。こくり、と主人の喉が鳴るだけで、背中にビリビリと痺れるような期待が走り、ただびくつくことしかできなかった。
「“Goodboy” うまくなったじゃないか」
三毛縞よりもずっと細く、白い指先が褐色の汗ばんだ喉をゆっくりとなぞり上げていく。猫にしてやるような指先の動きは、熱い顎下の肌をいたずらに掻き擽る。背を丸め、体内で噴き上がる圧倒的な〝多幸感〟に見悶えてしまいたかった。それすら許さない黒柳の瞳が、まっすぐに三毛縞の目を射抜く。逸らすことなど、できなかった。黒柳は“Sit(座れ)”と命じたのだ。這いつくばれ、とは言っていない。くすぐられる顎に、全身から噴き出す汗が頬を伝い流れていく。涙が止まらなかった。自分でもコントロールできない〝サブ・スペース〟の圧倒的な力の前に、三毛縞はただ無力に快楽を享受することしか許されない。あと少し、その命令(オーダー)が複雑なものだったら。あと少し、その褒美(リワード)が盛大なものであったなら。今頃三毛縞は眩暈に脳を揺らし、弛緩した全身をぐにゃりと床に頽れさせながら、はじめてサブ・スペースを経験したときのように失禁したに違いなかった。黒柳は、息を荒げ快楽にもみくちゃにされる三毛縞の喉から、汗でしっとりと濡れる頬へ、それから腰の強い髪の中で茹りそうなほど熱い地肌へ、子供にするように撫でてやる。とうとう、三毛縞の体ががくりとしなだれた。質のいいスラックスに汗と、涙と、唾液をひたり、ひたりと落としてまで何とか顔をあげんと必死で黒柳のチェアに縋りついて。
「今日の夕飯は私が用意しよう」
黒柳はまたするりと三毛縞の太ましい首筋を、そこに誂えられた革張りの首輪(しるし)を撫でながら、デスクに広げていた書類を閉じる。
「いい子にはご褒美が必要だろう?――可愛がってやる、私の子猫(きよとら)」
ニ、とほほ笑む黒柳を見上げ、三毛縞はごくりと喉を鳴らした。