オグリ(概念17~18)×タマおねえちゃん(概念23~24)部屋に来るなり「お腹が空いた」と言う。最近のオグリはタマモの部屋のことをただ飯が食える食堂とでも思っているような気がしないでもなかったが、寒空の下、未成年そのまま突っ返すのも決まりが悪いので、8畳一間の小さな城に通すことにした。
だいたいトレセン学園のカフェテリアだって無料なのだから、そこで食べればいいだろうに。しかしオフの自主トレーニングとか用事があって学園外に出たとかふとした機会に、彼女はタマモの部屋にやってくる。
最初に部屋に上げた時、通り雨で濡れネズミになっていたのを気の毒に思って風呂を貸して特売の冷凍うどんを食べさせてやったのが良くなかったのかもしれない。あんな優しさ、まだ気の許せないからこその大人からの初回ボーナスだとオグリは気づけないらしい。
まあこんな大層綺麗なツラしとったらよほどの極悪人でもない限り人は親切にするもんなんやろか、と部屋のこたつ机近くに腰をおろしたオグリの、嫌味なく通った鼻筋を見ながら思った。
彼女とは、何年も前に田舎のショッピングモールで出会った。
休日の人がごった返すフードコートの隅で、ちいさな芦毛の女の子が心細げな顔をして立っていたので、故郷の妹を思い出して声をかけたのだった。あの頃のオグリはタマモの肩よりも小さくて、べそをかいている姿は大層かわいらしかった。
こんなん変なオッサンに連れていかれかねん、と年長としての使命感がわき、彼女が家族と再会できるまでの数時間、タマモは彼女の手を引いて面倒を見たのだった。しょっちゅうお腹が鳴るので、鞄に入っていた飴を全部あげてしまったことを覚えている。
別れ際に名前を聞いたら、最初のべそかき声とは正反対のしっかりした声で「おぐりきゃっぷ」と名乗った。自分と同じ芦毛が気になって、彼女の名前はずっと覚えていた。そうしたら、タマモがトゥインクルシリーズを卒業するのとちょうど入れ替わりに、地方から芦毛の怪物が来ると言う。もしかしてと思えばその通りだった。
偶然に、二人は再会した。オグリも「むかし面倒を見てくれた芦毛のウマ娘のおねえちゃん」をしっかり覚えていたらしい。そうしてそのまま、急速に懐かれて現在に至っている。
「せめて来る前に連絡しいや。携帯あるやろ」
はっとした顔をしてオグリがごそごそと制服のポケットを探り、「あ」と小さくつぶやいた。存在そのものを忘れていたらしい。
大丈夫なんかこの子。タマモがため息をつけばオグリはすらりとした体を子どもみたいに丸めて、ごめんと呟く。既にタマモより頭一つ分抜けた長身が体を縮めているとどうにも叱ったわけでもないのに悪いことをした気になり、もうええわ、と返して台所に行った。冷蔵庫はすっからかんだったが、今度オグリが来たら食べさせようと思って置いていたものがあったからだ。
コーヒーを飲めるか聞いたらブラックでいいと返ってきた。意外だったが素直に注文を聞いてやり部屋に戻ると、オグリが手元を見て目をぱちくりさせていた。
「バウムクーヘンあるから、ホール丸ごと食べてええで」
そう言ってこたつ机にぴかぴかした白い箱とコーヒーを置いた。だいたいオグリが部屋に来て食べさせるものと言えば、特売の冷凍うどんか、もやしの入った野菜炒めか、用意があればたこ焼きかお好み焼きが大半である。菓子など出したことがない。吝嗇なタマモは買わないからだ。
「タマ、どうしたんだこれ」
「この前結婚式行くって言うてたやろ。その引き出物で貰ってん。ウチ一人やったら食いきれんしアンタにちょうどええかと思って」
「結婚式はこんなものが貰えるのか」
「何や縁起ええらしいで。紅白まんじゅうとか年越しそばと似たようなもんやろ」
「そうなのか」
「知らんけどな」
「知らないのか」
「……今のは『発言に責任は持てません』って意味やで。本気にしなや」
「そうか、わかった」
絶対わかってへんな。自分の同じ年のころを思い出してみても、オグリは人一倍大人びた容姿をしていながら、どうも情緒が迷子だった頃とあまり成長していないように思えた。それがタマモの世話を焼いてしまう理由の一つでもあった。
もうちょっと人を疑うことを覚えるべきではないのか。トレセン学園で守られているうちはまだ何とかなるだろうが、そろそろ彼女もトゥインクルシリーズの卒業を考える年だと聞いている。親でもないのに心配しかない。
アンタなあ、と口に出そうになったがオグリの腹が工事現場の作業中のようなけたたましい音を立てたのでそれは止め、タマモはバウムクーヘンを取り出して切り分けた。白い砂糖のコーティングがじゃりじゃりとかかっている。一切れでも胸やけしそうだった。ほんの薄いひときれだけ自分がもらい、ホールの9割はオグリに渡した。
タマモが一口噛み締めるだけで満足の甘さのバウムクーヘンを、オグリは菓子パンでもつまんでいるかの如く軽いペースで食べ進めていく。子どもの頃はバケツのアイス独り占めやケーキ丸ごとに憧れたものだったが、大人になってそれが実現できるようになってみれば少しで良かったと気づいてしまった己には羨ましかった。
「そういえば結婚式って、誰のだったんだ?」
コーヒーを飲みながらおもむろにオグリが尋ねる。てっきりバウムクーヘンそのものの話かと思えば珍しい話題を出すものだ。結婚式の引き出物が気になるのかもしれない。
「トレセン学園で同級生やった子やねん。その子地元でやったから結構財布痛かったわ。お祝い事やからしゃあないけどな」
「タマと同い年なのか?」
「せやで。もう母親になってる同級生もおるしな、卒業したら皆えらい変わるで」
そう言いながら、自分の人生は大した変化もないことに気づく。まあそのうちできるやろと親に言われた恋人の存在も、残念ながらいないまましっかり大人になってしまったし、久々に同期の集まりに行けば結婚まではいかないまでも、みな当たり前のようにパートナーの存在をほのめかしていた。
焦って変な相手掴んで苦労するより、人生楽しんでる方がいいと家族は言ってくれているが、なんだかこの先もずっとこうした縁のないままな気がしないでもない。だからと言って寂しいわけでもなかったが、人生の岐路はいまだに自分には訪れそうになかった。
「タマはどうなんだ」
「ウチ?ウチがどないしてん」
「タマには結婚したいような恋人、いるのか」
想像もしない質問に動揺した。今はおらん、と口走るとオグリはそうか、と小さく頷く。動揺しているのを知られたくないので、努めて明るい声で誤魔化した。
「そらおったらアンタをこないに頻繁に家上げへんわ。鉢合わせなったら気まずいやろさすがに」
言っていて空しくなってきてしまった。今も昔も恋人なんておったことないくせにな。それでも変に大人ぶってしまう自分が嫌になった。
けれども明るくうるさいな!モテへんねんこっちは!と自虐したところでどうせオグリの反応は暖簾に腕押しであろうから、どっちにせよこの対応はよろしくなかった。普通にいないと言えばよかった。
「そうか。よかった」
「何がええねん」
呆れ声でつっこみを入れたがそこには反応はなかった。オグリにとっての無料の食堂がここしばらくは存続しそうで安心したのか、会話を切り上げていつの間にかあの巨大なバウムクーヘンを食べ収め、食後のコーヒーを堪能している。こちらはまだ半分も食べていない。なんで今になってこの話、と思いながら食べきる気が失せてきたそれをフォークでつつく。そうしてふと気づいた。オグリも多少そういうのが気になる程度には成長したのかもしれない。
動揺されたお返しにちょっとばかりからかってやろうかと思った。一応成人した身が未成年相手にと誰かいたら眉を顰められかねなかったが、大人のちょっとした生傷に無自覚に触れてきたオグリにも悪いところはある。心の中で言い訳した。
「なんや、オグリもとうとうそういうの興味でてきたんか」
問いかけてみればオグリはマグカップを机に置き、二度、三度ぱちぱちとまばたきした。大人のオンナのからかいってよりはオッサンのそれやなと自嘲しつつ、これ以上なく年上ぶって続ける。
「彼氏欲しかったらウチの部屋なんか入り浸らんと、合コンやらなんやら行ったらええやん。アンタ顔はええんやから、ちょっと愛想ようしてニコニコしとったら誰かしら捕まるやろ」
中身がいい男かどうかは保証できないが。と心のうちに付け足した。だいたい現在の彼女はトゥインクルシリーズきってのスターである、放っておいても誰かしら寄ってきてもよさそうなものではあるが、いざ接してみると性格が素朴と言うか素直がすぎて、知らぬ間にそういう対象からは外れているのかもしれない。そこが周囲から愛される部分ではあるのだが、猫を可愛がっているのと同じようなもので、付き合いたいどうこうまで感情が行きつくものは、もしかするとあまりいないのかもしれない。
手に届くか届かないか、ギリギリのものを往々にして人は追い求めるからだ。
「……そういうのはいい。そんなのはいらない」
すっかりぶすくれた反応が返ってきて、そうかやっぱり興味が出てきたのかと内心ひとりごちる。ならばそう遅くはないだろう。彼女がこの部屋に来るのも、もう数えるほどしかないかもしれない。オグリの精神のちょっとした成長を思い、コーヒーを飲んだ。安物のコーヒーは、時間がたつと途端に香りが飛んでしまう。ただの苦い汁だった。
カップを置くと気づけばオグリがすぐそばまで来ていて、ぶすくれた顔をしたままタマモの名前を呼んだ。子どもの顔してんな、と思った瞬間真面目な声でオグリが言う。
「そんなの、いらない。私は、タマの恋人になりたい」
うそやろ。しばらく訪れないはずだった人生の岐路が、実は目の前にあると知り、稲妻に打たれるとはこういうことかとタマモは思った。
動揺を隠して、タマモはフォークを置いた。フォークが皿にあたる音がやけに大きく響き、テレビもつけていない部屋は急に静かになってしまった。もうさお竹でもパン屋でも廃品回収でもなんでもいいので、大音量を流す車でもそばを通りかかって、この状況を打ち破って欲しい。そもそもオグリの先ほどの言葉で、二の句が継げなかった自分が憎い。何言うてんねん冗談言いなと軽く肩でもはたいてやればよかったのだ。
しかし一旦言葉が途切れてしまうと、目の前の嫌になるぐらいまっすぐな視線を向けてくる相手にどう告げればいいのかわからない。
今なんて言うた?アカン、もう一回言われるだけや。冗談言うなや?絶対冗談じゃないって返されて終わりやろそんなん。ごめん?いやいや話もまともに聞かずにそれは。
「……アンタ、恋人って意味わかってへんやろ」
頭の中でいろんな返事と彼女の反応を考えて、ようやく出てきたのはこれだった。言葉選び下手かと内心ツッコミを入れて、なんとか流されてしまいそうな空気に耐える。
ウチは大人、ウチは大人、相手は子ども。
ひとまず、周囲から恋人だのなんだの話が夢物語や噂話から少しずつ現実を帯び始めるようになって、オグリ自身も多少はそういうことに興味が湧き始めたのはさすがに間違いなさそうだ。彼女の年には多少遅すぎる気はするが、まあそれはいいとして。そこで何故タマモとそれが結びついてしまったのか。きっと恐らく何らかの思考のミスがあったに違いない。人間関係が限られたトレセン学園の中で、数少ない大人のトレーナーたちに熱を上げるウマ娘たちだって少なくはないのだし、仕方がないのかもしれない。ならば彼女の思考を解きほぐして、きちんと導いてやらねばならない。それは勘違いで、そういう相手は違い将来現れてくるものだから、ここで無駄なやりとりをせず、出会いを探しに行けばいいのだ。――タマモ自身には、まだ現れる気配はないけれども。
「……わかってる」
正座して、制服のスカートの裾を握って、俯いている表情は、どう見ても大人には見えなかった。タマモには否定されてむっとしているだけに思えた。
「……ほな言うてみいや」
口に出した瞬間間違えたと思った。あんなオグリ、それは勘違いやで。アンタぐらいの年やとよくあることや。そう告げるつもりだった。年長者らしく、優しく諭すつもりだったのに。何煽ってんねん。先ほどからまったく自分の想像した通りに会話が進まず、歯がゆさに頭を抱えて暴れだしたかった。落ち着けウチ、ウチは大人、ウチは大人と呪文のように心で繰り返す。
こいびとは、とオグリが口を開いた。掴んだスカートの皺が、さらに強くなった。タマモは知らぬ間に体に力が入り、身を乗り出すような態勢になった。
「一緒に出掛けたり、ご飯を食べたり…」
オグリらしい回答ではあるが、さっきから動揺続きだったタマモは、少しばかり力が抜けた。
友達でも、知人でもできることだ。もしかしたら彼女は、恋人という名前に惑わされているだけで、本当は誰か友人を求めているのかもしれない。トレセン学園での皆も友人ではあるのだろうが、前提として彼女たちはライバルだ。そういう力関係のない、対等な腹を割って話せる存在が必要なだけかもしれない。それならタマモでも構わないだろう。対等な友人となると今までの世話が身に染みすぎて大変かもしれないが、姉妹のように可愛がるのはきっとこれからもできるはずだ。
なんやそうか、そういうことやったんか。一人で納得し、それならばと決意を勝手に固めた。
しかしタマモは、オグリの続く言葉に目を剥いた。
「手を繋いだり、抱き合ったり、キスしたり……」
「あー!もうええ!!もうええ!!わかった!!」
咄嗟に手が出て、タマモの右手がオグリの口元をふさぐ。オグリが目をぱちくりさせながら、ふさがれた口が「たま」と形を作る。手のひらに、オグリの唇の感触が伝わった。ぱっと手を離したが、右手が燃えるように熱を帯びた。唇の感触が、さっきのオグリの言葉を思い出させ。自意識過剰の己が恥ずかしかった。落ち着けと心の中の自分は必死に叫んでいるのに、あまりのことに冷静な言葉が紡げない。
「オグリ、アンタうちとチューしたいと思ってるん?」
何聞いとんねん。違うやろ。あとチューってなんや。ちゃんとキスって言われへんのかい。さっきから失言しかしていない。こんなに恥ずかしいこともオグリより少しばかり長い時を生きてきてそうそうないだろうと思った。気が付けばとっくに大人なのに、単に自分は年を食っただけだった。
結婚した同級生、母になった同級生。彼女たちがすっかり大人になって自分の人生を歩んでいるのに、タマモは狭い部屋で、年下の女の子の扱いすら困り果てている。オグリと同じ年だったころ、自分はレースに夢中だった。勝ちたくて、家族に楽をさせたくて、レースの賞金と家族にかかるお金を逆算してそろばんをはじいて、必死にもがいていた。嵐が通り過ぎ、レースと金勘定しかできない己が残されてしまった。そんなアホなことあってたまるか。唇をきゅっと噛んで、まだ熱の引かない右手を握りしめる。
気づけばオグリが膝を詰めて、握られたタマモの右手をそっと取った。顔を上げればオグリの、あまり感情の出ない涼しい顔が鼻先近くまで来ていた。動悸よりも先に息が詰まる。タマモの右手を取った指先が、ゆっくり腕から肩にのぼって、親指が頬に触れた。
「……タマが嫌ならしない」
相変わらず、視線は強かった。しかしそこでタマモは不思議なことながら、視線に逃れたいわけでもなく、突き飛ばすでもなく、場違いにも目の前の彼女がびっくりするぐらい整った顔立ちをしているさまを、ぼうっと眺めた。一種の現実逃避だった。こいつ底抜けに顔がいいな。そんな美形がなぜ、こんなまた。
「別に、嫌っちゅうわけでは」
また、思いもよらぬ言葉が口をついて出てしまった。しかしやけになった自分の頭には、顔小さいなとかまつ毛長いなとか鼻高いなとか、余計な感想ばかりが浮かび、オグリが顔を寄せてくるのを、どこか遠くから別の自分が立って眺めているような気持ちで見ていた。前髪の隙間に、オグリの唇がそっと触れた。手のひらで感じたのとは、また違う、遠慮がちで大人しい感触がした。
タマモが現実に帰ったのはそのあとのことで、唇を離したオグリが、思い切り自分に抱き着いてきて、その力に背中がきしんだ時だった。
「うれしい」
オグリは言った。そんな、大レースに勝った時のような、万感の思いがこもった声で言われても。そもそも、自分は、返事すらしていないのに。あんなオグリ、それ勘違いやで。言葉はオグリの肩口に思い切り埋まってしまい、気づけば彼女の背中に両腕を回してしまった。
思考がまともに戻って、思ったのはひとつだけだった。これ、淫行ちゃうよな。コーヒーの冷え切った匂いが部屋に充満していた。
「へぇ、今度は海外のショー出るんかぁ。シチーはすごいなぁ――」
相槌を打ちながら携帯をいじっていると、どこを間違えたのか検索履歴の一覧が視界に飛び込んできた。
『未成年 淫行 何歳から』『淫行 懲役』『淫行 逮捕』
晴天が広がるこじゃれたカフェのオープンテラスで間違っても見る言葉ではない。途端に血の気が引き、慌ててアプリを閉じようとするが、焦って画面をつついても画面は一向に動かない。
なんやねんこんなときに限って!
画面を割らんばかりに指先で叩くと、向かい側のゴールドシチーが怪訝な顔をして覗き込んでくる。
「タマモ先輩、どうしたんですか?」
「あ!いやなんかちょっと画面固まってもうて……」
「大丈夫ですか?アタシ、良かったら見ますよ?別にケータイ詳しいわけじゃないですけど」
アカンヤバい。いくらなんでもせっかく昔からの仲の後輩に己の嗜好を疑われることだけは避けたい。サッと携帯を自分の近くに抱え込んだ。ノートの落書きを見られそうになった子どもみたいに。
「いやいやいや大丈夫やって!もうええわ、電源切ったら直るやろ!」
無理矢理電源ボタンを長押しすると、鈍いバイブ音と共に画面は真っ暗になった。ひとまず画面を見られる心配はなくなった。ホッとして携帯をバッグにしまう。まだ料理も運ばれてきていないのにどっと疲れてしまった。
「いいんですか?無理やり切っちゃって」
「ええねん。安もんばっかり使うとるから固まってまうんかな」
薄切りのレモンとよく知らない葉っぱが浮いたピッチャーからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。プハ、と息を吐きたいところだが、店のキラキラした雰囲気に吞まれてさすがにできなかった。
たまにはどうですか、と誘われてついてきた、シチーのお気に入りのオーガニックだかがどうだかのカフェだ。モデル仲間とよく来る場所らしく、周囲にはファッション雑誌から抜け出てきたかのような男女がひしめき合っている。
タマモにつられたのか、シチーもグラスを持ち上げて一口水を飲んだ。相変わらず、息をしているだけで華やかなやっちゃ。なんだかシチー本人からまばゆい光が出ているようにすら思える。シチーがグラスを置くとおもむろに言う。
「タマモ先輩があんなに焦るの珍しいから、アタシてっきり、恋人から連絡でも来たのかなって思ったんですけど」
「はぁ!?」
あ、アカン。めっちゃ反応してもうた。頭の中は冷静だが、反射的に出てしまった言葉は仕方がない。
「あれ、図星でした?」
シチーが口角を上げて首を傾げた。珍しく、いたずらっぽい表情をして。
「ちゃうちゃう。……ウチにそういう縁まったくないの、アンタも知っとるやろ。それよりこっちがビックリしたわ、アンタがそういう話振ってくるとはなぁ」
シチーとはトレセン学園でレース同期として知り合ってから、年の差はあれども良きライバル、良き友人として過ごしてきた仲である。トレセン学園を卒業してからも連絡を取り続けて、定期的に会うウマ娘も少なくなりつつあるなかで、彼女は変わらず関係を続けている。
見た目こそ派手な彼女だが、性格はいたって真面目で、会ってもお互いの近況報告かレースの話ばかりだった。近ごろの知人たちは会えばすぐ恋愛の話題にうつりがちだから、それに馴染めないタマモにとって、変わらないシチーは非常に有難い存在であったのだけれども。
ゴールドシチー、オマエもか。勝手に絶望的な気持ちになり、タマモは肩をすくめる。
「まあアタシもいろいろあって」
「そらアンタみたいに華やかやといろいろあるやろなぁ」
「ん……、まぁ見た目がどうこうとかじゃないんですけど。一応もう立派な大人なんで。アタシがどうでも良くっても周りがまぁいろいろこう、言ってくるというか」
「せやなぁ。わかるで」
自分ですらいろいろあったのだから、そりゃ100年に1度の美少女ウマ娘と言われたシチーならばそれこそ周りが放っておかないだろう。それこそシチーが望むなら、好きにならない相手など存在するのかとも思う。
それはアイツもそうか、とタマモの脳裏に言葉がよぎった瞬間、つい先日自分の身に降りかかったことが鮮やかに蘇った。タマモの検索履歴をあんなことにした超本人、オグリのことだった。
恋人になりたいと言われて抱きしめられて、オグリの唇がタマモの額に触れて、その後は何もなかった。しばらくオグリがタマモの肩口に顔を埋めた後、二人は案外すんなり離れた。
食べのこしたタマモのバウムクーヘンをオグリが食べ、ぬるいコーヒーを飲み干してから、彼女はトレセン学園へ帰っていった。その後何度かメッセージのやり取りをしたが、オグリのメッセージから先日の告白について匂わせるようなことは微塵も読み取れなかった。拍子抜け半分、安堵する気持ちが半分だった。
あの一件の後、オグリはレースが立て続けにあり、アパートには来ていない。下手に大人ぶってしまったから、次に会う時どう振舞えばいいのかさっぱりわからなかった。おそらく彼女は、もう恋人になったつもりでいるだろう。でも、自分は彼女に返事をしたわけではない。ただ、触れられるのが嫌ではないと告げただけだ。
言葉面だけなら自分がとんだ尻の座らない浮気者のように思えてくる。たかが告白されただけ、たかが抱きしめられただけ。そう思っても、恋なんててんで縁のない生活を送ってきたタマモからすれば明かりのない洞窟を手探りで進むような気持ちだった。
そもそも、自分が彼女をどう思っているのかすら、今のタマモにはよくわからない。故郷にいる妹のような存在だと、ずっと思ってきた。だから再会した後も世話を焼いてきたのだし、彼女がトレセン学園に移籍した後のレースで連勝街道を突き進む時はまるで自分のことのように嬉しかったものだ。なら、どうしてあの告白を最初から突っぱねることができなかっただろう。
流されているだけなのか、ほだされているだけなのか。
けれど、あの真っすぐな目を思い出すと、心の奥が、じくじくと傷むような感覚を覚えるのだった。恋も知らないまま、タマモは大人になってしまった。オグリとは違って。
すっかりオグリのことばかり考えてしまった。せっかくシチーが誘ってくれたというのに。運ばれてきたランチセットは値段のわりに量が小食のタマモですらつつましいと思えるほどだ。モデルと言う生き物は皆高い金を出してわざわざお腹を減らしながら生きているのだろうか。シチーはわりと、しっかり食べる方だと知ってはいるものの。
「あ、そういや先輩」
「ん?なんや?」
「興味ありません?合コン」
「急か!アンタ、いろいろあるんですよって言うててこれかい!」
「まぁ、いろいろあるって言うのの一つがコレってのもあるんですけど」
「藪から棒にもほどがあるっちゅうねん、なんやいきなり」
「どうしても断り切れなかったのが一個あったんですけど、アタシその日撮影はいっちゃって」
「ええ口実やん。それで断れるやろ」
「いや、それで断ったら誰か一人紹介してくれって言われちゃって。あ、別にそれが目当てで今日誘ったんじゃないですよ。ただ、よくタマモ先輩今日みたいに『縁がない』って言ってるんで、だったら行ってみてもらえないかなって」
断りたい理由は山のようにあった。合コンに行ったことがない、とまでは言わないが数少ない合コン経験では間違いなく盛り上げ役で終わってその後何もなかったし、酒の入った相手にいきなりチビ呼ばわりされて本気で怒って周りがしらけ切ったこともある。しかも今回はシチーの代役。残念がられるに決まっている。それから、それから。
なんとかして断る口実を探して思考を巡らせていると、パッとオグリの姿が浮かぶ。吹きさらしのアパートの玄関で、じっとタマモの帰りを待っている、少女の姿が。
――なんで、なんで今。オマエがでてくんねん。
シチーの目の前で頭を抱えそうになるが、これで断ったらやっぱり恋人が云々と言われてしまいそうだ。ともすれば返答は一つしかない。
「……行けたらいくわ」
「……それって9割は行かないって意味ですよね」
なんやねん、もう。会話を無理やり終わらせてオーガニック野菜がどうのこうののサラダを口に突っ込んだが、とにかく草の味しかしなかった。
ターフの草、食ったらこんな味かな。何故だか思い切り、走りたい気持ちになった。
その後話題はタマモのドリーム・トロフィーリーグの話とシチーの仕事の話に移り、タマモが変に焦ることはなかった。別れ際、シチーが念押ししてきたことをのぞいて。
「あの、タマモ先輩。無理して欲しいわけじゃないんですけど、できたら考えといて欲しいんです。さっきのお願い」
「いや、だから行けたら行くって」
「9割行かないのはわかってます。でも、アタシ賭けますよ。残りの1割」
そこまで本気になるほどのことでもないだろうに、今日のシチーは嫌に真剣だった。単なる合コンの人数合わせのお願いのはずなのに。
よほど断り切れない相手が主催であるのか、それとも現状を心配されているのか。後者であるならたとえ冗談であっても自虐を言うのは考えものだとタマモは思った。
後輩に人間関係の向き合い方を心配されるなんて火を吹くように恥ずかしい。相手に失礼なことを言われるぐらいなら、心配されるぐらいなら、先回りして冗談に変えてしまおうとする癖がどうにも抜けない。
「……わかった。ほなまぁ、ちょっと家帰ってから予定確認するから」
結局、断り切れなかった。シチーは満足そうに頷き、また夕方から仕事が入っていると言って、タマモにさっと手を振ってから、颯爽と風を切るように人混みに消えていった。細くて高いヒールがもとよりとんでもなく長いシチーの股下を、より一層すらりと見せている。
自分の足元を見直すと、アウトレットで買った安物のぺったんこのスニーカーが目の端に映る。ウイニングライブと冠婚葬祭以外でヒールのある靴なんて履いたことがない。駅のホームで電車のガラスに反射する自分は、ひどく子どもに見えた。
携帯の電源を入れ直すと、シチーからいつまでに返事が欲しいか連絡が入っていた。
たぶんどこの世界行ってもシチーは仕事出来るんやろうな。わかった、と返事を返しながら、そんなことを思った。
幸いトゥインクル・シリーズの結果が評価され、ドリーム・トロフィーリーグに移籍してからの成績も上々である。けれども自分と似た世代のウマ娘たちが少しずつターフから去って、指導者やまた別の道を歩み始めるなか、自分がどうしたいのかまだわからない。
体質の弱い己がここまで走り続けられたこと自体が奇跡のようなものだから、それにあやかって限界までレースの世界に身を置いていたいとは思っている。レースの事を考えると、まだ体の芯が電気を帯びたみたいにピリピリして、衝動が抑えきれなくなる。引退するのはまだまだ先で良いと、自他共に思っている。
けれども、別の世界で折り合いをつけて生きているシチーや仲間たちを見ていると、自分は別の世界で生きていけるだろうか。家族のためにレースの道を選んだのは、自分の長所が脚の速さしかなかったのもあるが、その方が自分を偽らずに生きていけると思ったからだ。
理不尽なことに頭を下げ、興味のない誘いも参加して、いつも笑顔でいる。
他の道に進んで、自分もそういられるだろうか。今日のシチーのように。
昔も今も、しっかりしているとよく言われた。自分でもそう考えていたし、家族のことを思うと、タマモはいつでも早く大人になりたかった。自立して、お金を稼いで、誰にも迷惑をかけない。しかしいざ本当に大人扱いされる年齢になり、自身で金を稼ぎ実家に仕送りをして、一人暮らしを成立させてている今となると、足りないところばかりが目に付く。理由はわかっている。
本当の自分は、誰よりも臆病だ。
最寄り駅の改札を出るとひんやりした風が頬に染みた。季節はもう秋の暮れだ。冬になるとまたWDTリーグが始まる。そろそろレースに向けて体を作りこまなければいけない。
駅からアパートまで歩くだけで冷え始める指先にふっと息を吹きかけながら、先ほどのことは記憶の隅にとどめておくだけに決めた。
「なんや、えらい疲れたわぁ」
ひとりごちながらアパートの錆びた外階段を登ると、見慣れた葦毛のウマ娘がじっと自分の玄関先に座り込んでいた。オグリだった。
今日はオフなのか制服姿で、長い手足を上手いこと折りたたんで体育座りをしている。短いスカートでコンクリートの廊下に座り込むのは、さぞ冷たいことだろうに。思わずタマモがぽかんとすると、階段を登りきる音に気付いてかオグリが顔を上げ、小さく「あ」と声を漏らした。
「……携帯は」
「え……、うん。ちゃんと持ってきているぞ」
オグリが立ち上がってカーディガンのポケットをごそごぞと探り、携帯を取り出して見せる。
「ちゃう、連絡せぇって話や。……どんくらい待ってたんや」
「たぶん、そんなには待ってない」
「たぶんて」
「……待っていたら、時間を忘れてしまった」
普段ならば勢いよくなんでやねん!とツッコミを入れるところだ。でも今日はそんな気分も失せていた。彼女のことだから、きっとこれは本当のことなのだろう。
飼い犬にずっと待たれている飼い主は、いつもこんな気持ちなのだろうか。いざ彼女の行動の真意を知っている身となると、オグリの言葉がいちいちくすぐったい。
「……豚肉ともやし蒸してポン酢つけるやつしかできへんで」
ドアノブの鍵を外して上がるように促す。オグリの耳がピンと張り、尻尾が揺れているのが見える。なんやねん、これぐらいのことで。とは言えなかった。
部屋に上げて茶を入れてやり、腕まくりをして台所で料理をする間中、胸の奥がざわざわとしていた。ただ、部屋に人がいる気配はなんだか気分が良かった。テレビをつけっぱなしにするよりは、ずっと。
大皿いっぱいの豚もやしと丼いっぱいの白米を持って部屋に戻ると、オグリはテレビをつけるでもなく、静かにコタツ机に向かっていた。覗き込んでみれば、教科書とノートを開けている。
「勉強しとるんか?」
「テストが近いからな。最近、宿題が多くて」
トレセン学園にいた頃の自身の記憶を辿ってみるが、どうも勉強に関することはもはや薄ぼんやりとしていて、あまり思い出せない。テスト勉強しているような年下に迫られて上手く対処できないウチは一体なんやねん。ため息をつきそうになる心を必死に抑え、テーブルを片すように伝えた。
「どや。言うて蒸しただけやけどな」
「うん。美味しい。このポン酢が特にいい」
「せやろ。ウチの地元では有名なポン酢や。もうこれ以外考えられへん」
雑な料理をオグリは丁寧に口に運び、タマモも会話の合間に小皿を持ってきてオグリと一緒に大皿をつついた。シチーには悪いが、サラダとパンとスープでお札が飛ぶ洒落たカフェのランチより、こっちの方が数倍美味しく感じるから不思議な話だ。
オグリが丼を食べ終わると同時におかわりをよそってやろうと思って立ち上がる。どうせいつくるかわからんしと考えて、最近常に米は炊飯器容量一杯に炊くようにしていた。しかしオグリが置いた丼を手に取ろうとすると、彼女はタマモの手をとどめて、ゆっくりと首を振った。
「もうええんか?まだ米あんで」
「ありがとう。もう大丈夫だ。ごちそうさま」
オグリがおかわりをしないとは。嘘やん。明日ヤリでも人参でも降るんちゃうか。訝しげに頷きながらもちゃっかり食後のコーヒーは飲むと言うので、タマモは食器を片付けるついでに台所に戻る。
トレセン学園で先に何か食べてきたのか、それとも吹きさらしの廊下で待っている間、お菓子でもつまんでいたのか。いや、それで食べられなくなるような普通の胃袋の持ち主ではないはずだ。
はじめて出会った頃も、再会して世話を焼くようになってからも、彼女の食欲はタマモの想像を軽く超えている。だとしたら、本当に食欲がないのかもしれない。あくまで彼女にしては。
まさか恋煩い。ケトルで湯が沸くのを待ちながらあれこれ考えた最中、またしてもボケた発想が脳裏に浮かび、ぐつぐつケトルが音を立てる中、タマモは勢いよく首を振った。
大きなバウムクーヘンほぼワンホールを平気で完食したオグリだ。あんなことが、あった日でも。無意識に、額を押さえていた。ちょうど、オグリの唇が触れたところ。
オグリは、まだ子どもだ。でも、子どもに振り回されて、おかわりをしない原因すら聞けない自分は、一体なんだと言うのだろう。
安物のインスタントコーヒーを入れて部屋に戻った。いつも以上にオグリに手渡したマグカップにはコーヒーがなみなみと注がれている。無意識にコーヒーぐらいは飲んで欲しいと思ったのかもしれない。
いつもの調子でテレビをつけ、チャンネルをあれこれ切り替えてみたものの特にめぼしいものは見つからない。話題の切り口をタマモが探していると、オグリはレースを見たいと言いだした。
「レース?ええけど、何見るんや?」
「タマのレースが見たい」
「ウチの?前に何回も見たやろ」
「うん。でも今見たい」
オグリがトレセン学園に来たばかりのころ、タマモはよくトゥインクル・シリーズの映像を彼女に見せたものだった。勝ちきれなかったキャリア前半のレースは脇にのけ、連勝街道を突き進んでいた無敵のイナズマであった頃のレースばかりを。
見てみぃ、アンタもウチみたいになるんやで。そう言って先輩風を吹かしながら。
今考える思い出すのも恥ずかしい話だ。めっちゃイキッてるやんけ、この調子乗り。自分が見せられる立場ならそう思っても不思議ではない。それでもオグリは毎回興味深げに画面をじっと見つめ、子どものようなまなざしとは打って変わって、核心をついた感想を教えてくれた。
それが嬉しかったのかもしれない。単に慕って懐いてくれるだけではなくて、レースとなると対等に物言いができる彼女が。
「そうか、アンタがええんやったら。……ほなまぁ久々に白い稲妻直々にレース見せたろか!」
テレビと携帯をつなぐケーブルなんて上等なものは持っていない。携帯を取り出して、オグリのそばに寄った。小さい画面を二人して覗き込もうとするにはピッタリ隣り合わせにならなければならない。肩が触れた瞬間、タマモははっとしてオグリの様子を伺ったが、オグリは横顔から伸びた長いまつ毛を瞬かせるばかりで、動揺の影は微塵も見えなかった。
自分から言うてきたくせに。不満が心をもたげてきたが、じゃあ頬を染めて俯いてほしいかと言われればそれも違う気がして、触れ合った肩先がそわそわしたままなのを隠しながら、タマモは動画を探した。昼間やらかしたブラウザのアプリは決して触らないように注意しながら。
鳴尾記念、金杯、阪神大賞典。見るレースはお決まりの、タマモクロスの怒涛の連勝街道だ。何度も見たはずのそれを、オグリは真剣そのものの、まるでその場にいるかのような新鮮さで見つめた。天皇賞春、宝塚記念、天皇賞秋。
「……やっぱり、タマは凄いな」
ちょうど、レースがジャパンカップに切り替わるときだった。相変わらず真剣に小さな画面を見続けるオグリの横顔に、ふっと長いまつ毛が影を落とした。そしてタマモは、オグリがタマモのレースを通して、別の何かと向き合っていることに気が付いた。
「……この前のレース、惜しかったな」
「……うん」
トゥインクル・シリーズの一大スター、オグリキャップに囁かれている言葉を、タマモも知らないわけがなかった。天皇賞秋、ジャパンカップ。彼女はどちらも掲示板に残ることすらできなかった。怪物伝説の終わり。レースでの覇気が失われた。もっともらしい言葉を、ファンやメディアは書きたてる。
「一緒に走ってみたかったな」
「こら、ウチかてまだ現役バリバリに走っとるわ!勝手に引退させんな!」
「いや、それはわかっているが……。この時のタマと走っていたら、どうなっていたか、すこし気になっただけなんだ」
「なんや今のウチがまるで衰えたみたいに言いよって」
「違う、そうじゃない、なんだか……上手く説明できないんだが。このレースのタマを見ていると、走りたくなるんだ。すごく」
オグリはそれから口を閉じ、中断していた再生ボタンを勝手に押してしまった。もうタマモはレースを見ていなかった。レースを眺める、オグリのまなざしから視線を動かせなかった。
走りたい、勝ちたい。ウマ娘の根源的な渇望が、オグリのまなざしから、タマモの体に注がれているような気持だった。体の芯がピリピリと熱くなって、いてもたってもいられなくなる。
オグリの闘志は決して消えてはいない。同じウマ娘として、痛いぐらいにわかる。闘志が己の肉体と伴うかはまた別の話ということもタマモにはわかっていた。けれども、心の奥底から、いまだ燃え続けるウマ娘の本能が叫んでいる。
追ってこい、追ってこい、追ってこいと。
気付けば、外は薄暗くなっていた。すべてのレースを見終わると、部屋は急に静かになった。いつの間にか放置されてしまったコーヒーからは、とっくに湯気が失われている。
コーヒーを一気に飲み干し、オグリが立ち上がる。
「長居してしまったな、ありがとう。もう帰ることにする」
「……おう。次こそは、ちゃんと先に連絡せえ」
「わかった。頑張る」
連絡を頑張るとは何なのか。すっかりいつものとぼけた調子に戻ってしまったオグリに、かける言葉が見つからない。玄関を開けてやると、袖口に冷えた空気がしみ込んだ。もういくつも寝ない間に、世界は冬に移り変わるだろう。
「気ぃつけてな。……あ」
声をかけたとたん、オグリの胸元のリボンが少し曲がっているのが目に付いた。あとはもう走って帰るだけなのだから、そこまで気にする必要もないだろう。それでも、いつもの調子でちょっとだけリボンを直してやった。妹にしてやるのと、何が違うのか。己に自問しながら。
「よっしゃ、これでええやろ」
オグリは黙ってされるがままになっていたが、タマモが指先を離そうとすると、そっとその手を掴んだ。まるで名残を惜しむかのように。
今日は、いままでそんなそぶり一度もなかったくせに。オグリがタマモのマニキュアすら塗られていない爪先をそっと撫でる。息が詰まって、声が出ない。
おやすみ、その挨拶に返事が出来なかった。いつの間にかオグリは傍から離れて階段を下りており、タマモは慌ててベランダに走って、オグリが背中を向けて駆け足で去っていくのを見つめていた。薄暗がりに、彼女の芦毛が映えていた。
やがて彼女の姿が見えなくなると、タマモはベランダに干しっぱなしのスポーツタオルをはぎ取って、部屋に戻り、走る準備をした。いてもたってもいられなかった。
爪にも体温があるのだろうか。すっかり日が落ちた街中を走り抜けながら、そんなことを思った。
賭けるとまで言われたのでメッセージで断るのも居心地が悪く、シチーには直接会って話をした。
案外反応はあっさりしたもので、特段引き止められるでもなく、残念がられるでもなかった。なんとなく、そんな気はしてました。シチーは笑った。
「ほんまスマン。なんか持って帰ってもうたから期待させてもうた」
「いえ、いいんです。……タマモ先輩がちゃんと考えてくれたことぐらい、わかってますから。でも、やっぱり本当なんだ」
「何の話や?」
「関西の人の『行けたら行く』で来る人いないってヤツ」
そう言われると返す言葉がない。実際、合コンにはいかないのだから。
「ま、相手にはアテがあるともなんとも言ってないんで。なんとかなると思います。それでどうこういう相手はそれだけって話だし。……ね、タマモ先輩」
「ん?」
「理由聞いてもいいですか?やっぱり相手がいるとか、そうじゃなくても気になる人がいるとか」
シチーが机の上で手を組み、ちょっと首を傾げてタマモを見据える。口調は軽いが眼差しは真剣だ。タマモがわざわざ会ってまでして断ったわけを、なんとなく彼女も察しているようだった。
「恋人とか、そういう話ちゃうねん。ただ、まだちょっとな」
「ちょっとって?」
「……ドリームトロフィーリーグも、いつまで走れるかわからん。せやから、やりきっときたいねん。息抜きも大事なことっちゅうのはわかっとるんやけどな。でも、ウチは1個のことやり始めると周りが見えんようになる。アンタみたいにモデル仕事と両立とか、そういうのは絶対できへん。せかやら、今回は――」
これは答えになっているだろうか。話し終えて不安になり、シチーの様子を伺うと、彼女はつやつやと輝くネイルの指を組み替えた後、口角だけを上げてちょっと笑った。この微笑みだけで何人落とせるのだろうと場違いなことを考える。
「そうですか。うん、わかりました。……だってアタシも、行きたかったから」
ドリームトロフィーリーグの移籍は、ウマ娘の中でもトゥインクルシリーズで特に好成績を収めた者に限られている。シチーのトゥインクルシリーズの成績だってもちろん立派なものだが、それでも移籍の権利は与えられなかった。改めて、自分が多くの人たちの希望の上澄みに存在していることを思い知る。
「勝ってくださいよ、タマモ先輩」
夢の続きを託してくれるシチーに、自分は何ができるだろう。
「おぅ、任せとき」
どんと自分の胸を叩いてみせるとシチーが歯を見せて笑った。笑い方は子どものするそれなのに、今日のシチーは、随分と大人になったように見えた。昔は大人びた外見のわりに子どものようにふてくされることもあったのに。
アンタ大人になったなぁ。思わず声を漏らすと親戚のオバサンみたい、と言われてしまった。誰がオバハンや!勢いよくツッコむとようやくいつもの調子が戻って来た。
「シチー、この後も仕事あるん?」
「はい、撮影じゃなくてちょっと事務所で打ち合わせがあって」
場所を聞けばタマモの最寄り駅への乗り換え駅だ。どうせならと二人でそこまで一緒に帰ることに決め、繁華街の人混みを二人は歩いた。
うわゴールドシチーじゃねありえんマジ綺麗。すれ違うたびにひそめているようで当の本人には丸聞こえの声が飛ぶ。
交差点の信号で立ち止まると、向かいのビルの大型ビジョンが目に入る。よくトゥインクルシリーズのCMなんかを流してくれるので、一度タマモが起用された時、家族に動画を送るためにわざわざここまで電車を乗り継いで来たことを思い出した。
「あ、オグリキャップ」
信号を待っていた誰かがつぶやいた。ハッとしてビジョンを見上げると、カメラのフラッシュが大量に焚かれる中で、勝負服を着たオグリが画面の中にいた。有馬記念の記者会見にしては少々早すぎる。記者会見風のCMか何かだろうかと画面をシチーと見上げていると、画面右上に大きなテロップが流れた。
「――嘘やろ」
信号が青に変わった。多くの人が動き出す中で、タマモがその場にくぎ付けになったかのように動けない。隣のシチーが息をのむ声が聞こえたが、どんな表情をしているかもわからない。
オグリキャップ引退。街のざわめきが、ひどく遠く聞こえた。
結局、どう家に着いたのか、乗り換え駅まで電車に揺られる間、シチーと何を話したのかも、あまり覚えていない。一人になってから携帯のブラウザを立ち上げると、ニュースサイトが一斉にオグリの引退を伝えていた。有馬記念で引退、今後の予定は未定。どの記事を読んでも、わかるのはそれだけだった。
帰るなり床に倒れて、ぼぅっと携帯の画面を眺めていた。オグリからの連絡はない。まだマスコミの対応に追われているのか、それとも。
オグリほどの成績ならば、ドリームトロフィーリーグへの移籍は認められるだろう。しかし、そういう場合はあくまでトゥインクルシリーズの「卒業」と表現される。オグリのように「引退」と言われるのは、本当にターフから去る場合だけだ。
この前、体温がわかるぐらいそばにいたのに。肩が触れたのに。他人の心まで燃やすような眼差しをしていたのに。一体どんな気持ちで、彼女はこの部屋に来ていたのだろう。
彼女のことはわかっていると思っていた。特に何の疑いもなく。タマモにとってのオグリは、永久にショッピングモールで迷子になっていた、あの少女のはずだった。けれどももう、違うのかもしれない。
アホやな、今になって気づくなんて。しかもオグリを目の前にしてではなくて、画面を通して知ることになろうとは。ぐるぐる、思考と時が回る。するとタマモの腹がきゅるきゅると鳴った。シチーとはお茶を飲んだだけだったから、朝以来何も食べていない。
ドリームトロフィーリーグに専念すると言って断ったのに、これではどうしようもない。のっそりと起き上がり、せめて何か口に入れなと思いつつ台所へ向かう。オグリと違って、タマモにとっては食べるのもトレーニングのうちだった。
冷蔵庫を覗くと、ちょうどカレーならできそうな材料が残っていた。オグリがこの部屋に来るようになってから、とりあえず常備しておいて問題なさそうな食材は買っておくようになった。自分の胃袋でカレーをしたら1週間はカレーになりそうだったが、別に食べたいものも思いつかない。黙って材料を取り出し、誰も見ていないのをいいことに足で冷蔵庫を閉めた。
引退後の予定を、オグリは会見で語らなかったようだ。ドリームトロフィーリーグに行かないとすれば、トレーナーにでもなるのか、はたまた大食いタレントにでもなるのか。思い浮かべてみたが、いまいちピンとこなかった。ならば、故郷に帰るのだろうか。だとしたら、このアパートに来ることもなくなるだろう。
廊下で体育座りをして待っていることも、玄関先で濡れネズミになっていることも、部屋に入るなりお腹を鳴らすことも、もうないのだ。
「……えらい染みるやん、この玉ねぎ」
独り言を漏らしたが、テレビもついていないアパートの薄い壁にタマモの声は吸い込まれるだけで、何も返ってはこない。玉ねぎのせい、玉ねぎのせい。そう言い聞かせ、タマモは鼻をすすった。涙が溢れそうになる、良い言い訳だった。
部屋中にルーがとろける匂いがして、鍋一杯のカレーが完成した。米もそろそろ炊けるころだ。あまり食べる気は起こらないが、せめて一皿分は口に入れなければならない。
自分のためだけに料理をすることは、どうしてこんなに張り合いがないのだろうか。洗い物を済ませ、炊飯器の残り時間を確認していると、部屋のチャイムが控えめに鳴った。
宅急便か何かだろうか。目の端が赤くなったのを気にしながらのぞき窓も確認せずにドアを開ける。
「あ……タマ」
昼間とは違って、制服姿のオグリが立っていた。
何と言葉をかけるべきか、わからなかった。また連絡もなしに来て、とか時間は大丈夫なのか、とか。言うべきことはたくさんあるはずだった。しかし、普段は必要以上に良く回る口が、今回ばかりはちっとも動かない。
「ペンを忘れてしまったんだ。この前部屋で、宿題をさせてもらっただろう。良かったら、探させてほしい。……見つけたら、すぐに帰る」
世紀の引退会見を昼間済ませてきたスターウマ娘とは思えなかった。もう外はかなり冷えるのだろう、頬が冷気ですこしだけ赤くなっている。上がるようにタマモが促すと、オグリはゆっくりと身を滑り込ませ、いつものようにシューズを丁寧に揃え直した。
オグリの探し物はテレビ台のそばにあった。いつもリモコンを置いている場所の影になっているので、タマモは気づけなかったのだ。
良かった、とほっとしたように手の上のペンをオグリは見つめている。そんなに探し回るようなものなのかと興味がわき、タマモがオグリの手の中を覗き込むと、ノックの部分がたこ焼きになった、はっきり言って使い勝手はよろしくなさそうなボールペンが握られている。見覚えがある。タマモがあげたものだ。大阪土産、と言いながら適当に選んだ、もう忘れかけていたボールペン。
オグリに想われていることをこの瞬間タマモは思い知った。告白された時よりも、抱きしめられた時よりも、もっと深い気持ちに打たれたような心地だった。
「……引退、するんやってな」
「……うん」
「……カレーあるけど。食うか」
「……うん」
テレビもつけぬまま、二人はカレーを食べた。特に会話らしい会話はしなかった。オグリはおかわりをしなかった。代わりにタマモのよそった1杯を、ていねいに、ていねいに、噛み締めるようにして食べた。
彼女なりに食欲が落ちているのは、やはり事実のようだった。本当は聞きたくてたまらなかった。いろんなことを。けれど黙々と食べ進める彼女の肩に、大きな孤独のようなものがのしかかっているような気がして、何も言えなかった。こんなに周囲の愛に囲まれていたとしても、スターであることは、彼女を孤独にさせ、そして大人にさせる。彼女はもう、子どもではなかった。自分で去り際を決められるぐらい、もう彼女は自立の道を歩みだそうとしている。
珍しく、食事を終えたのはほぼ同時だった。オグリはしっかりと両手を合わせ、自分の持ってきたハンカチで口元を拭って立ち上がった。
「ごちそうさま。本当に、美味しかった」
「そうか。ほんならええ」
狭い玄関で彼女が背中を丸めてシューズを履く背中を、タマモは眺めていた。足が長い彼女が座り込むと、身長のわりに少し小さく見える。であった頃の、小さかったオグリが脳裏に浮かぶ。人混みの中、ひとりぼっちで、不安そうにしていた芦毛の女の子。
オグリが立ちあがり、タマモの方へ向き直る。じゃあ、と口を開きかけたオグリの制服のリボンを掴んだ。この前は直してやったリボンを思い切りひっぱって、自分の方へ引き寄せる。
とっさに屈みかけたオグリの口元に唇を寄せた。ちゃんと唇同士が触れ合うはずが、タマモの唇は結局、オグリの口の端をかすめただけだった。年上のくせに、キスすらちゃんとしてやれない。
「――上手く、できへん」
失敗した気恥ずかしさと己の大胆さに俯く。オグリのリボンから手を離すと、今度はオグリが玄関先に膝をついて、タマモの肩口に顔を埋め、思いっきり抱きついてくる。ちょうどオグリの頭を抱える格好になり、二人はしっかりと抱き合った。
悲しくないのに、視界が潤んで声が出ない。オグリの熱がしっかりタマモの体内まで伝わって、じわじわとお互いの体温がひとつになる。誰かと想いあうことはこんなにも嬉しいものかとタマモは思った。
「ウチ、チビやし口うるさいし喧嘩っ早いし。おまけにケチやし。アンタに年上らしい付き合い、たぶんさせてあげられへん。……それでもええんやな」
オグリの頬を包み、額と額をつけた。お互いの息が頬にかかってかすかにくすぐったい。
――タマがいいんだ。オグリが囁くように言う。二人はしばらく額を合わせて目を閉じて、お互いの呼吸のリズムを聞いていた。すごく長いような短いような、不思議な時間だった。
「うん。これで今度からは、タマと一緒に走れるな」
体を離したあと、オグリがおもむろに言うのでタマモは思わず目を丸くした。
「え、今度って」
「次の有馬記念ででトゥインクルシリーズを卒業したらドリームトロフィーリーグに行く。そのつもりなんだが」
「は、アンタせやって予定は未定って――」
「そうなのか?」
「そうなのかってなんや!自分のことやろ!ニュースでえらい騒ぎになってんのに!」
「そうか。そういえば確かに会見の時に今後をどうするか言わなかったかもしれない。……どうしたタマ、ため息をつくと幸せが逃げるらしいぞ」
「……もうええわ」
さっきの涙を返してほしい。多少、いや多大に感傷的になっていた己の総てが恥ずかしかった。引っ張ったせいでよれてしまったオグリのリボンを直してやる。ありがとう、とオグリは子どものようにきょとんとした顔のまま礼を言い、ゆっくりと立ち上がった。
「正直、移籍の話が出た時は悩んだ。今の私の成績で行って良いのかと。でも、タマのレースを見ていると、どうしてもキミと走りたくなった。だから、次のレースに勝って、万全の状態でタマと戦って、勝ちたい。そう思っている」
この前と同じ、強いまなざし。今度は画面の中のタマモではなく、はっきりと目の前の自分を見据えている。体の芯が電流を帯びる。ピリピリ、じりじり、鼓動が早くなる。
「……コイビトやなんやってウチは甘やかさへんぞ。はよ勝って、上がってこい」
「うん。勝つぞ、私は」
オグリはしっかりと頷いた。勝負の世界に絶対はない。タマモもレース人生で思い知ったことだ。しかし、オグリは絶対に勝つだろうと思った。彼女ならば、絶対に。たとえ誰も信じていなかったとしても、自分だけはわかる。
最後にもう一度だけ額と額を合わせてから、オグリは帰っていった。この前のようにベランダまで走り、タマモはオグリを見送る。
一度だけ、オグリが振り返ってアパートのベランダを見上げた。タマモが小さく手を振ると、オグリもそっと振り返した。街灯の下に、オグリの尻尾が揺れている。単なる早足でも、オグリのフォームは驚くくらい美しい。走るために生まれてきたのだ、彼女も、そしてきっと自分も。
オグリの姿が見えなくなっても、タマモはベランダの柵に体をもたせかけたまま、ぼうっと外を見ていた。じわじわと胸の奥がくすぐったい感覚でいっぱいになっていく。
長らく、タマモには自分だけのものがなかった。お父ちゃんお母ちゃんは第一にお互いがお互いのために存在していたし、家族はみんなのものだった。それでなんの不満もなかった。自分だけのもの。しかしその響きにどこか秘密の憧れがあったのもまた事実だった。周囲が恋愛話に花を咲かせるようになって、それを冷めた風に聞きながらも、いつか自分も両親のような相手ができたら、とどこかで願っていたのだった。
親の言うことは聞いとくもんや。冷たい風に熱い頬を覚ましながら、タマモは思った。残り物には福があるとは言うけれど、待っていたのはとびっきりの相手だった。自分と同じくらい足が速くて、とびっきり心の大きな相手。焦る必要などひとつもなかった。
空を見上げると、冬の星座が都会の街でも明るく輝いている。何故だか再び視界が潤んで、タマモは慌てて目の端を拭った。明日から、また走る日々が始まる。今度は一人ではない。大切な相手がそばにいてくれるだろう。