その身と心を満たすのはその身と心を満たすのは
「お、賢者さん。今日はパーティーだっけ?」
「ネロ、こんにちは。はい、これから西の国に向かう予定です。」
キッチンに顔を覗かせた晶は、少し畏まったような衣装を身に纏っていた。けれども堅苦しいと言うわけでもなく、清潔感と上品さが程よく合わさったスーツスタイル。センスの良いクロエのお陰だろう。
「じゃあ今日は、豪華な食事が期待できるわけだな。感想、聞かせてくれ。」
「もちろんです。ちなみに今日は、夜ご飯はなんの予定なんですか?」
「んー、北の魔法使い達が帰って来るからなぁ。肉料理を中心に、まぁたくさん作れるやつにしないと。」
「ふふ、やっぱりフライドチキンですかね。」
「…だよなぁ。今から仕込むかね。」
そろそろ夕刻に差し迫ろうとしている時間だ。量が必要なら、下準備に取り掛からなければならない。
「…いいなぁ。」
ぽつりと、晶が呟いた。それはあまりにも小さくて、思わず溢れてしまったかのように。晶自身も驚いたのか、慌てて口を手で覆うも後の祭り。
「いや、あの、えっと、ネロのフライドチキンは本当に美味しいので…。」
弁明するかのような晶の様子に、ネロも苦笑を漏らす。
「ありがとさん、一応夜食程度に残しておくからさ。ほら、パーティーで食べるにしても、帰ってきた時に腹が減るかもしれないし。」
「嬉しいです!ありがとうございます。」
ネロの言葉に、晶は嬉しそうに笑みを浮かべる。
もっとも、北の魔法使い達に見つからないようにするには、かなりの努力を要するだろうが。
魔法使いのことを考え、寄り添い、橋渡しになってくれている晶が、少しでも喜んでくれればいいとネロは思う。
晶にはやっぱり、笑顔が似合うから。
「賢者様ー!最後にやっぱり、調整したい事があって!わわ、お話中だった?」
「あ、クロエ。大丈夫ですよ、今行きます。何か変更ありました?」
「あのね、やっぱり賢者様にはこっちのハンカチーフが似合うと思うんだ!こっちを当ててみて!」
夜空色を思わせるような、深い青が印象的だった。それを晶の胸ポケットにそっと添えると、クロエは一歩下がってコーディネートを確認する。
「うん、こういう落ち着いた色がとってもよく似合う!ネロはどうかな?俺、変な事言ってない?」
「へ?」
全く予想だにしていなかったクロエからの質問に、ネロは思わず動きを止めた。料理人である自分が、そういったセンスに口出しできる程の自信はない。むしろ皆無だ。
不安そうなクロエ、そして何より晶もおずおずとこちらを見遣る視線に、冷や汗が止まらない。
だが意を決して、ネロはゆっくりと慎重に言葉を選びながら答えた。
「…良いんじゃないか。賢者さんの瞳に、合っていて。」
「そう!!そう!!良かったー!俺もそう思って、これにしたんだ!」
どうやら正解だったらしい。人知れずほっと息を吐いた。晶も照れたように、笑みを浮かべる。
遠くから、晶とクロエを呼ぶラスティカの声が聞こえる。そろそろ出発の時間なのだろう。
「ほら、急がないとまずいんじゃないか?r
「あ、ほんとだ!ありがとう、ネロ!」
「お邪魔してすみません。」
「良いって良いって。行ってらっしゃい。」
見送るネロに向けて、晶も返す。
「行ってきます!」
それが、ネロが最後に見た、晶の元気な姿だった。
♢
バタバタと騒がしい音が、魔法舎に響いた。時刻はもう真夜中に差し迫る頃だ。日付の変わる瀬戸際に、非常識な事極まりない。
文句を言ってやろうか、だが北の魔法使い達だったらどうしようと寝惚けた頭で、ネロはぼんやり考えた。
「……賢者が………」
「フィガロを……」
「………治癒が得意な………」
何やら不穏な会話が、廊下から溢れてくる。昔の名残で、意識しなくても耳は自然と正確な単語を拾っていく。
妙な、胸騒ぎがした。
陽だまりにいたのに、突然闇夜がやってきたような、焦りと不安。
素早く身を起こすと、適当に身なりを整え、廊下へ出る。忙しない足音は、階下から聞こえてきた。
「…何?なんかあったの?」
声を掛けられたクロエは、大きく飛び上がった。どうやら昔の癖が抜けなかったのか、ネロは足音と気配を消して近づいてしまったらしい。驚かせてしまった事に謝ろうとして、だができなかった。
クロエは、泣いていた。
普段ならば好奇心にときめかせ、きらきらと輝く瞳が、今は涙を浮かべている。次から次へと溢れるそれは、仕立てたばかりの衣装を濡らしていた。
「…うっ、ネロ…!」
「うぉ!?一体どうしたんだ…?」
「私から話しましょう。こちらへいらっしゃい、クロエ。」
ふわりとパイプの香を纏わせ、シャイロックが手招きする。魔法は使っていないのに、ほんの束の間だけでも、皆の動揺は薄れた。
だがネロは、見えてしまった。
皆の囲いの中で、眠っている晶の姿を。
血反吐を吐き、青白い顔で浅く呼吸する彼の胸元には、晶の血で染まってしまった、ハンカチーフがぐしゃりと置かれていた。
「毒を、盛られました。この私の、目の前で。」
シャイロックにしては珍しく、低い声だった。防げたはずなのに、防げなかった。その後悔が、言葉の端々から滲み出ていた。
「は…?毒……?」
殺意や憎悪とは無関係で、誰よりも相手を思い、寄り添う晶が、なんで。
呆然とするネロの後ろから、ドン、と誰かがぶつかった。
「どいて、治癒が得意な魔法使いは全員起こして。時間との戦いだ。シャイロック、初期症状教えて。」
フィガロが、焦りを隠さずに指示を出す。治癒が得意な、とは言っていたが、誰もが急いで皆を起こしに行く。
それをどこか遠くの景色のように、ネロはただ見ていた。
「…食道と胃がやられているか。まずいな、血圧低下とチアノーゼも引き起こしてる。賢者様、ちょっと痛くするよ。」
「ネロ、長丁場になりそうです。歯がゆいでしょうが、今は治癒に専念させてくださいな。」
「……ああ。」
存外に戦力外通告をされ、ネロはようやく足を動かした。まるで鉛のようにそれは重く、この場を去ることに抵抗しているかのようだった。だが自分は、お世辞にも治癒は得意とは言えない。いや、出来るとしても、あの晶を前にして、冷静に魔法を使えるかと問われれば、否と答えるしかなかった。治癒の手伝いに来た魔法使いと入れ替わり、晶の部屋をあとにする。
「…どうすっかなぁ…。」
自室に戻る気にもなれず、ふらりとキッチンへ立ち寄った。その表情は、暗闇で窺い知る事ができない。
黄金色の瞳が、煌々と瞬いた。
何かを思案するかのように。
何かを狙うかのように。
何かを決意するかのように。
♢
「やはり新型の毒薬を使って正解だったな。」
「魔法使いが常に張り付いているのが厄介だったが、所詮奴等も科学技術には及ばん。」
「はは、そうは言っても、今回ばかりは流石に同情を禁じ得ない。あの子供の顔も、傑作だったな!」
薄暗いどこかの酒場で、下卑た嘲笑が響き渡る。仲間内で貸し切っているのか、あるいは此処が彼らの隠れ家か。酒を飲み交わす彼らの傍らには、煌びやかな装飾品や財宝が無造作に積まれている。
「それもこれも、ボスのおかげさ!」
「ふん、お前たちのやり方は古過ぎんだよ。狙うんだったら、どんな手段を使ってでも、成し遂げねぇとな。」
男達は、盗賊団だった。それほど大きな組織ではないものの、着実に成果を上げ続け、勢いを増している。わざわざ募集などしなくとも、志願者は後を立たない。
組織を牛耳る男は、強欲だった。そして、なんと言っても、世渡りが上手かった。いち早く西の国の科学技術に目を付けると、裏市場の需要と供給バランスを見極め、ある時は商人に、ある時は仲介人に、犯罪組織とのパイプ役を担った。
今回彼らが使った新型の毒薬は、とある製薬会社の実験データをくすねて、非合法組織に作らせたサンプルだ。
「賢者に何かがあれば、途端に警備は薄くなる。お陰で屋敷の財宝は取り放題、今頃ポックリ逝っちまってるかもしれねぇが、死ぬまでの経過をサンプルデータとして売ればこっちも儲かるって話よ。」
「えげつないっすねぇ。賢者様に飲み物を渡した子供も、可哀想だ。俺だったら、一生忘れられないだろうさ!」
「魔法使いは賢者に近づく者を警戒するが、まさかこんなちっこいガキが毒を盛るなんて、考えもしないさ。ガキを拷問した所で、なんの情報も出てこない。」
酒で気を良くしたのだろう、男達は語りたくて堪らないとでも言うように、べらべらと武勇伝を話し出す。彼らにとって、賢者とは異界からきた、ただの人間だ。それでいて、替えがきく存在。賢者の死が、命の危険が、世界の危機に直結するなんて、考えてもいない。
そんな浅はかな考えの連中は、気付かない。
自身に向けられた、明確な殺意に、気付けない。
「はは、………ッ!ガハッ!!」
「…!?おい、どうした!?」
「何だ!?」
大きく咳き込む男の首から、鮮やかな血飛沫が噴き出る。騒然とする男達が見えたのは、それだけだった。次の瞬間には、薄暗く照らされていた灯りが全て消されたからだ。
何の構えもなく突如暗闇に身を投げ出され、動揺の声が、否、叫び声が響き渡った。
「ギャアァアアア!!!」
「何だ!?何がいる!?誰だ!?!」
「明かりをつけろ!何でも良い!!」
誰かの足に蹴躓き、ボスの男は無様に倒れた。起きあがろうにも、別の誰かの下敷きになり、身動きが取れない。唯一動く頭を懸命に動かして、男は宙を見上げた。
固く閉ざされたはずのカーテンの隙間から、大いなる厄災が覗いていた。
僅かな月光が漏れ出て、そこでようやく視界が暗闇に慣れる。
部屋の中央に、誰かが立っていた。
まるで手足のように操る何かからは、ぽたりと雫が滴っている。
(なんだ…!?一体、何が….!?)
男の動揺する息遣いに、その誰かはくるりと振り向いて。
男が最期に見たのは、夜に輝く黄金の瞳だった。
♢
「…ったく、派手にやったなぁ、ネロ。」
「……うるせぇ。ついて来んなよ。」
「ここまでお膳立てしてやったんだ。なら、結末を見届けるのが筋ってもんだろうがよ。」
窓枠に腰掛け、ブラッドリーが不敵に笑う。彼自身は一切、血に汚れていない。
周囲を油断なく見遣りながら、尚もネロに話し掛ける。
「あいつが望むと思うか?」
その問いかけに返ってきたのは、ただの沈黙だった。
あいつとは、誰か。言わなくとも分かってしまうのは、ネロも、ブラッドリーも、彼に絆されてしまったからか。
だから改めて、思った。
彼には、陽だまりが似合う。
いつまでも、笑っていて欲しい。
こんな汚れ仕事は、知らなくて良い。
「………帰るぞ。」
「あーあ、宝にも血がたっぷり付いてやがる。財宝を目の前にしてトンズラするのは性に合わねぇが…。ま、今回は俺の獲物じゃねぇから勘弁してやるよ。」
もう間も無く、事前に呼んでおいた西と中央の合同警備隊が駆け付けるだろう。一つくらいくすねたい所だが、西の国の屋敷から目録ごとごっそり強奪してきた今回の財宝は足が付きやすい。売り捌くとしても、リスクが大きいのだ。ざっと見た限りでも特に魔力がこもっているものや魔道具は紛れていなさそうなため、やや後ろ髪は引かれるものの、大人しく立ち去るのが吉だろう。
窓枠からふわりと軽やかに、身を躍り出す。その身には最早血は付いていない。
闇の中煌々とこちらを照らす月を、眩しく思う。
晶を苦しめた人はもういないのに、晶に会うのが、苦しい。
ネロの様子を見て、何を思ったか。
ブラッドリーは、小声で呟く。
「…今日は、賢者に会うんじゃねぇぞ。」
「分かってるさ。」
穏やかな心を取り戻すのには時間がかかるから。
♢
「皆さん、ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございます。」
「いえ、賢者様。私達の不甲斐なさに怒りこそすれ、謝罪等は求めておりません。どうか顔をお上げになって。」
「そんな、シャイロック達は悪くありませんよ。クロエも、衣装を汚してしまってごめんなさい。」
「い、衣装なんて何度でも作るし、何度でも汚して良いから、ひっく、賢者様…!」
「賢者様が無事で良かった。目覚めの一曲は如何でしょうか?」
晶が目を覚ましたのは、3日後だった。眠っていたというより気絶していた方が正しく、身体の怠さは未だに続いている。毒を飲まされていたと聞いたが、そう言えば血を吐いたなくらいとしか記憶にない。それもこれも、フィガロを始めとして、治療にあたってくれた皆のお陰だ。
「口を見せて、賢者様。うん、良くなってる。来た時は爛れてたけど、もう痛くないでしょ?」
「そんな酷いことになってたんですね…。俺ずっと寝てて、なんか申し訳ないです…。」
「何言ってるのさ、寝るのが仕事だよ。当分は療養に励むこと。ところで賢者様、フィガロ先生、とっても頑張ったから、褒めて欲しいなぁ。」
「もう!フィガロ先生!賢者様を困らせないでください!」
「ごめんごめん、冗談だよ。冗談だから、賢者様、安心してね。ほら、お詫びのシュガー。」
腕に刺してある点滴からは、ぽたりと滴が規則正しく落ちていく。あくまで脱水予防と電解質補正目的のものであり、食事が取れれば外れるそうだ。毒を盛られたとは言え、身体は正直に空腹を訴え始める。
「さて、ミチル、ネロに声を掛けてくれるかな。おじやがいいだろう。」
「わかりました!賢者様、待っててくださいね!」
「ありがとうございます、ミチル。」
それからも入れ替わり立ち替わり魔法使いの皆が見舞いに来てくれて、休む暇のなかった晶が、最終的にスノウとホワイトから面会謝絶を厳命されてしまうのは、ほんの少し先の話。
♢
「ネロ、毎日食事をありがとうございます。」
「…おー、どうした?改まって。」
晶が毒に倒れてから、1週間が経った。今ではすっかり、元の生活に戻っている。
キッチンに現れた晶は、夕食の下拵えをしていたネロに会うや否や、感謝の意を告げた。
「俺、3日間、ネロの食事食べられなかったんだなぁって気付いたら、なんだか勿体無いなって感じてしまって。目覚めてから初めて食べたおじやが、すごく美味しかったんです。」
まるで極上の晩餐を口にしたかのような物言いに、その賛辞に、手が止まる。
穏やかな昼下がりに、小鳥の囀る声。
中庭から聞こえる優雅なチェンバロに、談話室から溢れる談笑。
魔法舎にはたくさんの魔法使いがいるはずなのに、世界から切り取られてしまったかのようだ。
ひっそりと向けられた好意は、意外にも、心地悪いものではなかった。こちらを気遣うように、寄り添うように、境界線の間際に佇んでいる。
「大袈裟だよ、いつでも作るから遠慮すんな。」
「ふふ、ありがとうございます。」
静かに微笑む晶に、知らず肩の力が抜けていく。
「あ、賢者様!無事に回復されたんですね!」
明るい声と共に、カナリアがキッチンに顔を出した。その手には、大きな籠がぶら下がっている。
「回復祝いという事で、私の近所の人達がたくさん作ってくれたんですよ!賢者様、味見は如何でしょうか?」
籠の中からは、美味しそうな匂いが漂っていた。柔らかく焼き上げられた温かいパン、彩り豊かなサラダ、香ばしい肉料理と見ただけでも美味しさが伝わってくる。
もうすぐ夕食だが、味見程度ならば問題ないか。ネロの方をちらりと見遣ると、やれやれと苦笑しつつも食器類の準備をしていた。
「ぜひ頂きますね。嬉しいです。」
「はい、どうぞ!」
小さな皿に、ほんの一欠片の料理を盛って。
晶はいつもと同じように、口に運ぶ。
だが、次の瞬間。
「……ッ!!」
げほっ、と大きく咳き込んだ。持ち手を失ったカトラリーが、カチャンと床に落ちる。
「賢者様!?」
「どうした!?何か入っていたか!?」
「……いえ、多分、何も入ってないと、思います…。」
苦しそうに、弱々しくそう告げる晶の顔色は青白い。幸いにもすぐに口から出したが、念の為にフィガロの元へ連れて行った方がいいだろう。そう考え、ネロはすぐさま晶を抱えて行こうとするが、それに待ったをかけたのは当の晶本人だった。
「違うんです、ネロ。それが、悪いんじゃなくて、俺が悪いんです…。」
「あんたが悪いことなんてない、すぐにフィガロへ…。」
「…違うんです。」
緩くかぶりを振った晶は、泣きそうな顔をしていた。
「知らない人が作ったものを、食べるのが………怖い…。」
小さく呟いたそれに、ネロは動きを止めた。
迂闊だった。
晶は見知らぬ誰かに、どうしようもない悪意に無遠慮に晒されて、傷ついた。
表面上は変わりないように見えて、その心は、今もまだ。
「…安心しな、俺が作ってやるから。」
毒を盛られたのならば、見知らぬ誰かのものを口にするのに身体が拒否して当然だ。
魔法舎に居る間は気付かなかった。
ネロの作ったものだけしか、晶は食べていなかったから。
そして同時に、気付いてしまった。
晶の体は、もう他者を受け付けない。
その身と心を満たすのは、もう、自分だけだということに。