『続・僕のサンタ』 和久井譲介は32歳。
けれどいまだにサンタが来る。
メリークリスマスを交わすはずだった人に代わって隣に寝そべる箱を摑み、リビングへ。休暇の朝、ベッドに譲介を置き去りにした家族の気配は、まずコーヒーのくすぐりに現れた。空腹にカフェインを入れるなとあれほど言ってるのに。鼻に香りは心地よけれど、腹に入れば搔き乱す。デカフェなら構わねえだろ?と“譲歩”を口にしながら、言ったっきりの男の口先に、向かうカップの把手を譲介はむんずと摑んだ。把手を使わずカップのふちを摘んで持つ癖にこそ為し得る妨害。睨んで凄む顔面に、潑溂たる笑みを振るまった。
「おはようございますサンタさん。今年もプレゼントをありがとうございました」
「息継ぎの位置が間違ってるぜ、ダーリン」
篭絡の呼称も使われすぎれば耐性がつく。かなしいことに。湛えた熱を波立てぬよう、そっと把手を引けば、目標はするりと徹郎の指先を離れた。
「間違えていませんよ、サンタさん」
「ヤツはとっくに大西洋だ」
「じゃあ追いかけて僕たちの寝室に立ち入ったことを糾さなきゃ。ご心配なく。あなたの相棒は省吾先生があずかってくれますよ」
己が呼び名を聞きつけた黒猫が椅子と譲介の肩を経由して、キッチンカウンターに乗り上げると、カップを持つ肘に額をごんと擦りつけた。おはようの声をかける。水を飲み終えきらめく顎がにゃぁとお返事。毛先の滴をぬぐってやりながら、やっぱり朝一番は水だよなと語りかけるも、おまえを置いてく算段をしてたぞそいつはと背中に置かれた手に猫の甘えは横取りされた。
「それで? 顔も洗わずに。気に入らないプレゼントの返品か?」
大西洋なら投げれば届くだろと嘯きつつ、猫をあやすので両手を忙しくさせる姿は、頑として返品を拒む態度であった。
「いただきものを投げ返すほどならず者ではないので。それより、サンタさんに僕の歳を伝えておいてもらえませんか。おとなになった事を知らないようだから」
「サンタがクリスマス以外バカンスしてるとでも思ってんのか。“いい子”のリサーチを完璧にやってんだよ。人間の大人にゃ“いい子”の範疇を極端に狭めて量るのもいるからな」
「完璧なら、どうして三十路を越えた僕に届くんです」
「穴埋めだろ。おまえが貰えなかった期間分の」
昔、子どもだった頃の譲介は、他者を痛めつけて生きてきた。
「……その期間、僕はいい子じゃなかった」
横たわった猫の体から浮き上がった掌が、譲介の頭頂部に着地して、昨晩の汗でもつれた髪を更にこんぐらからせた。いいこいいこの所作と呼ぶには乱雑に。猫へと同じ方法で。そのまま顔が近づいて「それが分かってるやつはいい子だよ。過剰に自分を苛むな。クリスマス本番に仕事ができないんじゃ、サンタも上がったりだ」左耳にささやいた息が正面に戻る。あなたは何をくれるんですかと譲介は尋ねた。
「プレゼントを受け取ってくれましたよね、昨日」
「見返りを求めねぇのがいい子ってもんだろ」
「だから、僕はいい子ではなかったんです。それでも、昔、“サンタさん”のリストから漏れた僕にプレゼントをくれたのはあなただ、ドクターTETSU。クリスマスだけの話じゃなくて。たくさん、あんなに、」
軽口の応酬だった声に震えがまじる。とうてい軽くは語れぬ感謝で。重さを厭われるだろうと一瞬だけ気にしたが、すぐに腹を据えた。こうして結婚してからも、やっかいなガキだとよく言われていた。その荷物を真田徹郎は背負って降ろさない。
「K先生の村やアメリカで、誕生日を祝われる機会がありました。誕生日は、僕は、生まれなければ捨てられなかった。勝手に生んでおいてと何度も怨んだ。だから誕生日は全然いい日じゃなくて、でもあんたがあの時、僕は捨てられたわけじゃなかったと教えてくれた時から、ひとが僕なんかのことで喜ぶのに付いていけるようになれた。まだ座り心地は悪いけど、お祝いしてもらえるのは嬉しいんです。サンタさんが来てくれるのも嬉しい。本当に。ただ直接、僕は徹郎さんとクリスマスを祝いたい。あなたに直接お礼を言いたいんだ」
同じことばを何度も繰り返してると焦りながら、回り始めた舌は止められなかった。下手くそな説得、懇願、それこそまさにガキの様相だ。
悔しさで頭が下がる。どこでもベッドにしてしまう黒猫が寝入りながらうるさげに耳を伏せていた。カップを置けと言われて、そういえばずっと持ったままだったことに譲介は気づいた。
猫から遠くに冷めた器を置く。その、斜めにひねった頸を大きな手が捕まえて、正面を向かせると、唇を熱が襲い、舌をやけどさせた。
獰猛な慰め。
ああこれはカップを落としていたな、猫が怪我するところだった、さすが徹郎さん、と感心したのも束の間、朝のキッチンで少々濡れた唇にゆっくり舌をしまう様子を見せつけられて、譲介は圧倒された。お互い独り身の頃から夜の寝台でしか見たことのない仕種だった。
徹郎は肩をそびやかした。
「来年はケーキをやるよ。サンタもなまものは不得手だからな」
「……そのケーキ、一緒に食べてくれなきゃいやです」
「おまえに言えたことか。まともにクリスマスを休めると思うなよ、医療者が」
「分かってますよ。二日連続の休暇なんて、今年が奇跡的でした。新婚祝いだって。来年は働く番だ」
「ワインにしとくか。それなら日を跨いでも保つしな」
「ケーキも食べたい」
「欲張りだぞ」
「新婚なので。ゆるしてくれるでしょう? ケーキ、別の日でもいいな。記念日を作りましょうよ。徹郎さんと僕と相棒の。毎年同じ日じゃなくてもいいから。ケーキを食べる、記念日」
「記念日っつうのか、それは」
「気の持ちようで。結婚記念日も休めるとは限りませんから」
お祝いは気持ちが大事なんですと手を伸ばせば、何度もキスした頬が擦りつけられた。相棒のように。飼い主も猫に似るのだろうか。徹郎の波うつ髪に隠された項を撫でる。昨晩もベッドで撫でたり、やわらかく噛みついた場所だ。「サンタさん」をくたくたにさせて捕まえたはずが、簡単に逃れられていた。けれど大西洋まで漕ぎ出すことはしなかった。
昨夜を思い出させる手つきを退け、わるく育ちやがってと徹郎は腕を組んだ。オレを腹ぺこにさせておくとはな、と。
セックスをした翌朝の食事の支度は譲介の担当と決まっていた。立ち位置を交換し、調理に取りかかる。なつこいくせに抱っこが嫌いな猫は、人間の相棒に眠りを邪魔されぬぁんと抗議するも、抱えられて譲介の椅子に移された。相棒用の椅子も机のそばに設けてあるのだが、どうしてか譲介の椅子に陣取ることを猫は好んだ。
猫をよけた場所をアルコール・ティッシュで徹郎がぬぐう。ついでにプレゼントの箱を机に移してくれた。元々じっとしていない方だったが、病を克服して以降、機敏さは増し、動けることを楽しんでいる彼とふと目が合って、譲介は微笑んだ。
「あなたが僕を好きになってくれてよかった」
徹郎はそうかよと素っ気なく応え、冷めたコーヒーをレンジにかけた。いま温めてもまた冷めてしまう、大体、淹れ直すのに。何か考えがあるのだろうと料理に集中する背中に、復温完了を告げるレンジの軽やかな音、徹郎の重たい舌打ちが響いた。カップを取らず席に戻ったその膝に、跳び移った相棒が、全身から放つ喜びで人類を釘付けにした。
そうだ。彼だって今日は休暇なのだ。
我々と共におとなしくしていてもらおうではないか。
仕事が好きな、僕のサンタに。