猫 駅から彼女の家へ向かう途中に、古くから続く小さな煎餅屋がある。
老夫婦が営むその店はなぜか毎日二十一時頃まで営業していて、人もまばらになった暗い夜道を明るく照らしてくれている。
「あ」
俺の左隣を歩いていた彼女が小さく声を漏らして足を止めた。自分も足を止めて彼女の方へ視線をやると、丸い後頭部を彩る髪飾りが車のヘッドライトを浴びてきらめいている。
背を向けたままの彼女の視線を追うと、煎餅屋の軒先が見えた。暖かな光に照らされた煎餅が、ケースの中でところ狭しと並んでいる。さすがにこの時間になると醤油の香ばしい香りはしないが、こんがりとしたきつね色が食欲をそそるのは確かだ。いつも少食な彼女の食欲を刺激したのであれば、この機会を逃してはならない。
「……煎餅、買いますか?」
「っ、違うんです!」
俺の声に肩を大きく震わせて振り返った彼女の頬は赤い。両手を顔の前にやってぶんぶんと左右に振る仕草は照れ隠しなのだろう。可愛らしい仕草に目を細めていると、彼女は所在なさげにゆっくりと両手を下ろしてから、右手の人差し指を煎餅屋の方向に向けた。
「猫ちゃんが、ごはんを食べているんです」
細い指が指した先――ショーケースの上、商品の引き渡しや金銭の受け渡しが行われるであろう場所に、一匹の猫がいた。茶トラと呼ばれる色合いをした猫はごく限られたスペースにわが物顔で座りながら、年季の入った茶椀に鼻先を突っ込んでいる。彼女の視線は、そんな猫の様子に釘付けだ。
「猫ちゃんって」
「ん?」
「猫ちゃんって、ご飯を食べているだけなのになんであんなにかわいいんでしょうか」
ほう、とため息を吐くように呟いてから振り返って俺の方を見上げる彼女は、猫に出会えた喜びが隠し切れないのか、目元も頬もあまくゆるんでいた。
「……食事をしているときもかわいいのは君も同じだろう」
「へあっ?」
素っ頓狂な声を上げる彼女をよそに、食事をしている彼女の様子を思い起こしてみる。うん、俺からすれば、猫よりも彼女の方がかわいくて仕方がない。俺の目の前やはたまた隣で、食事を口に運んでは破顔する――美味しい、楽しい、大好き、幸せ――嘘偽りのない彼女の表情がたまらなく愛おしいのだ。腹がいっぱいになるよりも先に、胸がいっぱいになるような気さえする。
それに彼女と過ごしていると、たまに「彼女は猫なんじゃないか」と思わせるような仕草をすることがある。
例えば、細い体を抱き寄せると胸板に額を擦り寄せて甘えるところ。眠る時は、すっぽりと俺の腕のなかに収まり、小さく丸まって眠ってしまうところ。
一緒に出掛けたときに気になるものを見つけたら、握っている手にわずかに力が入るところ。手を繋いでいない時は袖を小さく引いて、これはどうやら無意識らしい。その後、アーモンドの形をした大きい瞳が俺を映して「なんでもないです」と言わんばかりに目を逸らす天邪鬼なところ。
「よしよし」
「っ、れ、煉獄さん!」
整えられた髪型を崩さないように細心の注意を払いながら、まるい頭のてっぺんを軽く撫でてみる。
「猫もかわいいが君の方がかわいいと思うぞ」
「いやいや、猫の方がかわいいです。私、時折思いますもん、猫になりたいって」
「……なぜ?」
「自由気ままで、いいなって。煉獄さん家の子になろうかな」
「……」
「どうですか? 煉獄さん?」
猫になった彼女と暮らす、という想像はなんだかとても難しいものに思えた。言葉を続けるよりも想像を張り巡らす方が勝ってしまい、流れる沈黙。車道を走る自動車のエンジン音が近づいては遠ざかる。
俺と彼女との間で流れる沈黙を破ったのは、細く小さな声だった。子猫のような、それでいて子猫よりも弱弱しい鳴き声は、俺のごく近くから聞こえてきて――目の前には顔を茹で蛸のように真っ赤にした彼女が、恥ずかしさからか目を潤ませながらこちらを見上げている。唇が小さくわなないて、このまま沈黙が続けば今にも泣き出してしまいそうだ。
「――君が猫になったら困るなあ! 非常に困る!」
そうだ。俺は君が人だから、君を好きになったのだ。君が人だから、今こうして共にいる。もしも、君が猫だったら言葉を交わすこともできないし、さらには一緒に食事にも行けない。こうやって並んで歩くこともできない。抱きしめて眠ることはできたとしても深く体温を分けあうことはできない。
「っ、しゃー!」
「ああ! 怒らせてしまった。すまないすまない」
君が猫になってしまっても、きっと心の底から愛しくてかわいいのだろう。それでも、人と猫で与えられた命の時間は大幅に違う。それを考えるだけで、実のところ心臓が締め付けられるぐらいには苦しくて俺は情けない男なのだと自覚する。
他愛もないやり取りにくふくふと笑う彼女につられて頬が緩む。こんな時間が永遠に続いたらいいのに――なんて、ありもしないことを願ってやまない。
「やっぱり……猫ちゃんはかわいいですね」
「でも、猫になってはだめだ。君は君のままでいてくれ」
「もう」
長く足を止めていたせいか、店主であろう年配の男性が俺たちの存在に気付いてショーケースの奥で立ち上がった。どうやら煎餅を買うつもりは彼女にはないようで、申し訳ないが猫に背を向けて再びゆっくりと歩き出す。もう少し猫を見ていたかったのか、一度だけ後ろを振り向いた彼女は食事を続ける猫の姿を目に焼き付けていた。