同棲あの子はマスターの大事な大事な宝物だそうです。
ぐったりしているあの子を此処へ連れてきたマスターがあまりにも幸せそうな顔をしていたから、このピエロの子を此処へ置いているだけです。
目を覚ましたピエロは遠目からでもわかるくらい怯えて顔を青ざめさせました。
「グリルッグリルッ」とワタシの存じない名前を呼び出入り口へと走っていきました。
指先まで震えさせてガタガタと扉を開けようと必死なピエロを、マスターは背後から嬉しそうに腕の中に閉じ込めました。
ピエロは「ぎゃ」と蛙が潰れたような悲鳴をあげました。
ピエロはそれでもまだ必死でした。
逃げられるとでも思ったのでしょう、マスターに比べて貧弱な体を捩りバタバタと四肢を動かしていました。
ピエロの振り上げた手がマスターの頬を叩きました。
暫く好きにさせていたマスターですが、我慢の限界が来たのでしょうか、ピエロの頬をぐいっと抓って「何するの、痛いよ」と怒声を上げました。
ピエロは怯えてアメジストのような瞳に涙を溜めながら濁らせました。
そしてそのままマスターの寝室へ引き摺られて行きました。
ワタシは出入りを禁止されたので中で何をしていたのか分かりませんが、「助けて、グリル」とピエロの悲鳴だけが耳に入りました。
それ以降は何も聴こえませんでした。
あの日を境にピエロは人が変わったかのように大人しくなりました。
マスターはボクの想いが通じたんだ、と喜んでいましたが、ワタシにはそうは思えません。
全身疵だらけのピエロ、腕の縫い目があったところから下は取り外されて、ソファに座らされてまるで人形のようですね、とても滑稽です。
大人しく、ただ従順にマスターの怒りを買わないように息を潜めて…そして機会があれは逃げ出そうとする小動物のような魂胆はワタシには御見通しです。
しかし、マスターが幸せそうなので無意味な報告はしません、ワタシは有能ですからね。
マスターがドリフレで呼び出されて留守になったら、ほら、ピエロは立ち上がり歩き出しました、そのまま出口に行くのかと思いきや、あら?ワタシのところにきましたね、なんでしょう?
「此処から出してちょーよ…」とやや身長の高いワタシに上目遣いでおねだりしてきました。
…何言ってるんですか?そんなことしたらマスターが怒ってしまうに決まってます。
ピエロも一時の開放感も束の間、すぐ連れ戻されてこの前よりももっと酷い折檻を受けるに決まっていますよ。
そんなことも分からないのですか?やはり愚かですね。
ワタシが首を振って丁重にお断りするとピエロの表情は曇りました、そして。
「何してるの?マルク」
貼り付けたような笑顔を整った顔に浮かべたマスターがピエロの背後に立っていました。
次の日ピエロは夕方まで眠っていました。
そのピエロの頭を撫でながらマスターはとても幸せそうな笑みを浮かべていました。
物覚えが悪いのか、頭が弱いのか分かりかねますが、あれから何度かピエロは脱走を図りました。その度にマスターに阻まれ酷い折檻を受けていました。心をすり減らし体を傷つけられても尚ピエロは此処から出たいのか諦めませんでした。しつこいと嫌われますよ、嗚呼貴方は愚かだからそんなこと考えられないだろうけど。マスターの留守中はワタシにも何度も「此処から出たい」「グリルに会いたい」とおねだりをしてきました。あまりにもしつこくて同じ結末を見るのに飽きてこっそり舌打ちをしたことさえあります。
ところがある日を境にピエロは動けなくなりました。マスターがお仕置きと称してピエロの体を開いてる最中にグリルという者に連絡を取ったのです。言わずもがなピエロはマスターに命令された言葉を言わされました。「マホロアが好き」「グリルよりもマホロアを愛しているからもう会えない」「馴れ馴れしくしてきて迷惑だ」ピエロは与えられる恐怖と快楽に勝てませんでした。震える声で泣きながらピエロが言葉を紡ぐと、マスターは携帯を奪いとり乱暴に床に投げ捨てました。携帯の画面が床に強く当たり割れて砕け落ちた瞬間にピエロの心も砕け散ったのでしょう。
可哀想に、ピエロは木偶になってしまいました。食事もろくに喉を通らず、虚空を眺めてブツブツ独り言を言っています。ピエロがまともに反応するのはマスターが関わる時だけ。マスターの機嫌を損ねないように必死になって媚を売ります。もはや生きる目的を失ったピエロはマスターの機嫌を取ることを新たな目的に据えたのでしょう。そんなピエロを気にいるどころかマスターは何故か怒りました。ついに思い通りになったのに、マスターは悲しみ怒り狂いました。マスターはおかしくなってしまった。これも全て、全部全部全部貴方が悪いんですよ、ピエロ。
その日マスターは留守にしていました。ピエロはぐったりとソファに倒れ込みながらブツブツ何かを呟いています。そして何がおかしいのかケラケラとたまに笑います。気味が悪い…やつれてしまって細く棒のような体、亡者のように瞳には光を宿していない。こんなのの何処が可愛いのですかマスター。
「…そんなに面白いですか?」しまった、あまりにも不快だったから声をかけてしまいました。ピエロはビクッと体を震わせワタシを見つめます。
「…にたい。で、も…こうでもしてないと、アイツに痛いこと酷いこと沢山されるから…此処から出た…い。グリルに会いたい」ピエロの瞳にはまだ微かに光がありました。狂ったフリをしてマスターを騙そうとしていたのです。なんて愚かな、マスターにあんなに一身に愛されているのにそれを拒絶する。与えて貰ったものに満足せずそれ以上のものを求めるから酷い目に合うのです。貴方のせいでマスターは狂ってしまった。以前のマスターはとても快活で、優しくて…貴方さえいなければ。
「では、その願いを叶えてやりましょう。ほら、道具をあげましょうね。さぁ、今すぐ此処で死になさい」「え」「死にたいとほざいたじゃないですか、ほら、ナイフも縄も水もありますよ。お好きな死に方を選びなさい。それとも、自分ではできないのですか?情けないですね。では、お手伝いをしてあげましょう」貴方さえ、貴方さえいなければ…。
力の尽きたピエロを捕まえるのは簡単でした。ピエロは鳥のように甲高い悲鳴を上げました。できるならマスターが一目でわかるようにしたいですね…そう思ってナイフで押さえつけたピエロの胸を何度も何度も切りつけました。切りつけた箇所からピエロの濃い魔力が溢れ出す。ピエロはワタシを押しのけようとしました。しかしあまりにも無力でした。暫く悶えた後、ピエロは大人しくなりました。マスターが帰ってくる前に着替えてしまいましょう。
マスターが帰ってきました。部屋の奥を一眼見るなり絶叫しました。迎えたワタシの横を通り過ぎ、倒れているピエロを抱き起こします。
「…う、嘘だ…ボクのマルクがッ…マルク目を覚ましてヨ!あ、嗚呼痛いんだヨネ?!すぐ治してあげるからネッ」マスターが青ざめながらピエロを抱き上げます。だらり。力なく垂れる足を見やりマスターの瞳から涙が溢れます。マスターはなけなしの魔力を冷たいピエロの体に注ぎます。しかし勿論足りません。あんなに凶悪な膨大なピエロの魔力は尽きてしまいました。マスターでは到底それを補うことはできません。
「嫌だ…ッ嫌だマルク…ッ眼を開けてヨ!ボクを置いていかないでッやっとボクのモノになってくれたのに…!こんなの、こんなの嫌だヨ…!!」マスターの美しいトパーズの瞳から滝のように涙が流れます。マスターを伝ってピエロの頬に跳ねますが、ピエロは微動だにしません。ワタシは優秀ですから、ヘマなんて犯しません。マスターを狂わせたピエロは死んだ。良かった、これで以前のマスターに戻ってくれますね?
「…ローアがやったの?」「はい。この子はマスターにとって害悪ですから」両頬を涙で濡らしたマスターがワタシに問いました。やっと見てくれた…マスターと目が合うのはいつぶりでしょう。
「…データのリセットが必要ダネ」「…はい?」
「ボクにはキミなんか要らない。キミのコトを絶対に許さない」「…マス」
ワタシの意識はそこで途切れました。そして二度と目覚めることはありませんでした。