その刀は、村雲江の知らない姿で、よく知る場所の名を出した。
「『六義園に行きたいな』って言ってたの、キミ? ああごめん、庭掃除してたら聞こえちゃってさ」
そう言って、彼は箒を手にこちらを見つめた。なんだか居た堪れない。村雲は暫し口を閉じていたが、耐えきれず相手に声を掛ける。
「君は……」
「ボクは後家兼光! 直江兼続の刀で……いや、キミにとっては岩崎家の方が馴染み深いのかな」
全く知らないわけではないが、ほとんど知らないと言っていい名を出されて、首を傾げる。この本丸でもゆかりあるものの多い徳川家や豊臣家ならまだしも、岩崎家。かの三菱財閥の名家。目の前の男とは上手く結びつかないような気がして、村雲は戸惑いつつ言葉を選ぶ。
「……後家くん? が想像してるのとは、多分違うよ。俺は岩崎家とは関係ない」
「おや。知っている気配によく似ていると思ったけど? キミはあの庭にそっくりだ。春真っ盛りの、六義園に」
その言葉を聞いて微かに動揺してしまったのを、彼は気がついただろうか。六義園。六義園か。そういえば彼はこちらがその名を出したから、話しかけてきたのだった。徳川綱吉や柳沢家に愛され、美しく輝いていたあの庭。凋落し荒れ放題になっていたあの庭。岩崎家の尽力により、再び人々に愛されるようになったあの庭。栄枯盛衰、諸行無常。あの広大な庭園も、村雲と似て些か波乱な来歴を持っている。
縁側に腰を下ろしていた村雲は、ため息を吐きつつ空を見上げた。桜始開——まさにその通りと言うべきか、大広間の正面に植えられた枝垂桜はほのかに咲き始めていた。人ひとり分を空けて、初対面の彼は隣に座る。「キミの名前は?」と思い出したように聞いてきたから、「村雲江だよ」と勿体ぶらずに返事をした。
「村雲江……そうか、江のものか。上杉では見なくてね、顔見知りが少ないんだ」
匂い立つ叢雲が如し、いい号だ、と何やら勝手に納得してみせて、後家はにこりと笑った。黙って聞いていた村雲は、ようやく口を開く。やたら饒舌なこの刀に中てられたのか、どうも言わなくていいことまで言ってしまいそうだ。
「君は俺があの庭に似ているって言ったけど、そんなはずないと思う」
「どうして? キミの色は春の色だ。あの場所そっくりだと思うのは当然だよ」
「それは……いや。俺は、あんな綺麗な庭とは違う。二束三文で売り飛ばされた刀だ。俺がいたから、吉保公も——」
その言葉を遮るようにして、彼は言葉を発した。
「人がつけた値で、物の本来の価値が変質してしまうってことは、ないんじゃないかな。キミは……まあ無銘みたいだけど、郷義弘が作刀と極められた名物なんだろう? その価値は変わらない」
同じように、後から生まれた物語によって、キミの愛した人の善悪も為人も、何一つ変わらない。そうじゃない? そう問われて、咄嗟に二の句が継げなかった。知っていて、わかっていたから、まだ向き合いたくなかった。向き合えなかった。
村雲江は確かに、かつての主たちを愛していたから。いつの間にか悪人と呼ばれるようになり、歴史改変などするまでもなく解釈は歪められていった。あの庭園を見て、優しく笑っていた彼らも、その温もりも、村雲は覚えている。覚えていたから、彼らを悪人と呼ばせた何かを、自分の価値に求めるしかなかった。
「……少なくとも、今の俺には理由が必要なんだよ。あの人たちが悪く言われるときに、人間を恨まなくていい、理由が」
絞り出すように、どこか言い訳じみた言葉を吐く。後家はそれを聞いて、何故だか満足そうに頷いていた。
「そう。村雲江は、人間を愛してるんだね」
「何をどう聞いてたらそうなるの……ただ、勝手に善し悪しの線引きをしたくないだけ」
「それが愛だよ! キミやボクが、華やかだろうと荒廃していようと六義園を愛しているのと同じ。愛に、他人の尺度や線引きが介在する余地はないってこと」
「そういう話だっけ?」
呆れたように返せば、明朗なその刀はからりと笑って「そういう話だよ」と言って寄越した。おかしな刀だ、刀剣男士は人間の形をしているだけで、決して人ではない。それなのに、彼は高らかに愛を謳う。眩しいひとだ、と村雲は目を細めた。
桜色の風が優しく縁側に吹く。いつか自身の物語と向き合える日が来たら、季語を愛するあのひとに六義園を見せたいと思った。村雲が愛したあの、美しい和歌の庭園を。それもきっと別の愛の形なのだと、彼——後家兼光は言うのだろう。そう思いついて、村雲江は大きな欠伸をした。