古いインターホンと、ドアを控えめに叩く音で目が覚めた。訪ねた相手は予測できた。人付き合いの薄い自分にとって、来る者は限られている。ディアスはゆっくりと起き上がり、寝起きの頭をかきながら鍵を開けた。
「あっ…ごめんなさい、寝てたのね。今週夜勤だったの?」
「……何か用か」
「お母さんがね、一人だと栄養偏るから、おかず持って行きなさい、って。入ってもいい?」
レナは自分の顔より大きい保冷バッグを持ち上げて笑う。世話焼きのおばさんのことだ、きっとあの中にはタッパーがパンパンに詰まっていることだろう。
「…すぐ帰るんだぞ」
ディアスは複雑なため息をついて、レナを部屋に入れた。
「相変わらず、何食べてるのかわからない冷蔵庫ね…」
タッパーには一つ一つマスキングテープが貼られ、その上にはマーカーでおかずの名前が書いてあった。レナは「これは足が早いから先に食べてね、って。手前に入れておくから」と言って、慣れた手つきでしまっていく。
「タンパク質は摂っている」
「すぐそこの焼き鳥屋さんでしょ?もう、好きなものには目がないんだから」
小言を言うレナは年々母親に似てきているな…とディアスは思った。
「大変なお仕事なんだから、身体大事にしないとね」
「………大事に、か」
2年前、家族が死んだ。旅行へ出発する便の飛行機事故だった。自分だけは仕事で遅れるのがわかっていたから、現地で合流する予定だった。
「大事な、ものは、もう」
かわいい、大切な妹だった。旅行も、お兄ちゃんが来ないなら行かない!と駄々をこねたほど、自分を慕ってくれていた。いつか親元を離れる日までは、親よりも甘やかしてやろうと、そう本気で思っていたのに。
「…もう……俺には」
続けようとしたところで、座っていたディアスの膝を、レナが遠慮がちに触れる。
「………淋しいこと…言わないで」
澄んだ蒼い瞳が潤んで揺れた。無垢で、眩しく、未来が輝いて見える瞳に映る自分は、相応しくない気がした。この少女は、本当に昔から知る幼なじみだったのか。
「私じゃ…ダメなの?」
レナが制服のスカートの裾を握りながら問いかける。
「私…私は、ずっと、本当は」
「レナ、違う」
ディアスは続きの言葉を言わせぬよう畳み掛けた。
「お前ももう子供じゃない。もう、ここに一人では来るな」
「……………っ」
大事な幼なじみ。今の脆い自分が、その理性一つ壊せば、その関係は崩れてしまうのだ。
大事だから。大事すぎるから。失ってしまうのはこわい。
レナの乾いた唇が動く。
「………………いや」
「……俺の言ってる意味がわからないのか?」
「わかってる」
「…………なら」
「来るもん……。一人で、一人でここに来たいの」
瞬間、ディアスはレナの手を掴むと両腕を上げて固定し、素早く彼女を押し倒した。
「男は、こうやっていつでも簡単に、お前を好きなようにできるんだぞ」
「……!」
顔を近づけると、はらりと横の髪の毛がレナの耳に落ちる。くすぐったかったのか、一瞬目を瞑ったレナの身体がぴくっと跳ねた。
本能か脅しか自分でもわからない。それを見た途端、レナの首元に顔を沈めようとして、
─────RRRRRR……
寝床のスマホから、けたたましくアラームが鳴った。夜勤の出勤準備を始める合図だ。我に返ったディアスは起き上がり、スマホの音を止め、無言で髪をかき上げた。
「……そろそろ帰るね。仕事前にごめんなさい」
レナも立ち上がり制服を整える。空の保冷バッグを持って玄関へ向かった。
「レナ」
靴を履く背中に声をかけた。
「とにかく…もうここには来るな」
レナは動きを止め、ゆっくり振り向いて笑った。
「私、ディアスだから、うれしかったの。ディアスだったらそうなってもいいって…本当に思った」
まだ日が高い位置にある時間。レナが扉を開けると、明るい光が燦々と差し込んでくる。小さく、ちょっとだけドキドキしたけど、と呟いた声がした後、扉は少し軋んだ音をたてて閉まった。
僅かに赤く染まった耳は、太陽のせいだとディアスは思った。