『蓬の裏の柔らかな』 保健委員会とは不運委員会である。
以前来訪の折に、一年生が教えた内輪の綽名を覚えていたのだろう。伊作の額を指さす雑渡が確信をもって問うた。
「これも」
「石がぶつかって」
苦笑で肯定と諦めを語る。日々歳々怪我をするため、己の体の修復力を伊作は把握していた。十分に冷やして赤みも残らなかったと思うのだが、客人の目は誤魔化せなかったらしい。学園の誰も招いておらず、正式に門を通過してさえいない彼を客人と呼べるかは永遠の謎だ。けれど門番に引き渡せば(引き渡すために捕まえられる気はさらさらしない)、タソガレドキ忍軍組頭たる凄腕を打ち倒さんと集まってくる友人達がいる。つまり負傷者が増えるということで、保健委員長を任じる者として黙っておくのが吉だった。
医務室は静かであった。何かと後輩達を贔屓にしてくれる彼に茶菓を出そうとすれば、持って来たよと止められて、仕事の続きを促された。学園挙げての委員会重点活動日の今日は実習がない。後輩達にもそれぞれ役目を割り振った。一番に戻ってきた者と留守番を交代する予定である。禍福はあざなえる縄の如し。遠くのただただ賑やかな調べを聞きながら、自分の小さな痛みひとつで今日が終われば幸運だと伊作は思った。
摘んできた蓬からごみを取る。間違って口に入っても害はないが、手間をかけられる時間があるのだ。ついいつもの節が喉を込み上げた。前の茣蓙に蓬と鼻唄を落としつつ、次の葉をつかむため、見もせず伸ばした右手の先が皮膚に触れた。誰の、と問うまでもない。寸前まで隅の卓についていた大人の広い掌が、乗せた指を挙上する。何故の答はもうひとつの手の先に刺さっていた。シコロの尖端、ムカデの骸。
伊作がまず真っ先に叫んだのは、咬まれていませんか、であった。
咬まれていないよと彼の唯一見える右目がにんまり笑った。
武器を離した手が目の前に差し出される。全身脱がせて観てもいいけどね。伊作は謝った。あなたを侮る発言だったと。
雑渡の両腕が伊作から離れた時には、虫の死骸も失せていた。
「不運というか、これは不注意だね」
「……はい。肝に銘じます」
野草の影に虫が潜むことなどとうに分かっていたのに。注意深さは忍者に必須の資質である。不運と呼ぶ事態のいくばくかは単なる注意の散漫で、今日だって、避けられたのではないか。浮いた右手が額をこすった。
ついていないよと傍から慰め。首を回して、揶揄いではない眦の皺を眼に映す。そして鏡の右手がこちらと対向する場所を撫でるのを。
「痕」
ああこうした仕種から怪我をしたのがバレたのだ。
「やっぱり、僕は色々と不注意ですね」
「繰り返すようならね」
声音から労りが消え、挑発に変じる。子どもに察知せらるる感情をあえて表に出した先達に返す言葉はひとつだった。
「繰り返しません」
手を止めさせてしまったからと手伝いを申し出された。客ではなく、やや味方寄りの、しかし警戒は張られた人物が薬作りに関わることを保健委員長は認めた。完成した薬を彼も使うこと、君は甘いと本人にも言われようと彼への信頼が根拠だった。
そこで、新たな怪我を遠ざけてくれた恩人に礼を述べていないことを伊作は思い出した。
「遅れましたが、先ほどはありがとうございました」
「どういたしまして」
雑渡は時々、子ども相手に折り目正しい応答をする。故に信頼に足るのだと当人には告げず、蓬のごみを取り除くにも素早く精妙な忍者の腕を羨ましく見た。
「雑渡さんが咬まれなくてよかったです」
「なんだい。さっきから」
「僕の不運て移るらしいんですよ」
「君の代わりに私が、という心配だったか」
「そう考えたのは今ですけど。僕の不注意に雑渡さんは気づくし、そんな不注意なら移らないし、じゃあ雑渡さんは僕といても怪我しないんだなと思ったんです」
正面を眼差し、気づいた事の喜びを伝える。周囲により気を配って減らせる不慮の事態を減らせれば、怪我人もまた減るのだ。天運は度り難くとも、対応できる事態は増える筈だ。
歌う足音が廊下に聞こえた。まぎれぬよう、伊作は相手の右耳に声を近づけた。
「僕って、あなたのことが大事なんですよ。知ってました?」
「……知らなかったかも」
障子を開けた伏木蔵が、見慣れた背中にわあと歓声を上げた。歓喜は高く響き、誰かの耳に降りただろう。
さっそく膝に乗り込む童を、おかえり、ごめんねと雑渡は下ろした。
「伊作くんの大事な私が怪我するといけないから、今日は早めに帰るんだ」
「ええ〜。ぼくだって雑渡さん大事ですよ。でも雑渡さんがケガするほどのサスペンス、見たい気もするぅ」
「こらこら。本当にそんな危ない場所に伏木蔵はやれないよ」
「伊作せんぱい、このひと説得してください」
「だめ。僕も行かせません。大事な伏木蔵に怪我をしてほしくないもの」
小さな手とのバイバイの握手を終えた隻眼が坦々とこちらを向いた。
「みんなに言ってるやつだ」
「はい! だから雑渡さんにも言わなきゃって」
視界が翳り、見えぬ痛みの痕跡をするりと撫ぜられた。
よかった
またねの約束を残して姿が消える。
空中に手を振り終えた伏木蔵が伊作に尋ねた。
「今日のおみやげは?」
「え」
そういえば、常は饅頭のひとつも携えて来る人だった。卓上には水滴のひとつも落ちていない。
「お手伝い、かな」
「そっかあ。今日は委員会がいそがしい日だから、来てくれたんですねぇ」
本当にそうかもしれない。雑渡は何でも知っている。例えば伏木蔵の声を警報と聞きなし学園の境界に先回りした挑戦者の存在などを。
けれども、伊作が同窓のみならず、雑渡を大事に思っていることは知らなかったようだ。それはつまり僕の感情の隠し方が上達したということではないか?
「せんぱい、嬉しそうですねぇ」
「うん」
隠す必要のない相手と笑顔を交わす。
逃げられたっ次は手合わせしろと言っとけっと文句が元気に飛び込んできた。