抱擁 凡人というのは意外と忙しいものだ。
岩王帝君として君臨していた時もゆっくりする時間などあまりなかったように思うが、問題が起きても采配を下し自ら動くことは少なくなっていったように思う。
往生堂の頼まれごとは自ら解決に当たらなければならない。凡人以上の力を発揮してもいけない。中々制約の多い中でその日に出来ることをこなし、眠りにつき、翌日を迎え、また仕事をする。
凡人の職業の中には休みがあるものもいるが、俺の場合は休みなどあってないようなものだ。堂主に頼まれれば、夜だろうと職務にあたる。
これはこれで楽しく、凡人目線で色々なことがわかって面白い。特に噂なんてものはひとづてに話が途中で変わっていき、一週間もすれば別の話になっている。
今日聞いた噂はこうだ。人は抱擁を交わすとストレスが軽減され、幸福度があがるというものだ。そのような簡単なことでストレスが軽減されるのなら、そんなに上手い話はない。
現在抱擁をする相手もいなければ、他人と抱擁を交わしたこともこの数千年の中ではない。俺が摩耗していくことも、誰かと抱擁することで軽減出来るのではないか。と、試してみたくなるのにそう時間はかからなかった。
「魈」
意味を持って名前を呼べば、彼は一陣の風と共に颯爽と現れる。最近は凡人らしく俺が望舒旅館まで会いに行っていたが、その時間すら今日は惜しかった。
「はい、鍾離様。いかがされましたか?」
まだ璃月の人々が目覚める前、輝かしい太陽がこの地を照らす少し前。魈がそろそろ降魔を終えたであろう時間に、家の中へと呼びつけてしまった。
「魈、こちらへ」
「……? はい……」
ちょいちょい、と手招きすれば、魈は疑問に思いながらも俺の眼前までやってくる。手を伸ばせば届く距離だ。なんとも無防備で、可愛らしい俺の夜叉である。
ぎゅう。
「う、ぁ、し、鍾離様!?」
腕を回せば魈の身体はすっぽりと胸元に収まってしまった。華奢な身体はあたたかく、意外と抱き心地は悪くない。
魈が驚きに肩を震わせながら一歩後退しようとしたので、より強く腕の力を込めて抱き締めてやると、小さな戸惑いの声が漏れていたが敢えて聞こえなかったことにした。
魈の肩口に自分の顔を埋めると、魈自身の香りがした。爽やかな木々の匂いに混じってどことなく甘い香りがする。街中では感じることのない、自然な香り。
跳ねた深い新緑色の髪の毛が俺の頬をくすぐる。自分のものではない脈の音が聞こえる。ああ、確かにこれは気分が落ち着く。
「し、鍾離様、我には業障が」
「知っている。もう少しでわかる気がする」
「そ……うなのですか……」
「魈も俺の背中に手を回すといい」
「そんな、滅相もないです」
「業障が落ち着くかもしれんぞ」
「そのようなことは……」
「物は試しだ。凡人はこうしていると安らぎを得られるらしい」
「わ、我は凡人ではありませんが」
「そうだな、凡人である俺の抱擁ごときで仙人を癒すことなど到底出来ないことくらいわかっている」
「あ、いえ、その」
魈はしどろもどろになりながら低く呻いたと思えば、恐る恐るといった様子で俺の背中へ腕を回してきた。そうすることで、俺と魈の間には寸分の隙間もなくなってしまった。魈の指先が少し震えていることも、少しばかり熱を持った吐息を漏らしていることも、全てわかる。
「ほう……これは」
「な、にかわかりましたか……?」
「確かに摩耗することを抑えられるかもしれないな」
「そんな効果が!?」
「お前の業障はどうだ?」
「気は紛れる……かもしれません」
「ふむ。ならばあながち凡人の言ってることも間違いではないということか」
噛み締めるように魈を抱き締め、瞳を閉じる。ゆっくり息を吸って、吐く息と共に外へ悪しきモノも出ていく気がした。俺は一時の安らぎを得ていたが、対する魈は身体を震わせ、落ち着かない様子だった。
「鍾離様、我は、い、いつまでこのような体勢でいれば良いのでしょうか」
「もう少しだ。魈も深呼吸をして頭の中を空にしてみるといい」
俺といる時に、魈は余計なことを考えていることが多い。時に身を任せ、魈もこの状況に安堵感を覚えてくれればそれで良いと思った。
「っ、は、ぁ、」
突然ぐっと背中を掴まれたと思えば、魈の体重を腕にずっしりと感じた。俺が支えていなければ、その場にへたりこんでしまいそうな勢いだった。
「魈? 大丈夫か……?」
「て、くん……すみませ……」
突然の体調の変化に驚き、魈の身体を抱き留めた俺は、近くにあった椅子へ魈を抱えたまま座った。改めて魈の顔を覗き込むと、熱でもあるのかというくらいに頬は紅潮しており、呼吸も浅い。瞳はどことなく少し潤んでおり、俺と目を合わせない。この家に来た時にはこのような体調ではなかったはずだ。
「無理です……降ろしてください」
「? 何がだ?」
「息を吸うと、帝君の匂いが強すぎて……くらくらします……」
魔神の力に当てられたということか? と思ったが、どうやらそうではないらしい。このような距離で人と接することもなければ、誰かと抱擁を交わすこともなかった魈にとって、脳がこの状況を処理しきれなかったということらしかった。それならば話は簡単だ。慣らしていけば良い。
「この行為にはお互いにメリットがあることがわかった。これから定期的に行いたいと思うが、魈はどうだ?」
「もう、ご容赦ください……」
俺の膝から降りようとするので、ぎゅう。とより強く抱き締めてやると、ひぃ、と声をあげ身体を震わせている。
嗚呼、六千年以上の時を生きて、今更ながらに魈をこの腕の中へ閉じ込めておける口実ができるなんて、人生何が起きるかわからないものだ。