お月見 今日は、妖魔の動きが活発だった。
翳りもなく見える丸い月に照らされ、次々と魔を屠っていく。生のあるものに群がり、取り付き、害を成さんとするそれを片っ端から鎮めていく。
一通り見回ったところで、少しばかり休息を取ろうと望舒旅館の露台へ戻ると、そこにはよく見知った影があった。
「鍾離様……」
「ああ、邪魔している」
露台の縁に腰掛け、空を見ていた鍾離様がこちらへ振り返った。眩い月が鍾離様の表情に影を落としている。なんと絵になる方だろうか。思わず感嘆の吐息を漏らしてしまったが、鍾離様はいつものようにウキウキと俗世の話をする雰囲気ではなく、少しばかり憂いを帯びた寂そうな表情をしていた。
いかがされたのだろうか。
何も話さないまま、ちびり、と鍾離様が片手に持っていた盃を口に含んで、喉を鳴らす。僅かに漂う香りからは、酒の匂いがした。
珍しい。茶を飲むことはよくあれど、この場所で酒を飲むことはほとんどないと記憶している。
「今日は、月見をする日だったな」
「そういえば、そうでしたね」
今日見かけた凡人はこぞって月明かりを見上げ、安寧の表情をしていたような気がする。
「璃月で月を見るには、ここがうってつけだと思ったんだ」
「望舒旅館は、月見をする名所なのだと確かに聞いたことがあります」
「お前も少しだけ、たまにはどうだ?」
「……いただきます」
元からそのつもりだったのだろう。空の盃がもう一つ置いてあった。自分で入れようと思ったのだが、先に鍾離様に注がれてしまい、手渡される。
「まだ行くのか?」
「はい。しばらく休んだ後に、向かおうと思っています」
視線で酒を勧められたので、鍾離様へ会釈をしてから、一口いただいた。そこそこに度数のあったそれは、一瞬だけ喉を焼いて胃へと流れ込んでいく。しかし、味はそれほど苦いものではなく、一杯程度なら問題ないだろうと思った。
酒を飲んだのは久方ぶりだ。もう何年も飲んでいないだろう。下手をすると百年単位かもしれない。
酒を飲む相手もいなければ、飲む習慣もない。鍾離様はよく他の仙人と酒を酌み交わしていたように思う。ただ、そこに我が入っていかなかっただけだ。
今宵酒の相手に我を選んだのには、何か訳があるのだろうか。いつもなら削月を選ばれるだろうに。少しの疑問を浮かべながら一口、また一口とゆっくり口に酒を含んで飲み下していく。
「璃月では今日は休みの日だそうだ。遠くに出ていた者も皆帰って、家族で月を見ながら食事をすると聞いた」
「なるほど」
「俺もお前に会いたくなった」
「?」
突然優しく微笑まれて、胸がドキリとする。今の会話の流れから、どうすれば我に会いに来る理由に繋がったのか理解できなかった。
「ここから見る景色には、目を見張るものがある。夜の風も涼しく、イチョウの葉が舞い、僅かに香る霓裳花の匂いに風情を感じる。月を遮るものもない。お前はいつもこの景色を一人で見ているのかと思うと、俺もその風景の一つに混ざりたいと思った」
「? 作用でございますか」
正直、鍾離様の真意が全くわからなかった。確かにここから月を見ていることはある。良い景色だと鍾離様にお伝えしなかったことを叱責されているのか。一緒に見たいと誘って欲しかったということなのか。
「お前の目に、今俺は映っているか?」
「はい。見えております」
「月が綺麗だな。魈」
「……そうですね」
酔ってらっしゃるのか? 頬が少し朱に染まっているような気がする。会話に脈絡がなさすぎて、相槌を打つので精一杯だ。
「まるでお前の瞳のようだ。さらわれそうで、怖くなる」
「……我は、どこにも行きませんが……」
「おいで。魈」
腕を広げられては行かない訳にはいかない。盃を置いて鍾離様へ近づけば手を引かれ、ぎゅう。と抱き締められる。首にかかる吐息はほんのり熱く、しかし身体は少し冷えている。この場所で長い時間一人酒をされていたことが窺えた。
「今日の璃月では、皆家族との再会を喜び、笑顔が溢れていた」
「とても良い事だと思います」
「お前はどうだ?」
「……我?」
「今日、俺に会えてお前は嬉しく思うか?」
「は!?」
正直に言えば、今日でなくとも鍾離様に会えることはいつだって嬉しいのだが、それはどうして伝えれば良いだろうか。
「さっきから口説いているのに一つも伝わらない鈍感さは相変わらず愛らしいが、俺も寂しくなってきてしまった」
「は、え!?」
我はいつから口説かれていたのか。全く気付いていなかった。それと同時に、段々鍾離様が我に体重を掛けてくる。それを受け止めるのに仕方なく我も腕を回して支えた。
「鍾離様、些か飲み過ぎたのでは……」
「魈。今日は共に眠りたい」
「……!?」
耳元で吐息混じりに囁かれ、思わず脱力しそうになる。
「あ、の鍾離様……我にはまだ降魔が……」
「……」
「鍾離様……?」
「……」
「え……?」
鍾離様から返事はなく、代わりに深い吐息が返ってきた。
ね、眠ってしまわれたようだ……。
このように外で無防備に眠る鍾離様は未だ見たことはなく、一瞬狸寝入りなのかとも思ったが、どうやらそのようでもないようでぴくりとも動かなくなってしまった。
「夜風が冷たいです。このような場所で眠るのは……せめて我の部屋へ……」
岩王帝君は少し夜風に当たったくらいでは風邪など引かないだろうが、このまま誰に見られるともわからない場所で朝を迎えるのは避けたかった。
なんとか自分の部屋へ鍾離様を運び、寝台へと寝かせる。鍾離様は瞼すら微塵に動かすことはなかった。鍾離様なりに、今日は我に甘えたい気分だったのかもしれない。朝方、少しなら鍾離様の願いを叶えられるかもしれないと部屋を後にする。
露台へ立ち、月を見上げながら先程鍾離様へ注いでもらった酒をぐいっと喉へ押し込んだ。
「今宵の月は、あなたの瞳のように美しいですよ。鍾離様」
風に乗せてそう呟き、望舒旅館を背に飛び立った。