ただそばにいるだけで街道に沿って歩けば、甘い香りが漂ってくる。先程降った雨のせいで水溜りが所々にあるけれど、参加者を阻むほどでもない。それよりも空に掛かる虹と、ひっきりなしに打ち上がる花火も相まって、誰しもが笑みを浮かべている。
オーエンの方をちらりと見ると、つまらなさそうな表情をこちらに向ける。しかし晶が視線を外すと、瞳の奥から僅かな興奮が見え隠れしているような気がした。指摘すると、否定するだろうが。
人混みが増してきた。その奥向こうには初老の男性がステージに立ち、観衆に向かって語りかけている。あわよくばレノックス達と合流できないかと期待していたが、この人数では難しいかもしれない。大人しく、中央のオブジェで合流するのが無難だ。
幸いにも、ステージ上での開会式はもう間も無く終わる。あとはテープカットをした後に、ファンファーレに合わせて開催となるらしい。いくつかの露店は既にプレオープンをして客を呼び込んでいたが、その開会宣言を以て本格的にスィーツフェスティバルは始まるのだ。
会場となっている広場の熱気にあてられて、晶もまた高揚してくる。
「オーエン、まずはどこから行きますか?」
「あそこのクレープ。時間かかるから、先に並ばないと。賢者様、走って。」
「はい、分かりま…えっ、オーエンも走らないと。」
「嫌。賢者様、先に走って並んできてよ。」
「理不尽…。」
上記のやりとりを経て、晶がなけなしの体力で駆けていく。しかしいざ列に並ぶと『割り込み厳禁・一人ひとつまで』が厳命されているらしく、結局はオーエンに急いで来るよう呼ぶ羽目になった。
晶はネロに聞いた範囲でしかフェスティバルを知り得ないが、大抵の露店販売はこのような規約が定められているらしい。お陰で開催直後も各店舗で行列は出来るものの、さしてトラブルは発生していないようだった。
無事にクレープを受け取った二人は、店舗脇の飲食スペースで見せ合う。
「んー、ベリーの酸味と生クリームの甘さが最高ですね。オーエンはどうですか?」
「普通。もっとクリームは甘い方がいい。」
超がつくほどの甘党の彼はそう返答するが、その表情は不機嫌ではなかった。
ぱくりと食べ始めたかと思えば、瞬く間にクレープが消えていく。口周りについたクリームの残りをぺろりと舐めとると、晶の視線に気づいたオーエンは「何?」と問う。
「あ、いえ、美味しかったんだなぁと思いまして。」
「普通って言ってるでしょ。賢者様、耳遠いの?」
「至って正常ですよ。俺も、これ食べちゃいますね。」
重なったクレープ生地の隙間から覗く瑞々しい果実が、宝飾品のように煌めいている。オーエンは甘さが足りないと評していたが、晶の場合は、ベリーの味を邪魔しない控えめな味付けが程よく合っていた。
さぁもう一口と意気込んだ晶だったが、それを遮るかのように別の手が割り込む。
「それ、僕にもちょうだい。」
「え。」
拒否も同意もする暇なく、目の前にオーエンの顔が近づく。晶がそう認識した時には既に、手元のクレープの大部分は齧られていた。
「…あ!オーエン!俺、まだ一口しか食べていないのに!」
「こっちの方が、クリームの甘さ足りないんだけど。」
勝手に奪っていったにも関わらず、酷評される始末だ。やるせ無さに、晶はがっくりと肩を下げる。
(まぁ…オーエンが楽しんでるならいいか。)
気を取り直して、残りを放り込む。
「じゃあ、次は…って。」
オーエンの方へと向き直る晶が見たのは、ドン、と大きな音を立てて通行人にぶつかり地面に倒れる彼の姿だった。
「オーエン!?大丈夫ですか!?」
ぶつかってきた通行人はオーエンよりも大柄で、すまなそうに短く謝るも、すぐに立ち去ってしまう。慌てて彼の近くに駆け寄ると、左右の色の異なる瞳がゆっくりと瞬く。
それが、晶の視線と重なると。
「けんじゃ、さま…いたい、いたいよ…!」
「オーエン、まさか…!」
厄災による奇妙な傷の方のオーエンだった。ぶつかった衝撃で、いや通常のオーエンならば避けるか、あるいは相手の方から退かせるだろう。きっかけは不明だが、運悪く傷オーエンになった瞬間にぶつかり、今はその痛みで涙をこぼしていた。
道端でなかったのが幸いだ。飲食スペースの端の方へと導くと、その目元にハンカチをあてがう。
「痛かったですね。俺が近くにいたのにごめんなさい、オーエン。」
「…ううん、けんじゃさま、わるくない。ねぇ、僕のそばにいて、てをつないでくれる?」
「もちろんですよ、俺でよければ。」
ぎゅっと絡められたそれは、もう離さないとでも言うような強い力を感じた。まだ数えるほどしか傷の方のオーエンには会っていないが、その数回の逢瀬でも、彼は晶に心を許してくれていると思う。希望的観測かもしれないが、晶はその信頼を裏切りたくない。
(元に戻ったら、この状況、絶対舌打ちするだろうなぁ。)
そう心の声で思うも、その時はその時だと開き直ることにした。舌打ちくらいなんだ、嫌味ならとうに慣れている。
「えへへ…けんじゃさまとてをつなげて、僕、うれしい。」
こんなあどけない表情と声で笑いかける彼を無視出来るほど、晶は強くなかった。
ご機嫌で笑みを浮かべる彼は、周囲を見てさらに歓声を上げる。
「うわぁ、おかしがいっぱいある!なんで?これ、たべていいの?」
「…もちろんです!好きなものをたくさん食べましょう!」
正直に言うと賢者の収入は、決して多いとは言えないが、今ここでそんなことを議論するのは無粋だ。頭の片隅で『副業』の二文字をちらつかせながら、早くはやくと晶を引っ張るオーエンについていった。
♢
露店を片っ端から巡り、ほぼ全てを網羅したと言っても過言ではないほど、晶と傷のオーエンはフェスティバルを満喫していた。
もちろん、オーエンは食べる時以外ずっと晶の手を握っている。この人混みで逸れたら絶望的なので、それはありがたかった。
「あまくておいしいものがいっぱい。けんじゃさまもいっしょだから、もっとうれしい。」
「俺もオーエンと一緒だから、嬉しいですよ。」
そう返すと、オーエンは不思議そうにきょとんとしていた。てっきり喜ぶかと思ったが、どうやら違うらしい。
「オーエン?」
「……けんじゃさまは、僕といっしょだと、うれしいの?」
小さな声で、彼は問いかける。舌足らずで、幼子のように、それでいて何かを懇願するかのようなそれは、街頭の騒めきに消されてしまいそうだった。
不安で震える瞳から、何故か目を逸らしてはいけない気がした。きっとここで答えを間違えたら、彼は二度と晶に会ってくれないような、そんな予感がする。
だから晶はそっと、握られた手に力を込める。
「はい、オーエンが俺のそばにいてくれると、嬉しいです。」
誠意を込めて、誠実さを精一杯。
嘘偽りない、晶の本音を伝えていく。
それを聞いたオーエンは、顔を伏せたが。
「…えへへ、そんなことをいわれたの、はじめて。」
次の瞬間には、とても嬉しそうに破顔していた。そして晶に飛び込んでくるかのようにして、ぎゅうっと抱き締める。白いコートがふわりと舞い、お菓子の甘い匂いが鼻をくすぐった。
「みんな、ぼくからはなれていっちゃうの。だからぼく、ずっと、騎士様をまってたんだ。」
「俺は騎士ではないけれど、オーエンからは逃げませんよ。」
「ほんと?じゃあ、またぼくとあそんでくれる?」
「えぇ、もちろん。オーエンが、望むなら喜んで。」
寂しげに揺れていた瞳は、これからの楽しみを想像して、すぐにきらきらと輝く。晶を逃すまいと回された腕に重ねるようにして、その細い体を抱き締めた。
一人じゃないと、伝えるために。
寂しさを感じさせないように。
晶の抱擁に、オーエンも安心したのか、その身を軽く預ける。
そうして数秒とも、数分とも言えるような時間が過ぎた後。
「…………何してるのさ、賢者様。」
「あっ、オーエン、戻ったんですね!」
チッと盛大な舌打ちが、これ見よがしにされる。半ば予想していたとは言え、晶はあははと力なく笑った。
「で、何で賢者様は僕に抱きついているわけ?」
「いや、どちらかと言うと、オーエンの方から抱きついているんですがいたたたたつねらない、つねらない!」
道ゆく人は露店に夢中だったため、道端で抱き合う青年二人はさして注目されなかったのが幸いだ。慌てて抱擁を解こうとして、「ん?」と晶は首を傾げる。
腕を外しても、オーエンはその場を動かない。絡められた手も解かれず、距離を取ることもできない。
「……オーエン?」
「………うるさい。」
帽子の影が、その目元を隠す。表情を窺い知る事はできないが、機嫌が悪いわけでもなさそうで。
ただそばにいる事を許された晶は、そっとその背に手を回す。母が幼子にするように、トン、トン、と優しく叩く。
『みんな、僕からはなれていっちゃうの。』
傷のオーエンの言葉が、何故か今にして頭に引っ掛かっていた。彼のこれまでを、晶は知らない。だからこそ、歯痒く思う。
彼の孤独を、彼の心を、ほんの少しだけでも触れたいと思うのは、悪い事だろうか。
周囲の喧騒から切り取られた空間で、二人はしばらく互いの温度を感じていた。