故郷と似て非なる、穏やかな日常に戻った町の、ある一軒の家屋。そこでディアスは強制的に床に座らされていた。対面にはレナと、妹と同じ名前の、あの時の女児。
「じゃあセシルはおかあさんで、お兄ちゃんとお姉ちゃんはきょうだいね!」
「ええ、わかったわ」
「……おいレナ」
「お兄ちゃん! ちゃんとお姉ちゃんみたいにおへんじしなさい!」
「………腑に落ちん」
「ディアス、ちゃんと付き合ってあげなきゃ」
「……………」
仮想空間のマーズには特に用事はなかった。仲間のセリーヌが、「なんだか実家の親の顔が見たくなってしまいましたわ」と言い出さなければ、必要な買い出しだけ済ませて再びダンジョンに向かうはずだったのだ。マーズに寄らなければ、セシルと偶然再会したレナにも出くわさず、こうして子供の遊びに付き合わされるはめにもならなかったのに。自身の運の悪さを呪う。
「とんとんとん、まっててね〜、もうすぐごはんができますからね」
セシルは木製の台の上に薄い一枚板を置き、包丁を模したおもちゃでリズムを刻んでいる。具のようなものは見当たらない。
「あいつは何を切ってるんだ……?」
「しーっ……ディアス、子供のやることに口出しちゃダメよ」
レナは人差し指を口の前で立てて小声で制した。
「いもうとちゃん、おとなしくおにいちゃんと遊んでまってるのよ〜〜」
「は、はーい……。何して過ごしたらいいのかしら?」
「お姉ちゃん、いもうとちゃんはちいさいんだからそんなに上手におしゃべりできないの! お兄ちゃんあそぼうっていえばいいんだよ!」
振り返って指図するセシルの目が据わっている。レナはびくっと肩を震わせた。
「わ、わかったわ……。じゃあ、遊びましょ? お、お兄ちゃん……」
上目遣いで顔を赤らめて誘ってくる姿に動揺したディアスは、後退りした勢いで家の柱に後頭部をぶつけた。派手な音が響く。
「おまたせ、ふたりとも、ごはんできたわよ〜。たべなさ〜い」
「わ〜、おなかすいたな〜」
セシルが盆を運んでくる。積み木が何個か入ったお椀をそれぞれの前に置いた。
「おい、一体これは何の料理なんだ」
「きょうはふたりのだいすきなシチューよ〜。あついからきをつけてたべてねっ」
「おかあさんありがとう〜」
「シチュー……」
「なあに、おにいちゃん? たべないの? きらい?」
「スプーンがないぞ」
「もうっ、きょうはスプーンないのっ! いいから早く食べて!」
「ディアス、おままごとにリアル求めちゃダメよ」
「理不尽だな……」
ディアスは片手で腕を持ち、一気に飲み干す振りをした。食べ終わったのを見届けて満足したセシルは、棚の引き出しをあちこち開けて探すような素振りをする。
「たいへん、おゆうはんのざいりょうがたりないわ。おかあさん、ちょっとおかいものしてくるわね。ふたりでおるすばんしててくれる?」
「うん、いってらっしゃーい」
レナが手を振って見送ると、セシルは買い物かごを持ち、本当に自室を出て行った。肩の力が抜けたディアスが長いため息をつく。
「子供の相手は疲れる……。戦っている方が遥かにマシだな」
「ふふ、でも付き合ってくれてありがとう」
ディアスは少し身体をずらして背中を壁にもたれた。レナも隣で倣う。
「少し寝る……あいつが戻ってきたら起こせ」
腕を組み両目を瞑る。レナが頷く前に、静かな寝息が聞こえてきた。横顔を眺める。長い睫毛が、少しだけ上下に揺れる。
ディアスの綺麗な顔を見ながら、さっきの飯事のやり取りを思い出す。
確かに、だいすきなおにいちゃん、だった。ずっと。
でも、今は。それだけじゃなくて。
エクスペルに帰ったら、今度は自分が食事をご馳走して。久しぶりの故郷をもう一回案内して。
ふたりでアーリアに帰って、こんな日常を過ごしていけたら、どんなに幸せだろう。
「わたしは……ディアスと……」
続きを一人呟こうとしたら、壁に寄りかかっていたディアスの身体の重心がずれて、レナの方に傾いてきた。
「えっ、えっ……」
慌てる間もなく、肩にディアスの頭が乗る。
「ど、どうしよう……。このままじゃ首が疲れちゃうわよね…」
レナは、戸惑いつつ意を決すると、辺りを見回して、横座りしていた足の向きを変えた。
「ただいま、おかあさんかえってきたわよ〜。あー、お兄ちゃんねちゃったの?」
セシルが再び部屋に戻ったのは、しばらく経ってからだった。レナはてっきり飯事に飽きて、自分で違う遊びを始めていたと思ったので、設定がまだ続いていたことに少し驚いた。
「疲れているみたい。ちょっとだけ寝かせてあげてね」
腰に両手を当てて呆れ顔になるセシルに、小声でレナが諭す。
「も〜、これじゃ、おおきいおとうとじゃないの〜」
セシルの小言が聞こえないよう、レナは笑みを浮かべながら、膝枕で寝ているディアスの髪を撫でるふりをして、さりげなく耳を手で塞いだ。
*****
「お姉ちゃんたち、今日はありがとう! 楽しかったよ」
家の入口でセシルが二人を見送る頃には、日が間もなく沈むところだった。
「良かった。私も楽しかったわ、ありがとう」
「うん! ……お兄ちゃん! 今度は寝ないでちゃんとつきあってねっ」
「……飯事以外なら考えてやる」
セシルはディアスとレナの顔を交互に見て、少し考えてから、口を開いた。
「ねぇ、お姉ちゃんたちは本当の兄妹じゃないんだよね?」
「ええ」
レナの返事とディアスの無言の頷きが重なる。
「じゃあ、結婚できるんだ! お姉ちゃんたち、兄妹役よりパパママ役の方が合ってるもん。さっき、お膝の上でなかよくしてたもんね」
「えっ……ちょっ、セシルそれは……」
レナの顔が真っ赤に茹で上がる。
寝ている間のことは、ディアスには知られたくなかったのに。
「…………。できると、するは別だ。本人たちの意思というのがあるんだ」
じゃあな、と言って踵を返し、ディアスは宿屋に向かい先に歩き出す。我に返ったレナは慌ててセシルに一言告げてから手を振って、その背中を追いかけた。背後から声をかける。
「ねぇ、ディアス……。あの時、起きてた?」
「……どの時だ」
「え、えっと……その……。ううん、わからないならいいの」
「弟と言われたのは初めてだな」
「もう……! やっぱり起きてたのね」
レナが小走りして、先を歩くディアスの前を塞いだ。
初めてマーズで再会して、二人で紋章の森に向かったあの時の朝のように。美しく成長した彼女の笑顔が眩しかった朝。
見違えたのだ、確かに。
「私だって、いつまでも子供じゃないんだから……」
夕日に照らされ、呟くレナの唇が艶めく。
「わかっている」
ディアスは左手でレナの白い頬を撫でる。それから、
「俺も、母親役は他に考えていないからな」
え、と疑問を言いかけたレナに軽く口づけた。
「………うん」
顔を赤らめて頷く。
「じゃあ、無事に一緒にアーリアに帰らないとね」
言いながら、ディアスの腕に自分の腕を絡めた。
「未来、か」
「楽しみ?」
横からひょこ、と顔を覗き込んでくるレナに、ディアスは返事の代わりに唇の端を一瞬上げてみせる。
彼女が隣にいるならば、とはあえて伝えまい。
先のことを想像する日が自分に訪れるとは思わなかった。未来に希望がある。それを教えてくれたレナに感謝を込め、ディアスは絡められた腕の上に空いている片手を重ねた。