オグリ(概念17~18)×タマおねえちゃん(概念23~24)その5 (ラスト) 賭けるとまで言われたのでメッセージで断るのも居心地が悪く、シチーには直接会って話をした。
案外反応はあっさりしたもので、特段引き止められるでもなく、残念がられるでもなかった。なんとなく、そんな気はしてました。シチーは笑った。
「ほんまスマン。なんか持って帰ってもうたから期待させてもうた」
「いえ、いいんです。……タマモ先輩がちゃんと考えてくれたことぐらい、わかってますから。でも、やっぱり本当なんだ」
「何の話や?」
「関西の人の『行けたら行く』で来る人いないってヤツ」
そう言われると返す言葉がない。実際、合コンにはいかないのだから。
「ま、相手にはアテがあるともなんとも言ってないんで。なんとかなると思います。それでどうこういう相手はそれだけって話だし。……ね、タマモ先輩」
「ん?」
「理由聞いてもいいですか?やっぱり相手がいるとか、そうじゃなくても気になる人がいるとか」
シチーが机の上で手を組み、ちょっと首を傾げてタマモを見据える。口調は軽いが眼差しは真剣だ。タマモがわざわざ会ってまでして断ったわけを、なんとなく彼女も察しているようだった。
「恋人とか、そういう話ちゃうねん。ただ、まだちょっとな」
「ちょっとって?」
「……ドリームトロフィーリーグも、いつまで走れるかわからん。せやから、やりきっときたいねん。息抜きも大事なことっちゅうのはわかっとるんやけどな。でも、ウチは1個のことやり始めると周りが見えんようになる。アンタみたいにモデル仕事と両立とか、そういうのは絶対できへん。せかやら、今回は――」
これは答えになっているだろうか。話し終えて不安になり、シチーの様子を伺うと、彼女はつやつやと輝くネイルの指を組み替えた後、口角だけを上げてちょっと笑った。この微笑みだけで何人落とせるのだろうと場違いなことを考える。
「そうですか。うん、わかりました。……だってアタシも、行きたかったから」
ドリームトロフィーリーグの移籍は、ウマ娘の中でもトゥインクルシリーズで特に好成績を収めた者に限られている。シチーのトゥインクルシリーズの成績だってもちろん立派なものだが、それでも移籍の権利は与えられなかった。改めて、自分が多くの人たちの希望の上澄みに存在していることを思い知る。
「勝ってくださいよ、タマモ先輩」
夢の続きを託してくれるシチーに、自分は何ができるだろう。
「おぅ、任せとき」
どんと自分の胸を叩いてみせるとシチーが歯を見せて笑った。笑い方は子どものするそれなのに、今日のシチーは、随分と大人になったように見えた。昔は大人びた外見のわりに子どものようにふてくされることもあったのに。
アンタ大人になったなぁ。思わず声を漏らすと親戚のオバサンみたい、と言われてしまった。誰がオバハンや!勢いよくツッコむとようやくいつもの調子が戻って来た。
「シチー、この後も仕事あるん?」
「はい、撮影じゃなくてちょっと事務所で打ち合わせがあって」
場所を聞けばタマモの最寄り駅への乗り換え駅だ。どうせならと二人でそこまで一緒に帰ることに決め、繁華街の人混みを二人は歩いた。
うわゴールドシチーじゃねありえんマジ綺麗。すれ違うたびにひそめているようで当の本人には丸聞こえの声が飛ぶ。
交差点の信号で立ち止まると、向かいのビルの大型ビジョンが目に入る。よくトゥインクルシリーズのCMなんかを流してくれるので、一度タマモが起用された時、家族に動画を送るためにわざわざここまで電車を乗り継いで来たことを思い出した。
「あ、オグリキャップ」
信号を待っていた誰かがつぶやいた。ハッとしてビジョンを見上げると、カメラのフラッシュが大量に焚かれる中で、勝負服を着たオグリが画面の中にいた。有馬記念の記者会見にしては少々早すぎる。記者会見風のCMか何かだろうかと画面をシチーと見上げていると、画面右上に大きなテロップが流れた。
「――嘘やろ」
信号が青に変わった。多くの人が動き出す中で、タマモがその場にくぎ付けになったかのように動けない。隣のシチーが息をのむ声が聞こえたが、どんな表情をしているかもわからない。
オグリキャップ引退。街のざわめきが、ひどく遠く聞こえた。
結局、どう家に着いたのか、乗り換え駅まで電車に揺られる間、シチーと何を話したのかも、あまり覚えていない。一人になってから携帯のブラウザを立ち上げると、ニュースサイトが一斉にオグリの引退を伝えていた。有馬記念で引退、今後の予定は未定。どの記事を読んでも、わかるのはそれだけだった。
帰るなり床に倒れて、ぼぅっと携帯の画面を眺めていた。オグリからの連絡はない。まだマスコミの対応に追われているのか、それとも。
オグリほどの成績ならば、ドリームトロフィーリーグへの移籍は認められるだろう。しかし、そういう場合はあくまでトゥインクルシリーズの「卒業」と表現される。オグリのように「引退」と言われるのは、本当にターフから去る場合だけだ。
この前、体温がわかるぐらいそばにいたのに。肩が触れたのに。他人の心まで燃やすような眼差しをしていたのに。一体どんな気持ちで、彼女はこの部屋に来ていたのだろう。
彼女のことはわかっていると思っていた。特に何の疑いもなく。タマモにとってのオグリは、永久にショッピングモールで迷子になっていた、あの少女のはずだった。けれどももう、違うのかもしれない。
アホやな、今になって気づくなんて。しかもオグリを目の前にしてではなくて、画面を通して知ることになろうとは。ぐるぐる、思考と時が回る。するとタマモの腹がきゅるきゅると鳴った。シチーとはお茶を飲んだだけだったから、朝以来何も食べていない。
ドリームトロフィーリーグに専念すると言って断ったのに、これではどうしようもない。のっそりと起き上がり、せめて何か口に入れなと思いつつ台所へ向かう。オグリと違って、タマモにとっては食べるのもトレーニングのうちだった。
冷蔵庫を覗くと、ちょうどカレーならできそうな材料が残っていた。オグリがこの部屋に来るようになってから、とりあえず常備しておいて問題なさそうな食材は買っておくようになった。自分の胃袋でカレーをしたら1週間はカレーになりそうだったが、別に食べたいものも思いつかない。黙って材料を取り出し、誰も見ていないのをいいことに足で冷蔵庫を閉めた。
引退後の予定を、オグリは会見で語らなかったようだ。ドリームトロフィーリーグに行かないとすれば、トレーナーにでもなるのか、はたまた大食いタレントにでもなるのか。思い浮かべてみたが、いまいちピンとこなかった。ならば、故郷に帰るのだろうか。だとしたら、このアパートに来ることもなくなるだろう。
廊下で体育座りをして待っていることも、玄関先で濡れネズミになっていることも、部屋に入るなりお腹を鳴らすことも、もうないのだ。
「……えらい染みるやん、この玉ねぎ」
独り言を漏らしたが、テレビもついていないアパートの薄い壁にタマモの声は吸い込まれるだけで、何も返ってはこない。玉ねぎのせい、玉ねぎのせい。そう言い聞かせ、タマモは鼻をすすった。涙が溢れそうになる、良い言い訳だった。
部屋中にルーがとろける匂いがして、鍋一杯のカレーが完成した。米もそろそろ炊けるころだ。あまり食べる気は起こらないが、せめて一皿分は口に入れなければならない。
自分のためだけに料理をすることは、どうしてこんなに張り合いがないのだろうか。洗い物を済ませ、炊飯器の残り時間を確認していると、部屋のチャイムが控えめに鳴った。
宅急便か何かだろうか。目の端が赤くなったのを気にしながらのぞき窓も確認せずにドアを開ける。
「あ……タマ」
昼間とは違って、制服姿のオグリが立っていた。
何と言葉をかけるべきか、わからなかった。また連絡もなしに来て、とか時間は大丈夫なのか、とか。言うべきことはたくさんあるはずだった。しかし、普段は必要以上に良く回る口が、今回ばかりはちっとも動かない。
「ペンを忘れてしまったんだ。この前部屋で、宿題をさせてもらっただろう。良かったら、探させてほしい。……見つけたら、すぐに帰る」
世紀の引退会見を昼間済ませてきたスターウマ娘とは思えなかった。もう外はかなり冷えるのだろう、頬が冷気ですこしだけ赤くなっている。上がるようにタマモが促すと、オグリはゆっくりと身を滑り込ませ、いつものようにシューズを丁寧に揃え直した。
オグリの探し物はテレビ台のそばにあった。いつもリモコンを置いている場所の影になっているので、タマモは気づけなかったのだ。
良かった、とほっとしたように手の上のペンをオグリは見つめている。そんなに探し回るようなものなのかと興味がわき、タマモがオグリの手の中を覗き込むと、ノックの部分がたこ焼きになった、はっきり言って使い勝手はよろしくなさそうなボールペンが握られている。見覚えがある。タマモがあげたものだ。大阪土産、と言いながら適当に選んだ、もう忘れかけていたボールペン。
オグリに想われていることをこの瞬間タマモは思い知った。告白された時よりも、抱きしめられた時よりも、もっと深い気持ちに打たれたような心地だった。
「……引退、するんやってな」
「……うん」
「……カレーあるけど。食うか」
「……うん」
テレビもつけぬまま、二人はカレーを食べた。特に会話らしい会話はしなかった。オグリはおかわりをしなかった。代わりにタマモのよそった1杯を、ていねいに、ていねいに、噛み締めるようにして食べた。
彼女なりに食欲が落ちているのは、やはり事実のようだった。本当は聞きたくてたまらなかった。いろんなことを。けれど黙々と食べ進める彼女の肩に、大きな孤独のようなものがのしかかっているような気がして、何も言えなかった。こんなに周囲の愛に囲まれていたとしても、スターであることは、彼女を孤独にさせ、そして大人にさせる。彼女はもう、子どもではなかった。自分で去り際を決められるぐらい、もう彼女は自立の道を歩みだそうとしている。
珍しく、食事を終えたのはほぼ同時だった。オグリはしっかりと両手を合わせ、自分の持ってきたハンカチで口元を拭って立ち上がった。
「ごちそうさま。本当に、美味しかった」
「そうか。ほんならええ」
狭い玄関で彼女が背中を丸めてシューズを履く背中を、タマモは眺めていた。足が長い彼女が座り込むと、身長のわりに少し小さく見える。であった頃の、小さかったオグリが脳裏に浮かぶ。人混みの中、ひとりぼっちで、不安そうにしていた芦毛の女の子。
オグリが立ちあがり、タマモの方へ向き直る。じゃあ、と口を開きかけたオグリの制服のリボンを掴んだ。この前は直してやったリボンを思い切りひっぱって、自分の方へ引き寄せる。
とっさに屈みかけたオグリの口元に唇を寄せた。ちゃんと唇同士が触れ合うはずが、タマモの唇は結局、オグリの口の端をかすめただけだった。年上のくせに、キスすらちゃんとしてやれない。
「――上手く、できへん」
失敗した気恥ずかしさと己の大胆さに俯く。オグリのリボンから手を離すと、今度はオグリが玄関先に膝をついて、タマモの肩口に顔を埋め、思いっきり抱きついてくる。ちょうどオグリの頭を抱える格好になり、二人はしっかりと抱き合った。
悲しくないのに、視界が潤んで声が出ない。オグリの熱がしっかりタマモの体内まで伝わって、じわじわとお互いの体温がひとつになる。誰かと想いあうことはこんなにも嬉しいものかとタマモは思った。
「ウチ、チビやし口うるさいし喧嘩っ早いし。おまけにケチやし。アンタに年上らしい付き合い、たぶんさせてあげられへん。……それでもええんやな」
オグリの頬を包み、額と額をつけた。お互いの息が頬にかかってかすかにくすぐったい。
――タマがいいんだ。オグリが囁くように言う。二人はしばらく額を合わせて目を閉じて、お互いの呼吸のリズムを聞いていた。すごく長いような短いような、不思議な時間だった。
「うん。これで今度からは、タマと一緒に走れるな」
体を離したあと、オグリがおもむろに言うのでタマモは思わず目を丸くした。
「え、今度って」
「次の有馬記念ででトゥインクルシリーズを卒業したらドリームトロフィーリーグに行く。そのつもりなんだが」
「は、アンタせやって予定は未定って――」
「そうなのか?」
「そうなのかってなんや!自分のことやろ!ニュースでえらい騒ぎになってんのに!」
「そうか。そういえば確かに会見の時に今後をどうするか言わなかったかもしれない。……どうしたタマ、ため息をつくと幸せが逃げるらしいぞ」
「……もうええわ」
さっきの涙を返してほしい。多少、いや多大に感傷的になっていた己の総てが恥ずかしかった。引っ張ったせいでよれてしまったオグリのリボンを直してやる。ありがとう、とオグリは子どものようにきょとんとした顔のまま礼を言い、ゆっくりと立ち上がった。
「正直、移籍の話が出た時は悩んだ。今の私の成績で行って良いのかと。でも、タマのレースを見ていると、どうしてもキミと走りたくなった。だから、次のレースに勝って、万全の状態でタマと戦って、勝ちたい。そう思っている」
この前と同じ、強いまなざし。今度は画面の中のタマモではなく、はっきりと目の前の自分を見据えている。体の芯が電流を帯びる。ピリピリ、じりじり、鼓動が早くなる。
「……コイビトやなんやってウチは甘やかさへんぞ。はよ勝って、上がってこい」
「うん。勝つぞ、私は」
オグリはしっかりと頷いた。勝負の世界に絶対はない。タマモもレース人生で思い知ったことだ。しかし、オグリは絶対に勝つだろうと思った。彼女ならば、絶対に。たとえ誰も信じていなかったとしても、自分だけはわかる。
最後にもう一度だけ額と額を合わせてから、オグリは帰っていった。この前のようにベランダまで走り、タマモはオグリを見送る。
一度だけ、オグリが振り返ってアパートのベランダを見上げた。タマモが小さく手を振ると、オグリもそっと振り返した。街灯の下に、オグリの尻尾が揺れている。単なる早足でも、オグリのフォームは驚くくらい美しい。走るために生まれてきたのだ、彼女も、そしてきっと自分も。
オグリの姿が見えなくなっても、タマモはベランダの柵に体をもたせかけたまま、ぼうっと外を見ていた。じわじわと胸の奥がくすぐったい感覚でいっぱいになっていく。
長らく、タマモには自分だけのものがなかった。お父ちゃんお母ちゃんは第一にお互いがお互いのために存在していたし、家族はみんなのものだった。それでなんの不満もなかった。自分だけのもの。しかしその響きにどこか秘密の憧れがあったのもまた事実だった。周囲が恋愛話に花を咲かせるようになって、それを冷めた風に聞きながらも、いつか自分も両親のような相手ができたら、とどこかで願っていたのだった。
親の言うことは聞いとくもんや。冷たい風に熱い頬を覚ましながら、タマモは思った。残り物には福があるとは言うけれど、待っていたのはとびっきりの相手だった。自分と同じくらい足が速くて、とびっきり心の大きな相手。焦る必要などひとつもなかった。
空を見上げると、冬の星座が都会の街でも明るく輝いている。何故だか再び視界が潤んで、タマモは慌てて目の端を拭った。明日から、また走る日々が始まる。今度は一人ではない。大切な相手がそばにいてくれるだろう。