『ダイム・スイート・ダイム』 この店のドーナツも一通り食べきってしまった。
そもそも味が五つしかない。シュガー、シナモン、チョコスプレー、カラーチョコスプレー、青色の何か。最後のだって、最初に口にしたとき、TETSUは対面の、今はむすっと機嫌を斜めがけにした若いのと声を揃えてチョコだな、チョコですねと品評し合った。チョコ味であった。つまり厳密には味のバリエーションは三種類だ。けれど仕方がない。ここはダイナーであって、ドーナツショップではなく、しかもアップルパイが絶品なのだ。
二十二時を回って売れ残るドーナツの穴を眺めながら、TETSUがよしなしごとを考えるのは、会話相手の口がひん曲がっているからである。むくれている。コーヒーのお代わりを注ぎにきた亭主に、どう思う、と若者を顎でさしながら尋ねた。
「外してやりなよ」
亭主は肩をすくめ、前掛けに回収したコーヒー代のつりを置いてカウンターに戻った。
外してくださいよと、とうとう譲介が口を開いた。
外させてみせろよとTETSUは冷めゆくポテトを閉まる戸口に突っ込んだ。
芋から舌にへばりついた油をコーヒーの苦味で譲介は流し込んだ。
「……マジシャンに弟子入りしようかな」
「お誕生会にでも呼ばれたか?」
「今です。いま。あなたに披露する用にです」
皮肉で応じる余裕もないらしい。譲介は黙然の合間に手許に寄せたつり銭から10セント硬貨をつまむと、右手親指の爪に乗せ、上に弾いた。
くるくる。きらきら。
ここ、アメリカ合衆国第三十二代大統領の肖像が表に、炎をあげる松明と二本の枝葉が裏に浮き彫りされたワンダイム。二十四時間営業の看板に恥じぬ店内の照明。夜の暗さ何するものぞと楽しげに、銀色の笑いが、待ち受ける左の甲に舞い降りる。
そして右手の閃き。コインをはじき飛ばすしくじりもとうに昔の、両手の重なりをずいと突きつけ、儀式の呪文。heads or tails?
TETSUは悩むそぶりも見せなかった。「裏」
つづらの蓋が開かれる。譲介は呻いた。勢い下がったふわふわの頭をひと撫で、半端に浮いた左手から燃える松明を回収する。
さて、これで何枚目か。そういう細かなことを記憶するのは若い方の役目だったので、遠慮なくTETSUは尋ねた。
「今日で三枚。通算で六四枚目です」
「おや。オレの歳を越しちまったか」
一緒に暮らしましょうよ、とは、譲介から切り出されたものだった。
家賃は折半、家電は充実、職場に近くて、ピザがそっくり入る幅の冷凍庫とキングサイズのベッドが有るんです。
心惹かれるアピールではあった。いささか家具の宣伝に片寄りすぎてはいたが。常勤医師の譲介が夜更かしをしてよい晩――例えば今夜のような――に、同じ職場からやや離れたTETSUの住居に足をお運びいただき、ふたりでしか出来ないことをした。それから泊まっていくこともあれば、こうして夜食を経由して送り届けることもあった。TETSUの部屋にベッドの余分はない。遠からぬ処分のことを考えれば物を増やしたくなかった。くすんだ緑色のソファで背中を翌朝痛めることに飽きた譲介は僕も若くないのでと切り出した。
断るには立派な理由があった。TETSUの貯えの問題である。非常勤の医師として稼ぎは確保しているが、二十年弱体に巣食った病と加齢により、あと何年勤められるか。遠からぬ無収入のことを考えれば家賃の折半など適わない。若い譲介に金のことで厄介になりたくはなかった。
その前に死ねればいいのだが。
これを表白せば、かつて過ごした昔日の幼い顔つきで情人が泣くので、ポテトとともに噛み砕いた。
次はケチャップもつけてくださいと、一時間前の残り火をたたえた左手がTETSUの右手に添えられる。自分で食えとTETSUは皿ごと甘えを押しやった。
「手品を覚えて、サマするンならよ、完璧に騙せよ。騙されていることも疑わせるな」
「無茶苦茶を言う。それに、手品とイカサマは違うものですよ」
「あぁ? じゃあ弟子入りってのは何だ」
「表も裏も、出なければいいのになって。投げたコインがリムで着地したら、それもハズレではあるでしょう?」
「魔法だな」
「魔法に期待するしかないんです。今の僕は。ぜんぶ当てるんだもん。六十四回連続ですよ? コイントスに頼らなければよかった」
軽い誘いだったのは確かだ。無難にシュガードーナツを分けっこした晩、つり銭のダイムを見た若造が言い出した。徹郎さんは当てる方が得意そうだから外したら僕と暮らしてください。そしてつたないコイントス。回らず戻ってきた表裏の行く末はTETSUでなくとも見定められた。その後、どこで練習したものか。勝負の回転数は上がったが、TETSUの眼識もまた達者であった。
まあ、譲介と同居して生活費を折半すれば貯蓄は持つのだ、実際。体調も経済も家計も、このまま行ければ。同居の案を断るために自分を納得させる理由を考えるのも面倒になったので誘いを承諾したが、くだらない嘘を吐いて自ら勝負を降りるのは矜持に反した。
TETSUのベッドを訪ねては、ナイトボードの明かりに輝くクエイド印のばかでかいマグカップに貯めこまれた敗北の残骸を譲介はうらめしげに視た。中身が溢れたら今度はそっちが当てる番だと、まだ本人には告げていない。告げれば驚き、やる気で笑顔を満たすだろう。むくれる様子もカワイイが、毎日見るなら別の表情がいい。
コインは両面あって成立する。やり方のひとつが上手くいかないなら、もう一面を試せばいいのだ。
TETSUはいたって「器用」である。
譲介はきっと一発で当てられるだろう。
別な世界へと連れてゆく、夢の10セント硬貨を、TETSUは高く投げ上げた。