うららか 街はすっかり春を気取りだし、独特の匂いを帯びている。桜もまだ咲いていないのに、桜色と表現したくなるような匂い。
「あったかいな」
誰に聞かせるでもなく独り言ちた。否、隣にいる男にわざと聞かせるくらいの音量は出した。夜は冷えるからと着てきたジャンパーがやっぱり暑くて、街中で脱ぐのになんだか言い訳をしたかったのだ。
「そりゃサンガツだから、春なんだろ」
こちらを見ずにアイツが返す。月日の概念があることを意外に思ったが、まあ夏は暑がり冬は寒がっているのだからそのくらい当然か、と納得する。
うららか、と言えばいいのだろうか。耳元をくすぐる風がやわらかい。手元に畳まれたコートが恨めし気に重さを増すが、そんなことは気にならないくらい、陽気な気候だった。小さな女の子が走りながら、後ろを追う母親に手を振っている。はやく、おいてっちゃうよ。そういえば昨日はひな祭りだった。施設にいた頃は女の子たちみんなを祝う日だった。妹も例にもれず、その日はどこかずっと嬉しそうにしていたっけ。あの女の子も、昨日はきっと家族で祝ったのだろう。ひな人形とか、久しく見ていない。
「……ちらし寿司」
「は?」
「ちらし寿司ってなんだ」
アイツの目線の先を追うと、持ち帰り専用の寿司屋が、店先にのぼりを掲げていた。ひな祭り用のメニューだったのだろう。そして今日はその余りを安く売っているに違いない。クリスマスケーキと同じだ。全くこの国は、イベントごとが多い。
「混ぜご飯みたいなやつだ。いくらとか鮭とか、卵とか。食うか?」
「ああ」
今夜の献立がなんなく決まったことがこんなにも嬉しいのも、きっと春の陽気のせいだ。寿司屋で二パック、ちらし寿司を買う。インスタントな祝いの欠片はずっしりとしていた。
「チビ」
「何だ」
アイツはまっすぐ立っていると、ちょうど俺の耳元に口が来る。街中でいつもより声を潜めて俺に話しかける時、その吐息は妙にくすぐったい。
「遠回りして帰んぞ」
「ど、どうした急に。なんかあったか」
「別に。サンポ」
ニッと笑ったその笑顔がまぶしいのも、喜びを含んだ声が明るいのも、きっと春のせいだ。先を歩く彼の背に、はやく、おいてっちゃうよ、と駆けていった女の子を思い出す。そんなこと言ったって、俺の手にはジャンパーもちらし寿司もあるんだから、ちょっと待ってくれよ。
桜色の風をたくさん吸い込んで、いつもと違う道へ向かう。まだ陽は高い。始まったばかりの春を堪能して、夜もたっぷり味わおう。
どこかの民家の軒先の、立派な梅が満開だった。