推しとは「その日は……えっと、友人に誘われてアイドルのコンサートに行くんです」
受話口の向こう側の煉獄さんが、小さく息を飲んだ気がした。なぜか実家で飼っている犬の、直前まで散歩に行く準備をしていたのに雨が降り出して中止になった時の落胆の表情が浮かんで、申し訳なさから謝罪の言葉を続ける。
お互い企業に属し、朝から晩まで働く身。弊社の「取引先」という関係性から「恋人」という進化を経たとはいえ、日々忙しく過ごす中で煉獄さんと私の予定が合うのは、基本的に休日一択となっていた。しかし、営業として日本全国を飛び回る煉󠄁獄さんにとって仕事や打ち合わせの予定によっては、休日を移動にあてるため、実際のところ休日はあるようでないに等しい。
今はだいぶ減ったというが、最低でも月に2回は出張で地方へ行くので、会うことができる日が限られるのは必然でもあった。なので、平日は寝る前の三十分ほど通話することが常である。それも、お互いの生活や仕事への影響を鑑み週に二回程度。声を聞けるだけで私としてはすごく幸せなのだが、やっぱり一分一秒でも長く煉󠄁獄さんと直接顔を合わせて声が聞きたいのは、惚れた弱みというものだろう。
そんな私にとって、煉󠄁獄さんと休日が重なることは一緒に過ごすことができるチャンスであるのだ。だというのに――。
「いや、いいんだ。君が、その……コンサートに行くのが意外だと、思って」
「地元の友人が追いかけてるアイドルのコンサートのために上京するんです。久しぶりに会うついでに、友人にコンサートに誘われてしまって――」
「それはいいことだな。楽しんでおいで」
「せっかく誘ってくださったのにすみません。友人の布教の力強さに負けてしまいました。友人がせっかく手に入れてくれたチケットで席に穴を開けたくないので、全力で楽しんできます」
「ふふふ、それが一番だ。でも、羽目を外しすぎないようにな」
もう、と唇を尖らせれば、私の仕草を知ってか知らずか煉󠄁獄さんの柔らかな笑い声が耳に届く。
ああ、コンサートも楽しみだけど、煉󠄁獄さんと会いたかった。電話じゃなくて、直接煉󠄁獄さんの声を聞きたい――そんなことを考えていれば、急に静かになった私を不思議に思った煉󠄁獄さんの、問いかける声はひどくやさしい。
「そういえば、煉󠄁獄さんは、好きなアイドルとか女優さんとか――いわゆる『推し』はいらっしゃいますか?」
「……すまない、『推し』とはなんなのだろうか?」
お気に入りのアイドルやキャラクターなど、自分にとって「特別な存在」を一般的に「推し」というらしい。対象はアイドルや俳優をはじめとする実在の人物のほかに、アニメ、漫画、ゲームなどの2次元のキャラクター。それ以外にも動物や食べ物、乗り物、建物などが「推し」の対象となりうる。
煉󠄁獄さんに「推し」について説明をしながら、私は頭の中である答えに行き着いた。
「私からしたら、煉󠄁獄さんは『推し』ですね」
「俺が? 君の『推し』?」
「でも、煉󠄁獄さんは御社の皆さんからも他の取引先さんからも愛されてそうだから、煉󠄁獄さん『推し』の方がたくさんいそうですね」
「……そういうものなのか?」
「そういうものですよ」
そもそも、バレンタインでアイドルも真っ青になるほどチョコレートをもらう煉󠄁獄さんだ。きっと本人の預かり知らぬところで「煉󠄁獄さんファンクラブ」が存在している可能性が――いや、絶対にある。
そして、私が煉󠄁獄さんの勤めるキメツ商事の社員だったら、間違いなくファンクラブに入会するだろう。
たとえば総務部や経理部あたりに配属されたとしよう。煉󠄁獄さんになら書類の提出期限などこっそり融通を利かしてしまうかもしれない。いや、そもそも煉󠄁獄さんはきちんと規則も締め切りも守りそうだからその心配はないか。でも、煉󠄁獄さんとエレベーターで乗り合わせた日は一日仕事頑張れそう。想像を膨らませる私をよそに、受話口から「ふむ」と一言、私の耳に届く。
「それで言ったら、俺の『推し』は君ということになる」
「ひえっ?」
「俺にとって特別な存在を『推し』と言うのだろう? じゃあ、君しかいない」
煉󠄁獄さんの言葉が鼓膜を揺らして、頭の奥から体全体を燃やしていくようだ。言葉の意味を上手く飲み込めなくて母音しか紡ぐことができない。心臓が慌ただしく脈打って息の仕方がわからない。時間が止まっている気さえする。こんな、こんな――。
「……煉󠄁獄さんは、もっと『推し』としての自覚を持った方がいいです」
「ふふふ、それはお互い様じゃないか?」
いたく柔らかな声で「コンサート、楽しんでおいで」と続けられて、少しだけ思考が現実に戻ってきた気がする。そうだ、埋め合わせを――と己の予定を確認するために、鞄の中にしまわれた手帳を取ろうと腕を伸ばした瞬間。
「心が狭いと思われてもしょうがないのだが、その、あまり俺以外の男性を目に映し過ぎないでくれ」
前言撤回。鼓膜をあまく震わせた音の意味を理解するよりも早く、言葉にならない悲鳴を上げながら天を仰ぐ。煉獄さんがアイドルだったら本気で恋に落ちるファンの女の子数知れず――そんなことをぼんやりと思いながら「推し」からの言葉の破壊力に、心の中で左右の手のひらを合わせるのだった。