44 アル空ある日の休日。二人で暮らすマンションのリビングでソファに並んで腰掛けて、ボクたちは一本の映画を鑑賞していた。
ガラステーブルの上にはからっぽになったティーカップとケーキ用の皿が二人分。途中席を離れてお茶を足そうかと思ったけれど、空が真剣に観ているものだから気を散らせたくなくてやめておいた。
映画のタイトルを見た時から、内容はすでにわかっていた。それは初めて観るものではなかったから。過去に一度、映画館で、ボクはこの作品をすでに鑑賞している。
まだ付き合う前の空と一緒に。
学生だったボクと空は、学校は同じでもクラスが違っていた。彼の存在を知ったのは合同授業の実験中で、同じグループの中で会話をしたことが始まりだった。
人当たりのいいからりとした性格と、中身とのギャップが少ない見目。初対面の人間にはある程度丁寧に、ところどころ砕けた口調で話す。そして柔和に微笑む彼に、心臓が緩やかに走り出したことを、今も鮮明に覚えている。
もっと彼を知りたい。もっと彼に近づきたい。もっと親密な関係になりたいと思うようになった。彼に「一目惚れ」したのだと、きっかけの名前を知ったのはしばらく後になってからだった。
これまでも他人にある一定の好意を寄せたことはある。けれどそれは、家族や友人の枠からは出ない範囲でのことだった。時折、その範囲を超えて恋をしているのだと好意を寄せられたこともあるにはあったけれど、その想いと同じものを持つことはできなくて、空に会うまではその感情の色も形もぬくもりも、まぼろしのようだと思っていた。
淡い恋心を抱いてから三度目の合同授業で、ボクは空と連絡先を交換した。実験の最中で映画の話になり、互いに気になっている作品を話していたらちょうどタイトルが被ったのだ。それなら公開日に一緒に行こうと誘ってくれたのは彼の方で、ボクは内心、ひとりこっそりと舞い上がっていた。
映画館という暗い箱の中で、隣にいる彼を意識してしまっては作品に集中できないのではないかと危惧したが、そんなことはなかった。魅力的な主人公や仲間が様々な問題にぶつかっては成長していく様子に引き込まれていって、気づけばエンディングを迎えていた。
エンドロールが流れる頃。ぱらぱらと席を立つ人たちを見て、そういえば、と隣の空の存在をまた強く感じ始める。ちらと横を見遣ると、スクリーンから目を逸らさない彼の真剣な顔がそこにはあった。それに倣って、ボクも最後までロールを追いかける。
劇場を出てからお腹を満たそうと、近くのレストランに入った。会話の中心は映画の内容になるだろうと先に切り出すも、空は簡単な感想を述べるだけで終わって、話を切り替え学校でのことや家族のことを語ってくれた。
ボクとしては彼を知るのにちょうどいいタイミングではあった。知りたい欲求を埋めるのにも役立った。しかし違和感を拭えなかったのも確かだ。もしかしたら、それなりの期待値を抱いていた映画が、そこまで彼に刺さらなかったのかもしれないと薄く察して、ボクは特に話題を戻すこともなく、彼の声に耳を傾けていた。
「ねえアルベド。俺と最初に観た映画、覚えてる?」
エンドロールが流れるテレビ画面。まだ視線をそちらに向けたままで、空が問いかける。トレーの上に空いた皿を乗せながら、もちろん覚えているよと肯首した。
「今観ている作品だよね。学生の頃、合同授業で約束をして観に行ったものだ。席の番号も、劇場を出てレストランで食べたメニューも、ちゃんと記憶しているよ」
重ねた皿がちゃりと音を立てる。フォークも二本並べて一度キッチンに向かおうと立ち上がると、弾かれたように空も腰を上げた。
そしてそのまま、背中からぎゅっと抱きつかれてしまう。
「……空?」
どうしたの、とトレーを持ったまま肩口で振り返る。ボクと空の身長に大きな差はない。そのため空の顔はちょうどよく視界に収まる。本音を言えばもう少し自分の背丈が伸びればと思っていたが、成長期は過ぎているし、あまり期待はしていない。
やや俯きがちな空の瞳はまつげで隠れてしまっている。ひとまずトレーをダイニングテーブルに置いてから、もう一度彼の名前を呼んだ。
「空。どうしたの。……黙っていては、どうしていいかわからない」
ゆっくり振り返る。抱擁を解くのはもったいなく感じたけれど、今度はこちらから抱き締めればいい。
とん、とん。空の背中をあやすようにたたくと、ボクの背中に空の腕がまわる。彼の手指が、衣服をきゅっと掴むのがわかる。
「……俺は、アルベドと逆だった。映画の内容も、レストランで食べたご飯の味も、ほとんど覚えてない。……というより、あの時はわからなかった、って言い方の方が正しい」
「……? どうして?」
「…………ずっと緊張してた。隣にアルベドがいるって意識したら、あんなに楽しみだった映画がぜんぜん頭に入ってこなくて。途中、何度も君を盗み見たんだ。でも一回も視線は合わなくて、勝手に落ち込んでた。ほんと、こどもで、ばかみたいだよね? ……そのあとレストランに入って、アルベドはすぐに作品のことを話してきたけど。俺はそんな状況だったからさ、事前に仕入れた情報からそれっぽい感想を言うので精一杯だった」
先細る声を震わせる空の、ふたつの瞳を覗き込む。
ハニーイエローの前髪が隠すふたつのまあるい大きな瞳。普段よりも潤って揺れる双眸がボクを映すと、彼の頬の高い位置に、紅色が集まっていく様が見えた。
みないで、と逸されて、それはできない、と顎を持ち上げ上向かせる。
「やだ、ほんと、今ものすごく恥ずかしいんだって」
「それならどうしてボクに抱きついたりしたの? それがなければこんなことにはならなかったのに?」
「だってそれは、アルベドが離れちゃうから!」
「離れるといっても、ただキッチンに行こうとしただけだよ」
「そ、うだけど。わかってたけど、なんか、……心細く、なって」
「……心細い?」
空の輪郭を撫でる。「ん、ぁ」と小さな唇から吐息が漏れて、可愛らしくて口付けてしまう。
軽く重ねただけの唇はしっとりと柔らかい。ケーキと紅茶の味もする。ボクが感じるなら空も似たような甘さを食んだかもしれない。
もう一度だけ唇を舐めてから、言葉の続きを待った。心細くなる要素なんてどこにあったの、と視線で促す。
「今がまだあの頃のままだったらどうしようって、思っちゃったんだ。俺ばっかりアルベドが好きで、俺ばっかり緊張して、意識しすぎて、……君のことぜんぶ知りたいと思っても、結局うまくいかないことばっかりで。……あの映画観てたら、なんか、その時の気持ちごと思い出しちゃって」
また逸されてしまいそうになる瞳。それを縁取る端にちいさく光る涙を見つけて、ちゅ、と音を立てて口付ける。吸った雫はケーキの甘さとは異なるしょっぱさを持つのに、どうしても美味しく感じてしまう。
もう片方の目の方からも、涙を吸い上げた。口先が触れると肩を微かに跳ねさせる空が可愛い。アルベド、と名前を呼ぶ声音が切なさを帯びていて、ボクは慰めるように微笑んだ。
「キミばかりなんて、そんなことないよ」
「……アルベドも、緊張してたの?」
「そうだね。劇場に入って、並んで座って、スクリーンが賑やかになる前と後はそれなりに」
「そ、それなりって! それに前後って……観てるあいだはなにも思ってないってことじゃん!」
やっぱり俺ばっかりだったと胸に額を撫で付ける空の後頭部に手を回す。
休日は結われない長い髪。繊細な毛先に触れて、指でとかした。
「確かにそうかも。でも、その数時間しかまともでいられなかったよ。少なくともボクはそうだった」
「……そんなふうに見えなかった。しかも、ちゃんと色々覚えてるんでしょ? てことは余裕があったって意味で……」
「余裕なんてないよ。キミに関することで余裕が生まれるなんてこと、たぶんこの先もないと思う」
そろり、空が額を離してこちらを見上げる。
至近距離。ボクから鼻先を擦り合わせてみれば、空も同じように応えてくれた。
「今もそう。どうやったらキミの心が離れていかないか、どうやったらキミが笑ってくれるか、そんなことばかり考えてる。ボクはもうずっと、キミにとらわれ続けてる」
映画を観ている間くらいしか冷静さを装えないのかもしれない。なるべく彼を導いていける存在でありたいと思っても、スクリーンに目を向けている時にしかその気概を保てないのなら、もはやそんな存在になることは出来ないと言われているようなものだ。
初めて出会った日からこの瞬間まで続くのは、偏りすぎた空への愛情だ。見方を変えると病的に映りそうなそれを空は受け止めてくれるけれど、それがいつ失くなってしまうかは未知数で、そんな未来がこないことをただ祈るしかできない。
一本一本の糸を切らさず、絡ませず。紡いでは編んでいくしかない。
「――……アルベド、……ぅ、ん」
口付けると胸の内側で、灯が浮かぶ。あの頃から空がどんな想いをボクに向けてくれていたのか知れて、浮き足立っている。
緊張していた。意識していた。食事のことすらわからなくなるほど、ボクのことをずっと。
「空。……そら、」
喜ばずにはいられない。愛おしさを感じずにはいられない。こんなにもボクのことで頭をいっぱいにする彼を、もっとボクのことで支配したくなってしまう。
独占欲というものに、もうすっかり両脚は掴まれている。逃げる事は一生できない。この腕の中にいるはちみつ色の愛を、抱えたまま生きていくことしか考えられない。
エンドロールが途切れて、画面は作品選択へと遷移する。黙り込んだ機械のおかげで静寂が生まれたけれど、代わりにボクと空のキスが奏でる水音が室内に響きはじめる。
やがて深くなっていく口付けの合間、ボクを呼ぶ彼の声ごとソファに押し倒すまで、大した時間は掛からなかった。