初恋の人はいい香りがした 学園の最寄り駅から電車で四十分ほどのところにある国立公園が、新入生が交流を深めるべく設けられた校外学習の場だった。
まだ四月の下旬だというのに、照りつける日差しはどこか夏の鋭さをはらんでいて、最高気温は三十度を超えるらしい。
私立キメツ学園の制服のリボンを初めて結んだ日は、冷たい風が吹いて肩を竦めるほどだったというのに――公園で一番大きな広場で整列させられている間も、先生の説明なんかまったく耳に入ってきやしない。じりじりと焼け付くような日差しと、首の後ろを伝う汗の不快感から逃げ惑うように顔を伏せた。
視界が揺れている気がするのは慣れない暑さのせいだろうか。すぐに自由時間に入ってよかった、と胸をなでおろしながら近場の大木の木陰に入り、膝を抱えて座り込む。くっつけた膝と膝の間に額を預けて、息を吸ってみる。だからと言って肺が大きく膨らむことも、ぼんやりとした思考が鮮明になるわけでもない。胸がつかえるような気分の悪さも相まって、体をさらに小さくして抱え込んだ。
「きみ、大丈夫か?」
少し青臭さのあるにおいを感じたと同時に耳に届いたのは、低くて、どこか温かい声。ただでさえ暑いというのに、その暑さもくるんでしまうような、陽だまりの中にいるような気分になった。
おそるおそる顔を上げると、上半身を折り曲げ両膝に手をつきながら、こちらを覗き込む煉獄先生がいた。木漏れ日の光を浴びた特徴的な髪の毛は、金色に輝いていて眩しさに目を細める。
「……あつくて、ぼーっとします」
「動けそうには……ないな」
「はい」
なんとかひりだした言葉はあまりにも幼稚だけれど、恥ずかしさなんて二の次だった。顔を上げたくても頭が重く、わずかに左右に揺れるだけ。私の動きを見た煉獄先生は先程より小さな声で「無理をしなくていい」と呟いた。芝生と土を踏みしめる音がして、青臭いにおいが濃くなっていく。
遠くで男子生徒の笑い声を聞きながら、ゆっくりと息をする。吸って、吐いて、吸って――背中に温かいものが触れた。
「失礼。嫌だったら言ってくれ」
私の呼吸に合わせて優しく上下するそれは、きっと煉獄先生の手だ。私の背中をすっぽりと包んでしまうかもしれないぐらい、大きい。ごつりと骨ばっている部分が、私の背骨をかすめていく。
少しずつ息を吸う量が増えて、吐ききる長さが伸びてきた。吹き抜ける風に心地よさを感じる頃には、胸の奥の不快感が消えていた。
「ちゃんと呼吸ができてえらいな」
ふと、息を吸う度に香るみどりのにおいの中に、石鹸のようなやさしい香りが混ざっていることに気付く。香りの出処を探るように、息を吐ききってまた吸い込む。
「水は飲めそうか?」
小さく頭を上下させた。頭の重さも靄がかかったような思考も少しずつ晴れている。
「顔は上げられそうか? ゆっくりでいいぞ」
膝から額を離し、のろのろとした動きで顎を上げていく。眩しさにたまらず目を閉じるとまぶたの裏側が白んだ。背中にあった先生の手のひらは離れていた。
「汗がすごいな。これで拭くといい」
左隣に視線をやると、右手にペットボトルの水を持った煉獄先生が、真っ白なハンカチをこちらに差し出している。
「ありがとう、ございます」
まだうまく動かない体を叱咤して両手を伸ばす。先生のハンカチに触れると先程感じた石鹸のような香りがした。
石鹸と一言でまとめてしまうに惜しい香りは、爽やかで、甘くて、でもどこか香辛料のような、ピリリとした鋭さもあって――これが、大人の男性の香りなのだろうか。
香りの出処は、やはりハンカチだった。わたしの汗を吸う度に香りが薄く消えていくことに、寂しささえ覚える。もう少し――まだこの香りを感じていたい。
そう思うと、無意識に「せんせい」と呼んでいた。煉獄先生は、特徴的な眉尻を柔らかく下げながら「どうした?」とこちらの顔を覗き込んでいる。
この香りは先生の香りですか――この香りをもっと近くで感じるにはどうすればいいですか――なんて、欲にまみれたことを口走りそうになって、思わず口を噤む。頬は不自然に熱を持っているにちがいない。体調不良とは別の原因で赤くなる私の顔を見て、慌てる煉獄先生の右手から半ば強引に水を奪い取る。わずかに残る香りを私の中に閉じ込めるように、水を一気に流し込んだ。
「先生、もうすっかりよくなりました。ありがとうございました」
「それはよかった! くれぐれも気をつけて帰るんだぞ。明日も調子が優れないなら無理はしないように」
「はい。あと、ハンカチは洗ってお返しします」
「いいや。きみは何も気にしなくていい」
校外学習中に不調を訴えていた女生徒は、水分をとり木陰で休むことですっかり調子を取り戻したらしい。いまだに慣れない環境と季節外れの天候は、まだまだ成長途中の体に負担が大きいのだろう。
ハンカチを受け取ると、女生徒は首を傾げながらこちらを見上げていた。
「どうした?」
「いえ、やっぱりなんでもないです」
頬をわずかに染め、はにかんでから帰路につく小さな背中を見送りながら、ふと一人の女性の顔が脳裏に過る。
興味があるものは食事――特にスイーツや甘味ばかり――な俺は、洒落たものを身につけることに関して最低限の労力しか割いてこなかった。
しかし、一人の女性との出会いが、少しずつ俺の人生をあまくて愛しいものへ変化させている。もちろん、現在進行形で。
「きみはいつも、美味そうなにおいがする」
月に一回のペースで開催されていた「スイーツを味わう会」が、片手の数を超えた頃だった。俺の手の中にあるメニュー表を覗き込む彼女から香った桃の香り。ジャムのように煮詰められた「美味そう」なそれは鼻腔を抜けて俺の食欲を見事に刺激した。
あとから知ったのだが、それは彼女のお気に入りの香水の香りのひとつらしい。あるときはもぎたてのオレンジ、あるときは洋梨のコンポート、あるときは砂糖漬けにした柚子――彼女に近づけば近づくほど感じる「美味そう」な甘い香りに、何度生唾を飲み込んだだろう。
先程まで女生徒の手にあったハンカチは、くしゃりと皺が寄っている。畳み直すために広げていくと、わずかに香る石鹸のような香り。
『石鹸みたいに爽やかだけど、最初はスグリの果実の香りで、その次がグリーンフローラル。最後はウッド系のスパイシーな香りになるの。これだったら、学校に着けて行っても大丈夫かな、と思って』
照れくさそうにはにかむ彼女から渡された香水は、その年のクリスマスプレゼントだった。『甘いものじゃなくてごめんなさい』と眉尻を下げ、緊張のせいかどこか強張っていた彼女の表情は、ゆっくりと解かれるリボンに合わせて緩んでいく。
それ以来、俺はすっかりこの香りを気に入ってしまった。
「おーい、煉獄! 俺等も帰るぞ!」
「ああ! 今行く!」
そして今となっては、毎朝玄関先で足首とハンカチに香水を吹きかけていると、後ろから可愛らしい足音が聞こえてくるのだ。
俺の肌に香水が乗って間もない頃の、瑞々しい香りが好きだと抱きついて、全身に取り込むように大きく息を吸う。少しして、どこか照れくさそうにはにかむ愛しい存在――明日も明後日も、この営みが続きますように、と思いを馳せながら帰路につき始める教師団に追いつくために駆け出した。