二十四節季「立春」自然に目が覚めることの幸福感は何物にも代えがたく、休日の幕開けに一等相応しい充実した気持ちにさせられた。朝九時を指す時計を寝ぼけ眼で確認した七海は、今日が休日で、それも確実に緊急連絡の来ない日であることを思い出し、ゆったり気分で頭を枕へと預け直した。
それから約二十分後に目を覚ますあたり、職場は違えど会社員としての生態が身体の芯まで染みついていると言えよう。休日くらいなにも気にせず、昼までだらだら寝ていればいいのに、どうしても眼が冴えてしまう自分に苦い笑いを浮かべつつ。七海は大きく伸びをしながら上半身をたてた。
寝室のカーテンはあえて薄いもの、陽の光を通しやすい素材を選んである。休日に陽の光を感じて起きる、今日のような朝をまさしくの健康と捉えているからだ。
「連絡は……五条さんからだけ、と」
ベッドサイドに置いていた、プライベート携帯と社用携帯のそれぞれを確認してみて、プライベートのほうにいくつかの連絡が。それはいつも隣で、枕か七海を、またはその両方を長く太い腕で抱き締め寝入っているはずの男、五条からのものだ。
『せっかくの休みなのに、七海と離ればなれなの寂しい』
おはよう、という挨拶のあとに早速と続くメッセージには、ついつい頬が緩んだ。最強である人間が、自分のような男一人へ必死に愛を語り、弱い部分を言葉にしてくれることを七海は光栄に思う。
「私も寂しいものですが、アナタのおかげもあって得られた休みですからね。私が我儘を言うべきではないのでしょう」
返信は後で、落ち着いてからにしようと考え、七海はまずベッドを抜け出してキッチンに向かう。ケトルに水を入れて火にかけ、湯が沸くのを待つ間に顔を洗い、休みとあって一瞬だけ迷うも髭を剃る。パジャマを脱いで着替えるのはラフな部屋着へ、そこまでしてキッチンに戻ると、ケトルはシュンシュンと湯気を吐き出していた。
五条がいるとミルクを用意するコーヒーも、今日はブラックを一杯だけ。
そこに寂しさがあれば、少しの解放感もある。一人きりの休日も、たまにはいいもので。
さて、ようやく、一日とおして留守にする五条へと、コーヒーをひと口飲んでから返事の言葉を考えた。
あまり自分の感情へ素直になって『私も寂しい』などと彼に送ってしまったが最後、七海には甘えん坊を公言する五条のことだ。どんな手を使ってでも帰ってくるだろう。もしくは七海を五条の元へ呼びつけようとする。
それはダメだ。
であるから、ここは冷静に。
まるでコーヒーのようにほろ苦い、大人の返信を心がける方がいい。
――お疲れ様です。そちらの様子はどうですか。アナタが帰ってきたら美味しいものが食べられるよう準備しておきますから、しっかり仕事を終えてきてくださいね。
と、ここまでを長々考え、実際に送ってみて。
しゅぽん。
「えっ」
すぐにも返事が届き、口に含みかけたコーヒーが唇から僅かに逃げてしまった。
「さては私が起きるのを待っていた、とか?」
彼ならばあり得ることだから恐ろしい。この家で共に暮らして半年が経った頃には、七海の日々のルーティン、時間割りを、ほぼ完璧に理解した男が五条だ。休日の起床時間なんて簡単に予想がついたことだろう。
そんな彼からの返信はというと。
『会いたい。京都まで来て』
などと予想どおりのメッセージ。
――無理なのはわかっているでしょう。きちんと仕事をしてください。
いまは大変便利な世の中である。五条がメッセージを目にしたマークが、七海の送ったメッセージの上に現れ、またすぐ返信が届く。
『わかってるけど、会いたい、顔が見たい』
ダメとわかっていても言いたくなる気持ちはよくわかる。
しかし、今日に限っては無理な話。
と、ここで、手の中にあった携帯が小刻みに震え出した。着信だ。
「もしもし」
『おはよう七海。さて……迎えを行かせるか、新幹線のチケットを送るか、七海はどっちがいいかな?』
「ダメですってば。アナタはいいでしょうけれど、五条家に迷惑をかけた七海という男の噂が呪術界で流れるに決まっています」
『えぇ~? 五条の坊ちゃんは、恋人の応援もあって重要な仕事を難なくこなしてくれて助かりました、ってならわかるけど。変な噂なんて流れないよ、こと丁寧な仕事が常のオマエに限ってはね』
「ご当主様が全責任を取ってくださる約束があれば……来年また考えます」
『おっ! 七海は僕をその気にさせるのが得意だねえ』
彼が元気そうで気が緩み、うっかり変な提案をしてしまう。とはいえ彼も大人だ。そのあたりは冗談と捉えてくれている……と思いたい。
「それより、今年の豆撒きの調子はどうでしたか」
『それは君たち呪術師が一番わかってるんじゃない? きっと、昨日と今日とは街が綺麗に見えたはずだよ』
「たしかに歩きやすくて助かりました」
そもそもの話。
七海ほどの呪術師に緊急の呼び出しが『絶対にない』と言い切れることと、五条がここに居ない理由は同じである。
昨日、節分に併せて五条の本家では、当主を主役として儀式が執り行われたためだ。儀式と言っても堅苦しいそれでなく、全国どの家庭でも行われただろう節分に関する一大イベント、豆撒き、である。とはいえ執り行うのが五条家、呪術界最強の男を主役に立ててのことになると、その規模や神格化は避けられず、五条家総出で執り行われた豆撒きのおかげで、七海を含めた呪術師たちは休日と相成った。
なにせこの豆撒きという行為が、そのもの魔を祓うための儀式。それを五条家が、加えて各家庭で多くの人間がこぞって行ったとなると、呪霊たちは黙るほかないわけで。
「アナタのおかげで日々、この日本は守られています。昨日はとくにそうでしたね。今日も、まさしく立春大吉の言葉がふさわしい晴れ模様です」
『でしょ? ほんと、崇め奉ってほしいくらいだね』
わははと快活に笑う五条のおかげで冗談めかされたが本当のことだ。七海が心から礼を告げると、うん、とちいさく照れた返事が聞けた。
『もうすこしこっちで仕事したら急いで帰るからさ、夜からは二人っきりで過ごしたいな』
「いちにち遅れですが恵方巻を用意しますから、二人で食べましょう」
『いいね、いいね。最近は恵方ロールとか言って、恵方巻代わりにロールケーキを売ってるところもあるっていうから……今からでも探しちゃおっかな』
「それならわざわざ探さずとも、もう冷蔵庫にありますよ」
『うっそ! マジ? やった! え~……十七時の新幹線では帰りたいな、いや、帰る!』
きゃあと子供のような歓喜の悲鳴が電話越しに聞けたとなると、ひと月前にはケーキ屋に電話予約を入れ、仕事帰りには家族連れに混ざってケーキ屋へ赴いた甲斐があったというもの。こういった際に図らずも大きくなる期待を、軽々超えた大喜びを披露してくれる五条が愛おしい。
「アナタの帰りをみんな待っていますよ」
『みんなって、七海以外に誰がいんの?』
「それは、恵方巻と恵方ロールのふたりですね」
『七海と恵方巻と恵方ロールの三人か。最高だね、オッケー! じゃ、このあとのお習字も頑張ってくるわ』
お習字とは、などと言い出したら話が終わらなさそうで。彼の帰りを早くしたいのであればそろそろ本家の儀式に戻ってもらわねば。そうして通話を切り上げようとする七海だが、はたと、寝る前に頭に浮かんでいた考えが蘇る。
『それじゃあまたあとで、
「五条さん、ひとつお願いが!」
息せききった勢いに、五条がぐっと詰まる気配がした。少し恥ずかしくなったが、ええいままよと七海は言葉を続ける。
「アナタのいまの服装を教えてもらえませんか」
『え? 服装? あ~……ええっと……和服っていうか、まあ、正装って感じ、だね? それがどしたの?』
「そうですか、では、その姿のアナタの写真を、何枚か送っていただいてもいいでしょうか」
電話の向こうから困惑が伝わってくる。
釣られて困惑と羞恥がこちらにもやってきたが、黙って返事を待った。
『まぁ、いいけどぉ……そんなに格好良くないから、期待はしないでね? それと、いまの七海の写真も送ってくれること!』
吐き捨てるように五条が言って直後、ぷつんと通話が切れてしまった。どうやら、こちらの写真を送るのはちょっと、なんて七海に渋られるのを恐れてのことらしい。
しかして自ら提案したことだ。
七海はきちんと、五条の要望通りにするため早速と洗面所へ向かう。自分のうつる鏡を撮る七海の元へは、思った通り、豪奢な和装に身を包んだ五条の写真が送られてきた。
「ほんとうに綺麗な人だな」
思わず漏れた言葉は本音で間違いない。これは数日、いや数週間、よもやの来年の節分までの期間、プライベートのスマホの壁紙になる可能性を重々に秘めていた。
「本当に許されるのなら、来年は直接見に行くのも悪くはありませんね」
まるでレートの不釣り合いな、ふつ、ふつ、と毛玉のついたニット姿の写真だが、七海の写真ではあると切り捨て、事務作業然と送り返し、すぐさまもう一度五条の姿を眺めると。またとない完全なる休日、二度寝、春に近づく陽気、あたたかなコーヒーらすべてを掛け合わせて出来上がった以上の満足感が胸の内を満たしていく。
「本人が隣にいなくてもこんなに充実させられるだなんて、アナタという人は、どこまで私をおかしくさせるんでしょうか」
七海の元へはこんど、今日もかわいいね、などと男としては些かムッとさせられるメッセージが届くも、写真に写る五条を見れば笑いがこぼれていく。
まさしく春の訪れと呼ぶべき暖かさが胸の内を満たして。五条が帰ってきたらそっと抱きしめ、この春の暖かさを分かち合おうと決めるのだった。