人間とは欲深いものだ、とプリシスは思う。最初は、これだけでいいと思っていたものが、いざ叶ってしまうと、次はあれ、その次はそれ……と際限なく望みが溢れ出てくる。それは決して物欲だけではなくて、今自分の心の中に占めている恋愛感情も同じだった。
「プリシス……好きだよ」
「アシュトン……」
プリシスが先日のことを一人噛みしめていると、手元を滑らせて持っていたスパナを落としてしまった。無人くんにぶつかる寸前でキャッチする。
あたし、なんでこんなにヨッキューフマンなんだろ。
プリシスはスパナを床に置いてしゃがみ、無人くんを撫でた。
十賢者との最終決戦の前日。ラクアの海岸でプリシスはアシュトンと待ち合わせて、アシュトンからの告白を受けた。
嬉しかった。本当に嬉しかった。自分も同じ気持ちでいたし、誠実な告白には胸を打たれた。返事代わりにプリシスから抱きつくと、はじめは遠慮しながらもちゃんと抱き返してくれた。無事にエクスペルに帰ったら、グラフトに事情を説明して、一緒に暮らしたいと思った。想いが通じ合った、それだけで充分だった。
なのに、戦いを重ね、仮想空間のエクスペルに転送され、試練の洞窟に挑戦している現在。アシュトンと二人きりになるタイミングもなければ、アシュトンから何かしら恋人同士としてのアクションが何もないことが、プリシスの今一番のストレスだった。
「ほら、よく恋愛小説であるじゃん。レナも書いてたじゃん! 休憩時間に、ちょいちょいって町中の隅っこに呼ばれて、みんなに見えないようにぎゅってされるとか、チュー……するとか〜」
以前に愚痴をこぼした時、話相手になってくれた苦笑いのレナの顔を思い出しながら、プリシスが自分の唇に手で触れる。それから無人くんに向かい話しかけた。
「あたし、ミリョクがないのかな……」
下を向いて胸元を両手で揺さぶる。セリーヌの豊満な身体と脳内で見比べる。アシュトンは胸のサイズで相手を選んだわけじゃない、頭ではわかっているけれど。
「プリシス〜、そろそろ終わりそう? もうすぐごはんできるけど」
レナの声がテント越しに聞こえる。今は野営中で、限られたテントスペースを順番に使う時間だった。プリシスは慌ててスパナを拾った。
「もうちょっとだから、終わったら行くね〜。先に食べてて」
休んでいる暇はない。喉が少し渇いていたけれど、プリシスは後回しにして作業を再開した。
「終わった〜! あー暑かった、テントの中って蒸すよね〜」
テントを出て食事スペースを見ると、もうほとんどの仲間たちは食べ終わっていて、プリシスの席の周辺におかずが残されていた。今日もレナの料理はどれもおいしそうだ。残してくれただけでもありがたい。
「すぐ食べたいけど、先に何か飲まないと詰まらせちゃうなぁ……」
水を探して周囲を見回すが見つからない。コップはあるが水差しの中は空だ。
と、水差しの近くにあるコップに、オレンジエードがあった。もうこの際水分だったら何でもいい。プリシスは腰に手を当てて一気に飲み干した。
「はぁ〜! 生き返るぅ〜。でもこれちょっと変な味したなぁ……」
空のコップを間近でじっと見ていると、チサトが突然「あぁーーーーっ!」と大声を出してこちらに飛んできた。
「プリシス、飲んじゃった? これお酒入ってるのよ!」
「へ?」
「気晴らしにカクテル作ってみようと思って、オレンジエードの中に純米酒入れたの! それも結構な量!」
チサトがあちゃーと言いながら頭を抱えた。
「どーりで、いつもと違う味するな〜と思ったんだぁ。でもそんな大して…………ふぇ?」
頭にどっと血が上る感覚の後、身体中の火照りを感じる。急に視界が定まらなくなる。
「プリシス!」
よろけて転びそうになったプリシスの身体を、アシュトンが咄嗟に支えた。
「抜けるまで水分を取らせて、横になっていた方がいいわ。アシュトン、クロスの宿屋まで連れて行ってくれる? サイナードが帰ってくるまで私たちは待ってるから」
レナがプリシスの汗を拭きながら言った。
「わかった……ごめんね皆、待ってて」
アシュトンがプリシスを横抱きにして歩き出すと、レナが耳元で、
「……急がなくていいから、二人でしっかり話し合うのよ」
と囁いた。アシュトンは返事の代わりに深く頷いた。
人の体温が心地よかったのだろう、運んでいる間は眠っていたプリシスだったが、宿屋のベッドに下ろした途端、半分目覚めてしまった。目はまだ虚ろだ。
「アシュトン……ここ…?」
「大丈夫かい? 慣れないもの飲んじゃって、身体がびっくりしたんだよ。まだ休んでいた方がいい。水は?」
プリシスはこくんと頷き、少し上半身を起こした。アシュトンがコップに水を注いで手渡す。
「……………ねぇアシュトン」
受け取る時に手が重なる。
「あたしのことキライになっちゃったぁ……?」
涙が一滴、コップの中に沈んだのを見て、アシュトンは顔を上げた。
「どうして…」
「だって、あたし、セリーヌみたいにスタイルも良くないし、レナみたいにおいしいごはん作れないし、今日だって間違ってみんなにメーワクかけちゃうし。アシュトンだってぇ」
一瞬しゃくり上げてから、プリシスはボロボロ泣き出していく。拭っても拭っても両目から流れてくる。自分で制御が効かない機械のように。
「アシュトンも、あれからぜんぜんあたしと目、合わそうとしないし、あたしはっ」
アシュトンがだいすきなのに。
一番言いたいことなのに大きな声が出なかった。
「…………」
アシュトンはしばしプリシスの顔を見つめてから、眉を寄せて歯を食いしばり、息を長く、ふーっと吐いて、指でプリシスの目元を拭うと、
「…………不安にさせてごめんね」
壊れ物を扱うように優しく抱いた。
「嫌いになんて、ありえないよ、絶対にない」
今度はプリシスの頭を手で包み込むように撫でる。
「プリシスが本当に好きで、大事にしたくて。ラクアの夜が幸せすぎて、夢じゃないのかなって思ってしまうくらいでさ。気が抜けると、思い出しちゃって、戦いに身が入らなくなっちゃうから……プリシスが絡むと、ダメなんだ、僕は」
好きな子ひとり安心させてあげられない自分が情けない。自分自身にため息をつく。
「そっかぁ……。あたし達、お互いおんなじように悩んでいたんだね」
涙声の中でも、さっきより声色は明るかった。プリシスがぎこちなく背中に腕を回す。フギャ、とギョロが鳴いた。触れた時についでに撫でたのかもしれない。
今だけは、背中のふたりに目を瞑っていてほしい。そう願いつつアシュトンは少しプリシスから身体を離す。
「えへへ……。アシュトン、だーいすき」
プリシスがにこりと笑い、両目を閉じた。意を決したアシュトンが、プリシスの両肩を掴んで口元に近づいていく。
「プリ……」
キスまでの距離があとわずかというところで、プリシスの体幹が崩れて重みがすべてアシュトンの方にのしかかってきた。顔がポスっとアシュトンの肩に乗る。それから、肩の方から聞こえる、寝息。
「…………………」
「フギャ〜」
「ギャフフ」
「わかってる、言うなよ」
アシュトンは自分の中の悶々とした気持ちを必死で宥め、プリシスを寝かせて布団をかけた。
「これは宇宙一の拷問かもしれない……」
一人呟いた声は、プリシスの幸せそうな寝顔とともに溶けて消えていった。