あんず色より濃くあかく ここは私立キメツ学園――の中庭の、そのまた一角にある休憩スペース。等間隔に設置された三人掛けのベンチの端っこに腰かける。大きな声をする方を見やれば、メイド服のスカートの裾をひきずりながら、金髪の男子生徒が涙声で叫びながら歩いてるのが見えた。
正門、校舎、はたまた中庭やグラウンドまでバルーンや思い思いの飾りで鮮やかに彩られ、さすが私立マンモス校の文化祭と言ったところか。自身の学生時代と比べても比にならないほどの豪華なそれに、たまらずため息が漏れた。
そもそも私立キメツ学園に縁もゆかりもない、いち社会人の私がなぜここにいるのか――事の初めは年明けまで遡る。祖母に勧められたお見合い。そこで出会った男性は都内でも有数の私立高校で教鞭をとる人だった。
教科は社会科――歴史、主に日本史――潰しが利く職業と、なによりも端正な顔立ちからして引く手数多にちがいない。そんな彼に対する私の中の第一印象は「なんでこの人がお見合いを?」だった。
見合いの場として指定された老舗高級ホテルのティーサロン。一面ガラス張りの窓から見える和モダン調の庭は剪定が行き届いていて、美しい。さらにそこから差し込む光は、目の前に座る彼の存在をより際立たせた。
新手の結婚詐欺に祖母が引っ掛かったのかもしれない――私の中の不安と緊張がよりいっそう加速していく中で、何か会話をしなければと思考を張り巡らせては、背筋に冷たい汗が流れていく。そんなとき、テーブルにいくつかのケーキがサーブされた。男性が先だって注文していたらしい。宝石細工のようにきらびやかなそれは、私の視線とぐるぐる回る思考を奪う。
瞬時に色気より食い気が勝った私は、すかさずメニュー表を手に取っていた。そうだ、ケーキに罪はない。高級ホテルのこれまた高級なケーキなんて、滅多に食べられるもんじゃない。しかも今回ばかりは支払いは祖母だ。
「……実は私、甘いものに目がなくて」
どこか恥ずかしそうに眉を下げ、二人の間に言葉を投げかけたのは、目の前の彼か私だったか、はたまた二人同時だったか。ただ「甘いもの」が私たちの距離を近づけたことは、間違いない。甘いものは、いつだって正義である。それが、私と煉獄杏寿郎さんとの出会いだ。
それから月に一回、休日にお互い気になるスイーツを一緒に食べに行くようになった。「女性が多い華やかなスイーツ店には、やはり入り辛さがあって」と照れ臭そうに笑う煉獄さんと、「甘いものはたらふく食べたいけれど胃袋に限界がある」私の利害は見事に一致した。
東においしいケーキのお店があるというなら二人で足を運び、西においしい和菓子屋さんがあるというのならまた二人で足を運び。都内有数の観光地の通りで食べ歩いては、新しくオープンしたスイーツ店の行列に二時間並ぶ。
この夏の我々を魅了したのはかき氷だった。しかし、夏が終われば秋が来る。栗、いも、かぼちゃ……秋を彩る素材を嫌いな人などいないだろう。九月も半ばになれば、街もこっくりとした色味へ着替えていく。
そろそろ煉獄さんに秋のスイーツの情報を共有して予定を詰めようと思っていた矢先、返ってきた返事は私の好奇心を大いにくすぐるものだった。
『文化祭の準備があるので、十月の休日は難しいんだ。申し訳ない。もし、きみさえよければうちの文化祭にこないか? ただ、いつもみたいに一緒に回ったりというのは難しいんだが……』
そんなこんなで招待状をもらい、やってきた文化祭。しかし、マンモス校なだけあって、生徒や保護者、招待客でどこもかしこもごった返している。校舎をすべて回りきる頃にはすっかり疲弊しきっていた。
煉獄さん曰く『一番人気の家庭科部の焼き菓子カフェ』は二時間待ち、さらにはテイクアウト分も完売で涙を飲んだ。なにも飲まず食わずでずっと回っていたから、さすがにスタミナ切れである。正門から通用口に向かう通路の左右にもいくつか模擬店があったから、そこで適当にお腹を満たすか、と腰を上げようとしたその時、足元に暗く影が落ちた。
「お隣、よろしいでしょうか」
いつもより溌剌とした声とどこか硬い口調に、弾かれるように顔を上げる。影を作った主は、私を今日この場に招待してくれた煉獄さんだった。両腕いっぱいに抱えている紙袋やビニール袋から中身が透けて見えて、煉獄さんらしさにくすりと笑ってしまった。
「お隣、どうぞ」
「ありがとうございます」
私と反対側のベンチの端――人ひとり分の距離を開けて、煉獄さんが腰を下ろした。私との間にある空間に、煉獄さんはどこか遠慮がちに、袋を置いていく。
焼きそば、チュロス、フライドポテト、チョコバナナ、ポップコーン……甘いにおいとソースのにおいが、空腹をより刺激する。ぐう、とおなかが鳴った気がした。煉獄さんは前を見つめながら、静かに手を合わせたかと思えば、フードパックに詰められた焼きそばを勢いよく啜りだす。
「……うまいっ!」
一緒においしいスイーツを食べたときとまったく同じ反応。それが、なんだか可愛くて、また小さく笑ってしまう。不躾だと思いながらも煉獄さんの食事をしている姿を見ていたら、私も焼きそばが食べたくなってきた。
でも、今ここを立ち上がって、焼きそばを買いに行く勇気はない。本来、今日は煉獄さんには会えないけれど「それでもいい」と言い聞かせてやってきたのだ。なのに今、煉獄さんが隣にいる。そして、焼きそばを食べる横顔を見るだけで、満たされている私がいる。
間違いなくお腹はすいているし、甘いものが食べたいけれど、ほんの少しでも煉獄さんの隣にいたいだなんて――。
「あー! 煉獄先生見っけ!」
三人組の女子生徒が、小走りでベンチにやってくる。看板を持っているから、クラスの模擬店への呼び込みをしている途中なのだろう。焼きそばを食べ終えた煉獄さんは、チュロスに伸ばしていた手を止めて、ベンチから立ち上がった。たちまち女の子に囲まれて鈴の鳴るような声が響き渡る。
「煉獄先生、うちらと一緒に回ろうよ!」
なんと甘美なお誘いだろう、と感動を覚える反面、彼女たちのみずみずしさに、どうしてか引け目を感じてしまう。
「この後は警備があるから無理だな! ところで、こんなところで油を売っていていいのか? 宣伝当番だろう?」
「でも、歩き疲れたんだもん」
「あと三十分あるしー」
「宣伝当番の責務はしっかり果たさないといけないぞ。そうだ、警備の当番が終わったら、君たちのクラスに顔を出そう。君たちのクラスに行くことを楽しみに俺も頑張るから、君たちも頑張れるな?」
「っ、やったあ!」
「絶対、絶対来てよね!」
小さくなっていく黄色い歓声と背中を見届けて、煉獄さんはまたベンチに座る。右手に持たれたチュロスは、ひと口で三分の二が消えていった。
「すみません、騒がしくしてしまいましたね」
「いえ、そんな……全然」
教師としての振る舞い、百点ではーー!? ある種の感動を覚えながら横顔を盗み見れば、煉獄さんの眉尻が柔らかく下げられていた。おいしいものを食べるときの、彼も知らない癖みたいなものだ。二口で煉獄さんの胃袋に収まったチュロスは、どんな甘さなのだろう――後で買おう、なんて思っていれば、煉獄さんがベンチから立ち上がる。
「嘴角! 人が多い場所でそんなに走るんじゃない!」
「ゲッ! ギョロギョロ目ん玉!? 今だけは許せ!」
生徒から返ってきたあだ名に呆然としていると、煉獄さんは再びベンチに座って食事を再開する。言葉を多く交わさないのはきっと彼なりの気遣いなのかもしれない。そう思うと沈黙もどこか優しくて、吹き抜ける風も心地よい。
フライドポテト、チョコバナナ、最後にレインボーカラーの綿あめを頬張って――綿あめはさすがに目が離せなかった――煉獄さんは「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
二十分にも満たない時間の中で、入れ替わり立ち替わり「煉獄先生」を求めて誰かが声をかけにくる。それは彼が信頼されている証でもあり、愛されている証でもあるのだろう。スイーツを前にして、とろけたチョコレートのように甘く笑う煉獄さんしか見たことがなかった私からすれば、とても新鮮だ。
煉獄さんが立ち上がる。ここまで大きな規模の文化祭なのだから、きっとこの後も大忙しなのだろう。一緒に過ごすことが叶わない寂しさはあるものの、新たな一面を見ることができたので胸の奥は満たされている。
ふと、目の前が暗くなった。不思議に思って顔を上げると、煉獄さんが私の顔を覗き込むようにして立っている。
「騒がしくしてしまって申し訳ありませんでした」
「そんな! にぎやかでとても楽しかったです」
「そうだ、これを――」
少し潜めた声と共に差し出されたのは、手のひらに乗る大きさの紙袋だった。二人の間を吹き抜ける風に乗って、ほんのりとバターの香りが鼻腔をくすぐる。受け取ると見た目の割にずっしりと重い。
「わが校の文化祭の一番人気、家庭科部の焼き菓子詰め合わせです。よければ召し上がってください」
「えっ? あ、え!?」
突然の出来事に紙袋と煉獄さんを交互に見やっていれば、さらにほんの少しだけ煉獄さんの顔が私に近づく。
「そしてこれは、あなたに食べていただきたくて」
次に差し出されたのは、細長い棒の先端に小ぶりの果実がついた飴細工。透明のビニール袋に包まれていて、お祭りで見かけるりんご飴を彷彿とさせた。紙袋を左手で抱え直しながら右手を伸ばす。
「では」
私が受け取ったのを確認するや否や、煉獄さんは踵を返し歩き出した。平たく柔らかな橙色をした果実は飴をまとい、宝石のように陽の光を反射している。
飴を包むビニールの根元ではタグが揺れていた。目を凝らしてよく見ると、そこには可愛らしい文字で「あんず」と書かれている。
全身が燃えるように熱い。熱さをどうにかするべく、勢いよくその場で立ち上がった。小さくなっていく煉獄さんの背中に焦点を合わせていけば、彼の耳たぶが私の頬よりも赤く色づいているように見えた。