執りつく粒子「皆さんさっきお菓子召し上がりましたでしょ。あれに黒いツブツブが入ってたの、気付かはりました?」
何処か含みのある笑みを浮かべた僧はもったいつけるように座を見渡した。
「あれはね、死んだ鈴虫を潰したものですねん」
――うまいもんだ、と素直に思った。
たった三分にも満たない時間で、壮年の僧侶は二十畳の座敷に所狭しと居並ぶ老若男女の注意をしっかりと引きつけたのだから。
鈴虫の鳴き声が響き渡る中、小さく上がる悲鳴や驚嘆、そして笑い声。人によってはトラウマになる内容かもしれないが、アイスブレイクの話題としてこれほど巧みなものはないだろう。
僧侶は寺社の沿革、謂れから始まり、釈尊の教えを飄々とした語り口で淀みなく紡いでいく。
ちらりと周囲に視線をやれば、誰も彼もが食い入るようにへらりと食えない笑みを貼り付けた僧侶を注視していた。
不遜にも、欠伸を噛み殺すような者は一人もいないようだ。同じ人を教え導く立場の人間として、これは心してかからねば――そう思い直し改めて居住まいを正した。
「――執着したらあきまへん、言うんがお釈迦様の教えでございます。さあさ、皆さまこの教えを留めていただいて、よい修学旅行にしてくださいな」
三十分はあっという間に過ぎ去り、僧侶はそう言って締め括った。
己が教鞭を執る私立キメツ学園高等部における、今年の修学旅行の行先は京都だった。三泊四日の日程の中でクラスごとに各地区をめぐり、歴史におおいに触れる内容である。
しかし、担当教科にも縁が深く学生時代から幾度となく訪れていた京都でも、嵐山・嵯峨地区に関しては片手で数えるほどだった。鈴虫の鳴き声が鳴り響く寺も存在自体は聞き及んでいたものの、足を踏み入れたのはこれが初めてである。
境内を散策する生徒を眺めていると、あるはずがないのに口の中がざらついた気がして、先ほど食べた茶菓子のことを思い出す。僧侶のしたり顔が頭に浮かんで苦笑が漏れた。
それにしても、白い色の包み紙から出てきた菓子は、鮮やかなピンク色をしていた。隣の生徒のものは白い色をしていたので、紅白の二色があるのだろう。僧侶の言う黒いツブツブは結局なにかわからずじまいだが、口に運ぶと柑橘のようなさわやかな風味が鼻へ抜けて、舌の上で柔らかくほどけていく。落雁かなにかの一種なのだろうか。寺の粋なはからいということもあってか、その菓子はとても美味く感じた。
集合時間まで少し時間があったので、寺務所内の授与所を覗いてみる。せりだされたカウンターの上には金色の小さな札が並んでいた。どうやら御守りのようで、御守りの中にはこの寺で祀られている幸福地蔵菩薩の化身が入っているそうだ。日本で唯一わらじを履いた地蔵菩薩は、願った者の願い事を叶えるために歩いてやってくるというものらしい。
「俺は彼女できますようにって願う!」
「俺は次の部活の試合で勝ちますように、だな!」
男子生徒数人が、思い思いの願いを口にしながら金色の札を手にしていた。嬉しそうに笑みを浮かべる生徒たちの顔はみな輝いている。しかし、願うといっても幸福地蔵菩薩の前で手を合わせてからでないと意味がないのではなかろうか。
「君たち、地蔵菩薩のところへは行ったのか!?」
わっ、と一瞬目を丸くした生徒たちが「レンキョかよ~」「びっくりしたあ」などと口々に呟いている。その内の一人が「あ」と声を上げた。
「煉獄先生もなにか願い事するんですか?」
気が付けば、近くにいた男子生徒数人が喜々とした瞳でこちらを見上げている。頬には「好奇心」「興味津々」という言葉が貼り付けられているのが目に見えて、小さく吹き出してしまった。
「そうだな、君たちが無事にこの旅を終えてくれることを願おう!」
「え~、俺たちはいいからさ。先生も彼女できますようにって、イテッ!」
「ばか、お前先生には一人や二人、三人ぐらいいるだろ」
「ふむふむ、聞き捨てならないな! そもそも、俺に恋人は――」
言いかけて、ふと、一人の女性の顔が頭に浮かんだ。甘いものを頬張ると目がゆっくり細められ口元が緩んでいく。一瞬、泣き出す直前のように眉根が寄ったかと思えば、笑顔が弾けだす。耳の奥で鈴の鳴るような声がこだまする。
『煉獄さん、このお菓子おいしいですね~!』
きっかけは母から勧められた見合いだった。まったく乗り気のしない時間ではあったが、場所が一流ホテルのパティスリーと聞き、つい首を縦に振ってしまった。緊張をひた隠すように彼女が来るまでにケーキを三個食べ終えて――四個目のケーキがサーブされる前に現れたのが、彼女だった。
甘いものに目がないが女性の多い店にはなかなかに入り辛く、食べることができていないスイーツがたくさんある、と伝えた彼女が瞳を鋭く光らせて、そこからあれよあれよと決まった次の予定。そして、一回、二回と甘いものを食べに行っているうちに、彼女の表情から目を離すことができなくなっていた。
生徒たちが地蔵菩薩の元へ向かいだす。少しずつ辺りに静けさが戻ってくる。再び授与所に視線を向けると薄い紅と白の紙に包まれた――先ほど口にした菓子が綺麗に箱に詰められていた。
「彼女と京都に来たい、なんて願ったら、罰があたるだろうか」
僧侶の流れるような京都弁で紡がれた「執着してはいけない」という言葉がよみがえる。それでも、この街は素晴らしい甘味であふれている。店内に入ることすら予約が必要な和菓子屋を巡り、寺町や錦通りで食べ歩き、有名な豆大福を買って、鴨川沿いに並んで座り食べるのもいいだろう。
想像するだけで胸の奥がとくりと脈打った気がした。その甘さは、先ほど食べた落雁に似ている。甘くほどけていくのに、ざらりと舌の上に残る「なにか」。それが「執着」というのならなるほど僧侶の言葉通りで、苦笑を浮かべるほかない。
「すみません、このお菓子をひとついただけますか?」
彼女へ渡すときに僧侶の最初の言葉を言うべきか否か――そもそも、あの黒いツブツブの正体はなんだったのだろうか。釣銭を受け取りながら訪ねてみれば、授与所と境内を隔てるカウンターの奥に佇む若い御坊はあっさりと答えを出したのだった。