『千両万両あの赤をみよ』 今日は唐の書風をまねた。
学園の門番は入門票に名が記されたことに満足した。手蹟のちがいには目くじらを立てず。本人を証立てる筆の運びでなく、出入りの数ばかり重視する姿勢は、警固のつとめの半分も果たせていない。しかしそれでも忍術学園は陥落を知らぬのだから、無断で出入りすることの多い曲者にとやかく指摘する筋合いはなかった。
己が守る門の内に客を入れた小松田は首をひねった。
「伝言があるんです」
「なにかな」
「それがですねえ、今日のおあげがおいしかったなあと思い出していたら、隠れちゃって」
待っててください見つけますからと真剣な顔つきが空を睨む。鳥来る冬だった。鴨って食べたことありますかと忍者を志す若者が訊く。あれはね雁だよとタソガレドキ忍組頭は穏やかに答えた。「どちらも食べたことがある」
いいなあおあげと汁にすると合うんですよねえと、どうにも今朝の食事に思いとらわれた門番に、別れを告げてもよかったが、陽は時季を外れてうららかであった。
さて「伝言」は外から訪れた。
砂埃を蹴りあげた荒々しさが警報のごとく雑渡の名を空に放りなげる。こちらの姿を捉えるや、常に勝負を挑む彼がぎらぎらと駆けつける傍らには、珍しい長髪が揺れていた。観察の目が合う。にこりと長髪の少年は瞬きして、笑みがえがく唇に指を三本やわらかく押しあてると、雑渡に向かって手首をしならせ開放した。
掌と音。
ちゅっ
企てに巻き込まれている。雑渡は確信した。
わあかわいいと称賛する小松田に振ってみせた手を、肘に入れ替え立花は、隣の肩にのしかかった。私といっせいのでは恥ずかしいと断ったのは文次郎だぞ。呼ばれ、苦渋みなぎる眉間が雑渡を睨めつける。待ってあげないのは気の毒だったので雑渡は待った。そうだ仙蔵くん達が来るんです!と門番に今さら袖を引き止められたせいにして。
一文字をえがく口、ばしんと強く押しあてて、投げ捨てるような開放。
掌と音。
礼だッ
お礼らしい。やり遂げた顔で潮江が去り、立花がひとしきり抱腹する間に、食満と中在家と七松がわらわらやって来て、それぞれのなめらかさを披露した。食満の苦渋は婀娜な仕草を見せたゆえではなかった。伊作は医務室にいるとよりにもよって戦好きの城に仕える忍の頭で彼の友人をたいそう気に入っている男に教えねばならぬゆえであった。
最後まで残った立花が小松田には引き止め役の礼を丁寧に謝し、雑渡にはぞんざいな晴れやかさをふるまった。
「伊作の勝ちだ、と伝えてくれ」
立花の咲みは欺弄ではなかった。
雑渡は謹んで伝言役をつとめた。
「君の勝ちだって。仙蔵くんが」
迎えた伊作が炭櫃をすすめながら、賭けをしていたんですと謎の糸口を解いた。
「六年生で。次においでになるとき、雑渡さんが門を使うかどうか」
「私の礼容を信じてくれたのは伊作くんだけということか」
五徳の上の鉄瓶が気を吐いた。蓋をどけた湯面にくしゃくしゃの葉を散らす気楽の手つきを雑渡は注視した。湯気だって皮膚を焼く。重々気をつけてほしかった。
「あの出迎えが、負けのあかし?」
「好誼のあかしですよ。今日の限りではありますが」
発端はあなたがくださった唇脂で、
買ったのかと長次の声音がめったにない驚きを浮かべた。着替えの衣部屋に伊作が携えた紅のうつわは漆塗り。同じ図書委員会に所属する一年生のアルバイトの手伝いで長次は紅屋の商いに立ったことがある。公家や武家の門を出て市井に降りてきたといえど、化粧は高級品で、塗りは漆に貼りは螺鈿とくれば、学園の実習の一環でとうてい用意される代物ではない。
「ええ、うん、まあ、そう、かな」
伊作は歯切れ悪く答えるしかなかった。自分の物入れから出したその瞬間から同室の友人の凝視が離れないからだ。うそつけとついに直に留三郎が伊作の手首を捉えた。そして高々とうつわを天に掲げさせた。
「もらいもんだと思うやつ」
全員の手が挙がる。
「おまえとうとう紅を渡されたのか」
「とうとうってどういう意味、仙蔵」
「口説かれたんだな!」
「口説かれていません」
「……だが、いつもは菓子や玩具だ」
「そう。だから今回は実習用にって」
「ふうん。なら俺らで使い尽くしてやろうじゃねえか」
「留三郎がやる気で嬉しいよ。皆で使える量は十分に、」
「それで? 贈り主はだれなんだ?」
俺たちも使わせてもらうならただ使い尽くして礼状のひとつも認めないでは礼儀に悖るというものだ、と、文次郎が留三郎に対抗して長広舌をふるうの間、皆の心は斉しくなった。本気で言っている。
呆れて留三郎は腕を組んだ。
「おまえさっき、贈り主もわからんのに手を挙げたってのか」
「貰った事実は揺るがんだろうが。懐に銭があれば薬料に使い紅はすっかり忘れるのが伊作だ」
「そ、そんなことはない」
「私たちの話からわかりそうなものだがなあ。なあ、長次」
はやくも長押をひっくり返した小平太のことばに長次が肯き、仙蔵が挑発した。
「朴念仁は知らない方が実習に集中できるのさ」
なんなんだおまえたちと怒る肩を、そうだそうだと伊作が担ぐ。
「僕と文次郎をからかうために早起きしたんじゃないだろ」そして話題のかなめを文次郎に握らせ朗らかに「雑渡さんだよ、くれたのは」
学園にとって半ば敵、半ば味方の一国のしのび頭の名をありがたいよねと告げられて、文次郎は驚きの声もあげられなかった。固まった拳を仙蔵がこじ開け話題をさらう。繊指に似合わぬ力強さで。敢然と宣言した。
「今日は私が仕切る」
本日の実習は町に立つ市で“遊ぶ”ことであった。忍者のたまごだと決して気取られず。忍術学園で学んだ六年間は、よわい十五の六人の身動きを変えた。静けさと軽やかさ。水であり風であり土であり木であり草である、ただ其処に在ることが自然なものとして。騒々しさにおける「自然」とはつまり身につけた習いに殷賑の衣を纏うことであった。
仙蔵は宣言どおり、築かれた布の山から各々の衣をより分けた。おんなものじゃねえか、動きにくいのは嫌だと、留三郎と小平太が垂らした文句は紅をかざして退けた。
「おとこ衆の恰好で繰り出して、六年生の実習と言えるか? 安心しろ。この紅にふさわしい顔に仕立ててやる。作法委員長を任された私の腕でな」
それぞれに渡された小袖をぐるりと眺め、文次郎は同室のおこないに揶揄がいっさいないことを確かめた。
「わかった。存分にやれ」
「さすが私の文次郎」
「だれがおまえのだ」
着つけの不足は互いに鏡となって補った。得物とともに会得した胼胝を隠し、短い髪にはかもじを付け、おしろいをはたいた。ほそい穂先に水をつけ、のばした紅を口に引く。はしゃぎ、落ち着き、艶っぽさ。まろみ、知恵者、凛然と。各々が演じる面を仙蔵は拵えた。
誰もが称賛をあげ、誰も作法委員会が修める化粧とは隕された首に施すものであることを口にしなかった。いずれいくさの道具の生徒達はただ出来映えを楽しんだ。にがいと唇を舐めてしまった子どもが笑った。
「誰も怒らなかったな」
「なにを?」
尋ね返す伊作の顎から仙蔵は指を離した。ひどい?、と重ねられた問いに、直した方がいいと答えてから本題に戻った。
「私が学んだのは死化粧だと」
「でも、ひとの顔を文るものでしょう。そんなに違いがあるかな」
「有るとは言えん」
娘のひとりが紅の剥げた顔を袖で隠して俯いて、その背を連れが慰め歩む。
「だが、不吉だ」
「さっきのは人助けだ。ぜんぜん不吉の結果じゃない」
せっかくの装いが台無しになったことに、はずかしがる素振りの奥で伊作はしのび笑った。
「君の不吉がこの程度なら、僕の不運に勝てっこないね」
お礼にもらったセンリョウの、正月迎える縁起の一枝を仙蔵は軽く振りあげた。
「まったくだ。おまえの不運に勝てるやつはいない」
「嬉しくないんだけど」
「――おまえは、ちょっと信じられないような目にばかり遭っても、生きているだろう」
「うん。それに歩いてる」
「まぜっかえすな。そうだ。化粧は化粧だ。身を飾るのが目的だ。覚えたものは死後の習いでも、私は今日、おまえたちの生きた顔に化粧をしてやれた。うつくしい顔をさらにうつくしくな」
文次郎は別だがとぼそり呟かれた照れ隠しに伊作は真剣に応えた。文次郎もきれいだったよ。そうか、と仙蔵の肩から力が抜けた。ならよかった。
「おまえたちの最期に、化粧を施してやれる暇はない」
「そうだね」
「あんなに良い紅で。未練がひとつ減った」
深い緑の葉の台にみっしりみのる赤い実に鼻を寄せた仙蔵の横顔は満ち足りてうつくしかった。だから伊作は引き止めた。
「だめだよ。減ったら増やして。未練をたくさん抱えてよ。僕らはずっと生きのびる方法を教わってきたじゃないか。ちょっと対うに渡りかけても、未練を思い出して帰っておいでよ」
「……確かに、私たちは川を越える方法をいくつも知っているな」
友の頬が不敵に上がる。伊作の好きな表情だった。
使っていいと示された井戸に至る路地の前でふたりは一旦別れた。市に目立つは店じまい。刻限過ぎた集合の場所におもむく先ぶれと離れ、一路目指した井戸端には先客が在った。
衣は違えど馴染みの影。目許を蔽う笠のふちを押しあげて、影は隻眼の男に姿を変えた。やあ勇ましいむすめさん。娘はぺこりと頭をさげた。実習は終わっていない。井戸を貸していただけますか。もちろん私も借りている身です。男は親切に水を汲んでくれた。臘月の夕暮れ。桶の水鏡は曖昧にしか娘の顔を映さなかった。一方で興味津々の男の顔はまだ明るかった。使い方をご存じでしょうか。娘は紅を取り出した。受け取ったうつわの細工を男は掌に包んだ。存じていますとも。桶にひたした指先に紅をなじませ、仰ぐ娘の唇に男は触れた。
僅かにひらいた上下の唇を往復する指は噛みごたえがありそうだった。伊作は隙間を閉じた。閉じ込められた小指はけれどすぐさま檻から脱した。塗りすぎたかな。懐紙が近づく。己がどうしたいか伊作は分かっていた。紅の贈り主を見返す。この人の最期に僕が間に合うことはない。近づくその袖で余分の脂をぬぐった。血とは異なる赤さを残す。縁起の赤を。洗濯番に怒られたら君のせいだと言おうと雑渡が笑った。
茶杯に口つけ喫した熱が肚にじわりと火をともす。善法寺伊作とふたりきりの時、雑渡昆奈門はよく頭巾をゆるめた。面を交わした最初から、雑渡の火傷の残痕を坦々と受け入れた相手に今さら秘める素顔もない。供される飲食を疑わず、顔をさらして弱みにならぬ場所が己が領土のほかに在ることは、一国の忍の頭にあるまじきとて、嬉しいことだった。
同じ茶をたしなむ伊作が、あの実習ではみんなで満点を取れましたその感謝のしるしを考えたんですと話を簡潔に結んだ。
「あの時のか。私は見事に洗濯番に叱られたよ」
「……僕のせいだと?」
「言っちゃった」
「言っちゃいましたか」
「次は染みを作らせるなってさ」
腕一本も隔たらぬ、若い顎をさする催促は冗談の所作だった。
けれど伊作の手元に紅は現れた。身に帯びてくれているのか。雑渡は驚く自分に驚いた。その隙に伊作はさっと唇を塗り終えた。うちの作法委員長直伝の早塗りですと自慢をひとつ、接吻をひとつ。
ふわりと接してふわりと離れた首が、付いてないと傾げられ、膝を寄せ、雑渡の肩に手を置いて、雑渡がつい正面の腰に回した腕を揺すり落とした。
「僕がするんですから。動かないでください」
深く長く煽る、感謝のしるし。
六年生が勢揃いして、時機よく伊作が医務室にいたのは偶然ではない。雑渡は伊作が寄越した文に従い今日の門をくぐった。勝負の岐路を天に頼らず、入念に勝ちは勝ち取られたのだ。勝負の駒とされたことに怒りはわかなかった。ひたすら愉快だった。こちらの思惑の外側を漂い、その不思議の軌跡を見せてくれる存在が。
動くなとは命じられたけれど、ねだるなとは言われていない。
私は動けないんだよと雑渡は催促した。
三度目の、口から口へ、化粧のうつし。
いぶした茶の味が舌にひろがった。