biotope歴史は大河の流れのようなもの。
何れかのサーバーの何某という本丸の誰彼という刀剣男士がそう例えたと云う。果たして事実、そうなのだろう。世界が始まり時間が動き出したのを起点に歴史は流れ始め、時の政府が管理している現時点まで一筋の大きな河として流れ着き、この先へと恐らくは流れ続けていく。歴史の流れは大きく緩やかであった為、その道筋は逸れる事もましてや氾濫する事もなく、ただ過去から現在、そして未来へと流れていくものと思われていた。
その時、までは。
ある時、後に歴史修正主義者と呼ばれる未知の存在が現れた。彼等は過去から未来へと流れるだけだった時間を遡り、歴史という過去に起こった事実の改変を開始する。それは水面に小石を投げ入れて波紋を浮かべる程度で済むものから、巨大な岩で流れを堰止め、流れる方向自体を変えてしまうような改変となった。波紋程度であれば歴史という事実認識の強固さ故、自浄作用が働き、大勢に影響はない。だが、流れる方向が変わってしまえば今日までの道筋が違えてしまう。
時の政府はこれを阻止する為の手段を講じる。それが審神者と、審神者の手によって人の身を得て顕現した刀剣の付喪神、刀剣男士であった。
しかし此方側が動けるのはあくまで改竄の兆候が観られてから。歴史修正主義者がどの時代の何を改竄しようとしてくるのかはその時になってからしか判らない。しかも敵の本陣が何処に在るのか不明なこの戦いは必然的に後手後手となり、歴史の守護の難しさを増長していた。
僅かな綻びの内であれば取り戻せる。審神者と刀剣男士の活躍により歴史は守られ、綻びも大きな流れに呑まれて無かった事に出来た。戦える力を持つ刀の依代を次々と増やし、刀剣男士を顕現させる事が出来る審神者の数を増やし、歴史修正主義者からの攻撃を凌いだ。
それでも。
河に投げ込まれた改竄の石が底に溜まり、水の流れが澱むように時間が澱となって歪んでしまう。歴史が改竄される事例が現れたのだ。それを放置すれば歴史が徐々に狂い出し、正史という大河を逸れてしまう。
史実が史実でなくなってしまう。
未来が、否、今日、この日が崩壊する危機。
歴史が歪に歪められ、手の打ちようが無くなった時、政府はその改竄が為されてしまった時間軸を切り離す術を手に入れる。改竄されてしまった時点の前と後で時間を止め、その部分だけを取り除くのだ。汚染されてしまった河の上流と下流で流れを堰き止め、汚濁が大河全体に広まらないように隔離し、その部分の歴史を放棄する、所謂【放棄された世界】が生まれる事となった。
時の政府と歴史修正主義者との戦いが続くにつれ、【放棄された世界】は人工的に作られた溜池の如く、大河に沿って幾つも遺される。致死量の猛毒を含んだそれは近い将来、確実に大河へと影響を及ぼすと懸念されており、時の政府は時折その入口を開いて審神者と刀剣男士を出陣させる事で対応を試みた。対処療法しか無いように思われていた【放棄された世界】への処置。そこに一筋の光が見えたのは偶然だった。幾つもある【放棄された世界】の状況を確認するのが業務である末端の職員が小さな異変に気付いたところから始まった。
澱んで滞り動かなくなっていた筈の【放棄された世界】の時間の流れが僅かに観測されたのである。誤差だと思われていた細波はやがて本格的なうねりとなり、止まっていた時間を動かし始める。狂気と闇に満ちていた空間は清浄な風を生み、新しい命さえ存在するようになっていった。小さな花が咲いたのである。
時の政府はその【放棄された世界】へ出陣した本丸を調査し、原因を突き止めた。
死に絶えた世界を耕し、種を植え、芽吹かせたのは一振りの刀剣男士だった。
本丸と呼ぶには小さすぎる建家に広い庭。青々と茂る生け垣に囲まれた敷地には色とりどりの花々が咲き乱れる花壇と、季節の野菜や果実を実らせる畑が作られている。
『――桑名江』
力強く鍬を柔く黒い土へと振り下ろすさくさくという音に混じり、人工的な機械音を含む声が刀剣男士の銘を呼ぶ。呼ばれた男士が地面を耕す手を止める事なくちらりと足元に視線だけをやれば、其処には管狐のこんのすけが控えていた。
「なあに?」
『任務です。次の命が出ました』
鍬の刃が土を掘り起こす。少し湿った土はほろほろと解れ、質の良さが伺えた。手にした鍬を杖のように付き、被った帽子の鍔を軽く上げると首に巻いた手拭いで額の汗を拭う。
「はいはい」
適当とも取れるような返事を受け、首を傾げるような動作をしたこんのすけがその場から掻き消える。独り残った桑名は内番着の上着のぽけっとへと手を入れた。引き出された指に絡むのは戦装束の時に手首に巻いている注連飾りに似た装飾具。通常であれば黄と白で編まれたそれに桑名江の色ではない差し色があった。
「行ってくるね、松井」
ぎゅっと握り締めて宙へと翳す。差し色の正体は見上げた天と同じ色の飾紐だった。