オグリ(概念17~18)×タマおねえちゃん(概念23~24) 部屋に来るなり「お腹が空いた」と言う。最近のオグリはタマモの部屋のことをただ飯が食える食堂とでも思っているような気がしないでもなかったが、寒空の下、未成年そのまま突っ返すのも決まりが悪いので、8畳一間の小さな城に通すことにした。
だいたいトレセン学園のカフェテリアだって無料なのだから、そこで食べればいいだろうに。しかしオフの自主トレーニングとか用事があって学園外に出たとかふとした機会に、彼女はタマモの部屋にやってくる。
最初に部屋に上げた時、通り雨で濡れネズミになっていたのを気の毒に思って風呂を貸して特売の冷凍うどんを食べさせてやったのが良くなかったのかもしれない。あんな優しさ、まだ気の許せないからこその大人からの初回ボーナスだとオグリは気づけないらしい。
まあこんな大層綺麗なツラしとったらよほどの極悪人でもない限り人は親切にするもんなんやろか、と部屋のこたつ机近くに腰をおろしたオグリの、嫌味なく通った鼻筋を見ながら思った。
彼女とは、何年も前に田舎のショッピングモールで出会った。
休日の人がごった返すフードコートの隅で、ちいさな芦毛の女の子が心細げな顔をして立っていたので、故郷の妹を思い出して声をかけたのだった。あの頃のオグリはタマモの肩よりも小さくて、べそをかいている姿は大層かわいらしかった。
こんなん変なオッサンに連れていかれかねん、と年長としての使命感がわき、彼女が家族と再会できるまでの数時間、タマモは彼女の手を引いて面倒を見たのだった。しょっちゅうお腹が鳴るので、鞄に入っていた飴を全部あげてしまったことを覚えている。
別れ際に名前を聞いたら、最初のべそかき声とは正反対のしっかりした声で「おぐりきゃっぷ」と名乗った。自分と同じ芦毛が気になって、彼女の名前はずっと覚えていた。そうしたら、タマモがトゥインクルシリーズを卒業するのとちょうど入れ替わりに、地方から芦毛の怪物が来ると言う。もしかしてと思えばその通りだった。
偶然に、二人は再会した。オグリも「むかし面倒を見てくれた芦毛のウマ娘のおねえちゃん」をしっかり覚えていたらしい。そうしてそのまま、急速に懐かれて現在に至っている。
「せめて来る前に連絡しいや。携帯あるやろ」
はっとした顔をしてオグリがごそごそと制服のポケットを探り、「あ」と小さくつぶやいた。存在そのものを忘れていたらしい。
大丈夫なんかこの子。タマモがため息をつけばオグリはすらりとした体を子どもみたいに丸めて、ごめんと呟く。既にタマモより頭一つ分抜けた長身が体を縮めているとどうにも叱ったわけでもないのに悪いことをした気になり、もうええわ、と返して台所に行った。冷蔵庫はすっからかんだったが、今度オグリが来たら食べさせようと思って置いていたものがあったからだ。
コーヒーを飲めるか聞いたらブラックでいいと返ってきた。意外だったが素直に注文を聞いてやり部屋に戻ると、オグリが手元を見て目をぱちくりさせていた。
「バウムクーヘンあるから、ホール丸ごと食べてええで」
そう言ってこたつ机にぴかぴかした白い箱とコーヒーを置いた。だいたいオグリが部屋に来て食べさせるものと言えば、特売の冷凍うどんか、もやしの入った野菜炒めか、用意があればたこ焼きかお好み焼きが大半である。菓子など出したことがない。吝嗇なタマモは買わないからだ。
「タマ、どうしたんだこれ」
「この前結婚式行くって言うてたやろ。その引き出物で貰ってん。ウチ一人やったら食いきれんしアンタにちょうどええかと思って」
「結婚式はこんなものが貰えるのか」
「何や縁起ええらしいで。紅白まんじゅうとか年越しそばと似たようなもんやろ」
「そうなのか」
「知らんけどな」
「知らないのか」
「……今のは『発言に責任は持てません』って意味やで。本気にしなや」
「そうか、わかった」
絶対わかってへんな。自分の同じ年のころを思い出してみても、オグリは人一倍大人びた容姿をしていながら、どうも情緒が迷子だった頃とあまり成長していないように思えた。それがタマモの世話を焼いてしまう理由の一つでもあった。
もうちょっと人を疑うことを覚えるべきではないのか。トレセン学園で守られているうちはまだ何とかなるだろうが、そろそろ彼女もトゥインクルシリーズの卒業を考える年だと聞いている。親でもないのに心配しかない。
アンタなあ、と口に出そうになったがオグリの腹が工事現場の作業中のようなけたたましい音を立てたのでそれは止め、タマモはバウムクーヘンを取り出して切り分けた。白い砂糖のコーティングがじゃりじゃりとかかっている。一切れでも胸やけしそうだった。ほんの薄いひときれだけ自分がもらい、ホールの9割はオグリに渡した。
タマモが一口噛み締めるだけで満足の甘さのバウムクーヘンを、オグリは菓子パンでもつまんでいるかの如く軽いペースで食べ進めていく。子どもの頃はバケツのアイス独り占めやケーキ丸ごとに憧れたものだったが、大人になってそれが実現できるようになってみれば少しで良かったと気づいてしまった己には羨ましかった。
「そういえば結婚式って、誰のだったんだ?」
コーヒーを飲みながらおもむろにオグリが尋ねる。てっきりバウムクーヘンそのものの話かと思えば珍しい話題を出すものだ。結婚式の引き出物が気になるのかもしれない。
「トレセン学園で同級生やった子やねん。その子地元でやったから結構財布痛かったわ。お祝い事やからしゃあないけどな」
「タマと同い年なのか?」
「せやで。もう母親になってる同級生もおるしな、卒業したら皆えらい変わるで」
そう言いながら、自分の人生は大した変化もないことに気づく。まあそのうちできるやろと親に言われた恋人の存在も、残念ながらいないまましっかり大人になってしまったし、久々に同期の集まりに行けば結婚まではいかないまでも、みな当たり前のようにパートナーの存在をほのめかしていた。
焦って変な相手掴んで苦労するより、人生楽しんでる方がいいと家族は言ってくれているが、なんだかこの先もずっとこうした縁のないままな気がしないでもない。だからと言って寂しいわけでもなかったが、人生の岐路はいまだに自分には訪れそうになかった。
「タマはどうなんだ」
「ウチ?ウチがどないしてん」
「タマには結婚したいような恋人、いるのか」
想像もしない質問に動揺した。今はおらん、と口走るとオグリはそうか、と小さく頷く。動揺しているのを知られたくないので、努めて明るい声で誤魔化した。
「そらおったらアンタをこないに頻繁に家上げへんわ。鉢合わせなったら気まずいやろさすがに」
言っていて空しくなってきてしまった。今も昔も恋人なんておったことないくせにな。それでも変に大人ぶってしまう自分が嫌になった。
けれども明るくでうるさいな!モテへんねんこっちは!と自虐したところでどうせオグリの反応は暖簾に腕押しであろうから、どっちにせよこの対応はよろしくなかった。普通にいないと言えばよかった。
「そうか。よかった」
「何がええねん」
呆れ声でつっこみを入れたがそこには反応はなかった。オグリにとっての無料の食堂がここしばらくは存続しそうで安心したのか、会話を切り上げていつの間にかあの巨大なバウムクーヘンを食べ収め、食後のコーヒーを堪能している。こちらはまだ半分も食べていない。なんで今になってこの話、と思いながら食べきる気が失せてきたそれをフォークでつつく。そうしてふと気づいた。オグリも多少そういうのが気になる程度には成長したのかもしれない。
動揺されたお返しにちょっとばかりからかってやろうかと思った。一応成人した身が未成年相手にと誰かいたら眉を顰められかねなかったが、大人のちょっとした生傷に無自覚に触れてきたオグリにも悪いところはある。心の中で言い訳した。
「なんや、オグリもとうとうそういうの興味でてきたんか」
問いかけてみればオグリはマグカップを机に置き、二度、三度ぱちぱちとまばたきした。大人のオンナのからかいってよりはオッサンのそれやなと自嘲しつつ、これ以上なく年上ぶって続ける。
「彼氏欲しかったらウチの部屋なんか入り浸らんと、合コンやらなんやら行ったらええやん。アンタ顔はええんやから、ちょっと愛想ようしてニコニコしとったら誰かしら捕まるやろ」
中身がいい男かどうかは保証できないが。と心のうちに付け足した。だいたい現在の彼女はトゥインクルシリーズきってのスターである、放っておいても誰かしら寄ってきてもよさそうなものではあるが、いざ接してみると性格が素朴と言うか素直がすぎて、知らぬ間にそういう対象からは外れているのかもしれない。そこが周囲から愛される部分ではあるのだが、猫を可愛がっているのと同じようなもので、付き合いたいどうこうまで感情が行きつくものは、もしかするとあまりいないのかもしれない。
手に届くか届かないか、ギリギリのものを往々にして人は追い求めるからだ。
「……そういうのはいい。そんなのはいらない」
すっかりぶすくれた反応が返ってきて、そうかやっぱり興味が出てきたのかと内心ひとりごちる。ならばそう遅くはないだろう。彼女がこの部屋に来るのも、もう数えるほどしかないかもしれない。オグリの精神のちょっとした成長を思い、コーヒーを飲んだ。安物のコーヒーは、時間がたつと途端に香りが飛んでしまう。ただの苦い汁だった。
カップを置くと気づけばオグリがすぐそばまで来ていて、ぶすくれた顔をしたままタマモの名前を呼んだ。子どもの顔してんな、と思った瞬間真面目な声でオグリが言う。
「そんなの、いらない。私は、タマの恋人になりたい」
うそやろ。しばらく訪れないはずだった人生の岐路が、実は目の前にあると知り、稲妻に打たれるとはこういうことかとタマモは思った。