雨想(途中まで) なんだかすごく、疲れたなー。
午前中に大学で単位のかかったテストを二科目分こなした後、午後一番に入っていた撮影に向かった。共演者同士のちょっとしたトラブルで撮影が無駄に長引いて、そのせいで次の仕事に遅刻をしてしまった。その遅刻だって本当は僕のせいじゃなかったのに、運の悪いことにその現場を仕切る有名司会者は僕のような若手を好まない人で、何かにつけてねちねちと一見わかりづらい嫌がらせをしてくる。勿論ただそれを受け止めるだけでは生きていけないと分かってはいた。僕の理念と反すると分かっていても、上下関係に厳しいこの業界で言っていいことといけない事があるくらいはちゃんと知っている。
笑顔の仮面の下でぐつぐつと沸き上がる感情を押し殺し、ようやく仕事が終わったかと帰路につくため駅に向かえば人身事故で電車が遅延していると来た。もう半刻ほどで日付が変わる時間だと言うのに、後何時間待ちぼうけになるのだろう。はぁ、と大きくため息を着きそうになって、人の目がある場所だということを思い出しどうにか堪える。まだ、誰かに見られているかもしれない場所でイメージを下げるような行動だけはしたくなかった。
──ただ今、○○駅で発生しました人身事故により、上下共に運転を一時見合わせております。再開の見込みは零時半ごろを予定しており、……
読みなれているのだろう。すらすらと再開予定時刻を読み上げていく駅員さんの放送が流れ、あたりがざわつく。……僕も、一応明日大学があるんだけどなー。
いっそ改札から出て、近隣のビジネスホテルにでも泊まってしまおうか。そう思ったけど、既に何人ものサラリーマンが慌てて改札を飛び出しているのを見るともうビジネスホテルだって空いていないんじゃないかとも思う。タクシーだって、遠目で見ても大勢の人が並んでいてあれでは電車とどちらが先に着くんだか分かったもんじゃない。嫌な事は重なるものだ。眉間に込み上げるあつい何かを目を瞑ってぎゅっと堪えて、気づかれぬように細く息を吐き出した。
さっきよりも人の減った駅の構内の壁際に寄りかかるようにして立つ。一日中仕事でまともに見ていなかったメッセージアプリには、気付かぬ間にふた桁以上の通知が溜まっていた。要らない告知や宣伝を既読もつけずに削除する。そうして残った通知の中にある見慣れた折り鶴のアイコンを開くとそこには仕事を終えた僕へ労いの言葉が残されていた。……確か、雨彦さんは今日雑誌の撮影があって、それで仕事が終わりと言っていたはず。もし出来るなら、迎えを頼めるんじゃ……そう思って途中まで打ったメッセージを、少し考えて冒頭の一文まで削り送信ボタンを押した。
『ありがとー。雨彦さんもお疲れさまー』
こんな時間では、きっと返事は明日まで無いだろう。一人の時間何をしているんだかいまいち分からない恋人を思って、胸がぎゅっと痛くなる。本音を全てぶちまけてしまえばいいのに、なんだかすごく疲れている今無理だと言われたら立ち直れない気がして気が引けた。
案の定直ぐにつくことの無い既読に少しだけ寂しくなって、アプリを終了し電源ボタンを押す。暗くなった画面に反射した僕の顔は、生気の抜けた暗い表情をしていた。
あと一時間、どうやって過ごそう。こんな日に限って鞄の中には近々提出期限を迎える課題の参考資料しか無いが、今こんな環境で目を通す気には全くもってなれなかった。こんなことなら、一冊分の重みをケチらずに小説を入れておくべきだった。そう思いながら遠目で点灯している電光掲示板をぼんやりと眺めていると、手元のスマホがぶるりと震えた。
──着信 葛之葉雨彦
画面に表示された名前に、ぱちりと目を見開きした。雨彦さん、起きてたのー?というか、なんで。思うことは沢山あったけれど、とにかく電話に出ないと始まらない。重たい指で緑の丸をタップして、スマホを耳に当てる。
『もしもし、北村。今、どこにいるんだい?』
「…………」
返事を返さなきゃ、と思ってるのに、なぜだか億劫で声が出ない。喉元まで出かかっている言葉をだす最後のひと押しをするだけの力を発揮することを身体が拒んだ。
『北村?』
「……雨彦さん」
『あぁ。……お前さん、まだ駅に居るんだろう?今、何駅にいるんだい』
なんで分かるんだろう、ああ、後ろで流れ続ける駅員さんの声かなー。そんなことを考えながら駅名を伝えると、あと五分ほどで着くから改札の外に居てくれと言われた。なんで、そんな近くまで。僕の居そうな場所、どうして分かったのー?そんな言葉は全て声に乗らないまま、腹の底へと沈んでいく。
ゆっくりと壁から離れて、改札の方へと向かう。今急いだ所で雨彦さんの着く時間は変わらないのに、自然と急ぎ足で階段をおり、目の前の改札にICカードをかざして駅の外へと出た。どちら側かと聞くと東と言われたから、東口のロータリーへと出向く。先程駅の中から見えた時よりも少しだけ伸びているタクシー待ちの行列を見て、思わずうわ、という言葉が出かけた。
まだ、通話を切らないで欲しいなー。そう思っていたことが伝わっていたのだろうか。要件を既に伝えたはずの雨彦さんは、電話を切らずにそのまま何ともない話を続けてくれていた。うん、とかそう、とか、そんな簡単な返事だけでも許されるような他愛のない話を、心地のいいバリトンボイスで紡いでいく。
そうしているうちにロータリーに入ってくる見慣れた車が見えて、目が合い片手を上げられて初めて通話が切れた。路肩に寄せられた車の助手席の扉を開け、乗り込む。ありがとう、雨彦さん。そう言いながらシートベルトをしめた僕に、少しだけぬるくなった緑茶のボトルが手渡された。いつもならこういう気遣いをさり気なく出来る当たりに自分と隣の男との差を感じて悔しくなるのに、今日は不思議とそんな気すら起きなかった。
「うちでいいかい」
「うん」
それだけ確認すると、雨彦さんは車を再び走らせ始めた。ここからじゃ、恐らく二、三十分はかかるはずなのにどうして近くまでいたんだろう。聞きたかったけど、敢えて聞かなかった。雨彦さんは、そういう人だから。きっと、聞いたところで上手くはぐらかされるのだろう。それに、今はそれが本当じゃないとしても僕の為に来てくれたんだと思ってしまいたかった。
うとうとと瞼が閉じようとしていて、運転している雨彦さんに悪いからとどうにか目を開けようとしたけど、車の揺れが凄く心地よくて。ひんやりとした大きな左手で僕の手を軽く握られて。おやすみ、と囁かれたのを最後に、夢の中へと引きずり込まれていった。
「……たむら、北村」
「ん……雨彦、さん?」
「ああ。着いたが……歩けるかい?」
「んん……大丈夫、ありがとー」
気がついたら、そのまま眠りについていたらしい。起こされて目に入ったのは見慣れた駐車場の中で、雨彦さんが住むマンションまで着いたのだと察した。僕が起きたことを確認した雨彦さんは、いそいそと僕がシートベルトを外して助手席をおりる準備をしている間に後部座席へと移動していた僕の荷物を手に取っていた。受け取ろうとしても返して貰えないから、仕方なく冷えてしまった緑茶のボトルだけを手に取り扉を締める。ピッ、と閑静な夜の住宅街に車の施錠音が響いたのを確認して、僕達はマンションの入口へと歩き出した。
かなり大きいはずのエントランスの自動ドアも、目の前の人が通るとなかなか小さく見えるものだ。今ではもう数え切れないほどお邪魔しているこの家も、半分くらいは僕が一人でやってくるから今日は久しぶりに一緒にここを抜けた気がした。
エレベーターに乗り込んで、目的の階まで上がる。空いた扉をおりて左側に進んだ突き当たりが、雨彦さんの帰る場所だ。ポケットに入っていた鍵を取り出して玄関を開けた雨彦さんに上がりなと視線で促されて、先に家にあがらせてもらう。
誰にも見られることの無い場所に辿り着いたと脳が判断したのだろうか。どっと疲れがおしよせて、見慣れたリビングへと入った瞬間床によろよろと座り込んでしまった。もう、疲れた。大声でそう叫んでしまいたくなる位には、僕は疲れていた。
ただただ偶然嫌なことが一度に重なっただけ。これ以上疲れることだってある筈なのに。悔しいのか、つらいのか、いやなのか。どの言葉がその感情を表すのに一番近いのかを考えてみたけど馬鹿馬鹿してくてやめた。こんな場所に座り込んでいたら間違いなく迷惑だと分かっているはずなのに、身体が動くことを拒否する。もう、何もしたくなかった。せめて、シャワーくらい浴びないと。分かっている。分かってはいても、嫌だと何かがそれを拒んでいる。
高ぶった感情をどう吐き出せばいいのか分からなくて、ぐるぐると視界が揺れる。いっそ涙が出てくれた方がマシとさえ思ったけれど、不思議と目元までこみあげている熱い熱い何かが水滴としてこぼれ落ちることは無かった。
「北村」
「っあ───」
後ろから名を呼ばれ、振り返った先にいた男に突然噛みつかれるようにキスをされる。突如捩じ込まれた舌に対応できなくて、ただ息が上がって苦しくなっていく。やめて、僕、今そんな気分じゃない。お願いだよー、雨彦さん。明日。明日ならいいからー。そんな気持ちを伝えたいのに顎を捉えられ上から唇を塞がれていれば、甘ったるい吐息とこぼれる言葉にならない嬌声しか口から出てこない。
「ぁ、っ、……ふ、ぁ、ゃ、やめ、……ん」
驚きで一度ぎゅっと瞑った瞳を薄らとあけると、鋭い桔梗色の瞳はじっと僕の顔を見つめていて。突然こんなことをしているのに、雨彦さんはやたらと優しい顔をしているから。なんで、そんな顔をしているの。分からない、やめてよ。酸素が薄くなって快楽にぼやけていく視界の中、キッと何かを訴えるように雨彦さんを睨みつけても何ともないと言わんばかりに咥内をしつこく責め立てられる。僕のいいところを知り尽くしている雨彦さんと弱点を見抜かれている僕じゃ、どちらが優勢かなんて一目瞭然だった。身体の力が抜けてがくっと上半身が前に倒れ込んでから始めて唇を離されて、息を整えようと大きく肩で呼吸をする。ぺたんと地面に座り込んだ僕を無言で見つめる雨彦さんは未だ柔らかい、愛情の籠った瞳をしていて。今の僕には何を考えているか普段よりもずっと分からなくて、ただただ怖いと思った。
荒げていた呼吸がようやく落ち着いた頃、目の前にしゃがみ込んだ雨彦さんに腕を引かれてすっぽりと巨体の中に上半身が収まってしまう。ねえ、今日は本当に嫌だよー。かろうじて声になったその言葉は、果たして目の前の恋人の耳には届いていたのか、それとも聞こえぬふりをされていたのだろうか。雨彦さんが立ち上がるのと同時にグイッと上に持ち上げられた体はそのまま宙に浮いて、まるで担ぎ上げられるように寝室へと運ばれていく。やだ、やだ。僕、今日だけは。それに、シャワーだって浴びていない。いつもはそういうことをするときは、必ずシャワーを浴びて湯船に浸かり、丁寧に体をほぐした後だったのに。
そこそこあるはずの僕の体重なんて苦でも何でもない、と言わんばかりに楽々と運ばれた僕の体は、一人で横になるには大きすぎるベッドの上へと優しく横たえられる。そうしてそのまま雨彦さんが僕の上に覆いかぶさってきたから、退路は完全に断たれてしまった。