57 アル空喉の渇きで目が覚める。瞼を押し開くと、あまり見慣れない天井と照明器具が見えて、空はぼんやりと、眠る前の記憶を掘り返した。
容彩祭で絵師として招かれたアルベドと会えたことに浮かれていたのも束の間、彼はウェンティに酒を奢り、そのままずいぶんと長い間、吟遊詩人の話し相手をしていた。
久しぶりに会った恋人の空を蔑ろにしている訳ではない、と理性が呆れて訴えても、やきもきしていたのは事実だった。
いわゆる「やきもち」と呼ばれる感情に引っ張られていたのだが、どうやらアルベドも同じであったことが昨晩明らかになった。
行秋を始め、稲妻で出会った人々となんでもない世間話をしていただけと空は思っていたが、彼にとってはそう単純には映っていなかったらしい。
落ち着いていられなかった、とは彼の言葉で、まさか自分の行いがそんな気持ちにさせていたとはつゆも知らなかった。
それから肌を重ねることで、お互いがお互いに募らせていた嫉妬という情を、雪が溶けるような速度で溶かしていった。熱にあたって水となり、やがて空気の中に消えてくれるように。
胸中で徐々に薄まっていった情だったが、その外側、実際にアルベドに抱かれていた体は、かなり激しい愛撫に見舞われていた。全身くまなく探られて、もう隠せる場所などどこにもないと音を上げてしまいたくなるほどの交わりに、もっとほしいと腕を伸ばしたのは空の方だった。
後悔は微塵もない。できることならまだこのまま、隣で眠る彼のぬくもりで微睡んでいたい。
「……準備、するかな」
けれど案内人としてやることはやらなければと、腹部に力を入れて空は起き上がる。身支度を整えて、音を立てないように部屋を出た。
宿となっている万国商会の一階。従業員のみが使用できる簡易な食堂がある。カウンターとふたつのテーブル席を置いた部屋はこぢんまりしていて、六人入れば満席になるつくりだった。
すでに朝食の準備をしているらしく、中に入る前からふんわりとしたいい香りがしてくる。魚を焼いているのだろうか、想像しながらカウンターの中を見ると、そこにはトーマが立っていた。
「え、トーマ? どうしてここに……」
「おはよう旅人。俺はお手伝いだよ。君と同じように、若に頼まれてね」
「そうだったんだ。朝も早いのに大変だね」
「君こそ、ずいぶん早起きじゃないか」
もうお腹が空いたのかい? とトーマはにこりとして水の注がれたコップをテーブルに置いた。「寝起きに飲むと目が覚めるから」と言われ、渇きを潤すため、空は注がれたすべてを飲み込んだ。
「ははっ、いい飲みっぷりだ。もしかして、昨晩は酒でも飲んだのかな?」
「まさか! 俺は飲めないもの。……お酒飲むと、喉が渇くの?」
「まあそうかな。モノにもよるけど……なるべく水を飲んでおいた方が後々は響きにくいと思うよ」
「そうなんだ。ねえ、他には何かある? お酒を飲んだ人におすすめの料理、とか」
「そうだなあ……それなら、味噌汁なんかはどうだろう。ちょうど今朝の分は貝を使った味噌汁なんだ。簡単だし、よければ作ってみるかい?」
「いいの? というか、トーマが作った方がいいんじゃ……?」
「なーに、酒を飲んでない君が酒飲みにすすめたい料理を聞いたんだ。てことは、食べさせたい誰かがいるんだろ? それなら君が作った方が、その人も喜ぶだろうしね」
***
味噌汁を作るのは思っていたより簡単だった。指導したのがトーマということもあるだろうが、あまり工程のかからない料理だったことにほっとした。
出汁をとり、具材を入れて、沸騰させないように味噌をとく。火加減の調整はトーマがしたため、空は鍋を見張りレードルをくるくるまわしていただけだった。
「(それでも全力で褒めてくれるんだからすごいよなあ)」
階段を上りつつ、さわやかな青年の笑顔を浮かべて空は小さく吹き出していた。
持っているトレーには、水の入ったグラス、こぶりなおにぎりと味噌汁、卵焼きが二人分載っている。
食堂で食べても良かったけれど、せっかくならアルベドと一緒が良かったし、そのうち従業員が使うだろう場所をとってしまいそうだったため、部屋に運ぶことにしたのだ。
そろそろ起きた頃だろうかと、襖を開けて、ベッドへと近づく。そこにはまだ夢の中にいるアルベドが綺麗な顔で眠っていた。
ベッド横にある背の低いチェストにトレーを置いて、膝をつく。つん、と頬をつついてもぴくりとも動かない。よっぽど深いところまで意識が落ちているのだろう。
普段であれば彼の方が寝起きがいい。珍しい状況だよなあと空はくすりと笑った。
できるならもう少し休んでいてほしいが、アルベドもそろそろ起床したほうがいい時間になっている。それにできたての朝食もあるし……と、空は心を鬼にして、アルベドの肩を揺らした。
「アルベド、おきて、朝だよー」
「……、…………うん」
「うん、じゃなくて! ほら、ごはんもあるから一緒に食べよう?」
「………………うん」
「もう、寝ぼけてるなあ」
眉間に皺が寄っていて、むずむずとしている。なんだかこどもみたいだ。昨日の夜はあんなに〝男の人〟って顔をしてたのに。
まるで異なる雰囲気に、こんな表情もあったのかと、恋人の新たな一面を知った空の胸の内側は、じわじわ熱くなっていく。
――俺だけの特権と思っていいのかな。
そもそも昨日アルベドが結構な量の飲酒をしたのには、自分の立ち振る舞いにも原因があった。悪いことをしたという訳ではないが、少なくとも彼の気持ちを揺さぶってしまったことに変わりはない。
そんなふうに彼を振り回してしまえる程度には、自分の存在は彼にとってある程度の大きさであると、思い込んでしまいたくなる。この先もずっと、そんな存在であれたらいいと思ってしまう。
「……そら」
寝起きの掠れた声にはっとする。翡翠の瞳がぱちりぱちりと瞬きをしてこちらを見ていた。
考えていたことを追いやって、「おはよう」とにこやかに声をかける。
「やっと起きた。ごはん持ってきたから、一緒に食べよう?」
「……うん、ありがとう……」
目を擦って起き上がるアルベドの横にトレーを置く。それを挟むようにして空もベッドに腰掛けた。カトラリーには箸と、念のためスプーンとフォークも添えている。トーマが気づいてくれたものだ。細やかな心遣いはさすがと思えた。
アルベドは水を一口含んだあと、味噌汁の入った椀を手に取った。どきりとして彼の口元に腕が近づくのを見届けて、こくんと喉が動いてから「……美味しい?」と尋ねる。するとアルベドはふんわり笑って「とても美味しいよ」と言ってくれた。
「良かったあ。それ、俺が作ったやつなんだ」
「そうだったのかい? 依頼か何かで?」
「ううん。そういうのじゃないけど。なんか、なりゆき?」
「ふふ、そっか。……うん、美味しいね。キミが作ってくれたからかな。毎日でも飲みたいくらいだよ」
『なあ旅人。稲妻では〝きみのつくった味噌汁を毎日飲みたい〟って言葉は、〝きみとずっと一緒にいたい〟って意味にもなるんだ。昔はよくプロポーズの言葉で使われてたんだよ。君の作ったこの料理なら、その言葉も引き出せるんじゃないかな』
アルベドは何も知らないはずだし、トーマの言ったことだって軽く流していた。毎日でも飲みたいなんて大袈裟な。作ろうと思えば誰にでも作れる料理なのにと、笑って返していたのに。
「……――――」
「空? どうかしたの?」
「う、ううん。なんでもない。俺も食べようかな、いただきます!」
頬に熱が集中しているのがわかる。アルベドはまだ何か言いたそうにしていたけれど、食事に集中し始めた空を見て、問いを飲み込んでくれたようだった。
貝の入った味噌汁をくるりと混ぜて、一口啜る。嚥下してから内臓に流れていく温いスープはほっと力が抜ける味なのに、アルベドの感想ひとつで、空の心臓は勢いよく動き出してしまう。
やすまるどころか急いてしまう鼓動のせいでまったく落ち着けない中、空はアルベドの顔を直視できないまま、手製の味噌汁をごくごくと飲み干すのだった。