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    samidare_423

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    げんさぶ 時空歪みその1

    14×20

     もう一時間近く、この辺りを歩いている気がする。
     そろそろ、暑い。三郎は知らない公園の日陰で、知らないベンチに腰を下ろした。空までもが見慣れない光景な気がしてくる。焦燥はあるが、パニックになるほどではない。
     思い立って、近くの自動販売機に足を向けた。古い機体のようで、最近にしては珍しく電子マネーが利用できないらしいので、現金を持っていてよかった。──知っている大手飲料メーカーなのに、耳馴染みのない名前の飲み物ばかりだ。三郎はその中から、ミネラルウォーターを選んで購入した。
     「つめたい……」
     喉越しを噛み締める。こんなに喉が渇いていたのか、と納得して安堵する。
     妙に凪いだ心地がする。初めて読む本を開くときのようだ。その物語は知らなくとも、作者は知っているから、どこか懐かしく思える。この世界には、作り手の穏やかな息遣いが断片的に残されている。
     公園には、誰もいない。そう思っていたが、風の音とともにふいに人の気配がする。そばの道沿いを歩いていく学ラン姿の男子生徒の姿があった。
     三郎は立ち上がり、俯いて歩くだけのその少年に近寄った。砂を踏む足音がするが、彼は振り返らない。手元にはカバーに包まれた文庫本がある。白くて細い、頼りない指だ。少し、僕に似てる。
     声のかけ方に迷った。
     「前ぶつかるよ」
     と言ったら、少年は肩を跳ねさせて顔を上げ、前方に何もないのを確認してから、声の主である三郎の方を振り返る。
     癖のついた栗色の髪。翡翠の瞳に、紫苑が降っている。三郎はその色をずっと、星が明るすぎる夜の天の川のようだと思っていた。──そうだよな、あたりまえだ。心臓がギュッと引っ張られて、そのまま駆け寄ってしまいそうになる。この瞳を好きだと思うのは、とても当たり前のことだ。
     「この辺で交番があったら教えてほしいんだ。今日初めて来た街なんだけど……落し物を探しててさ」
     「交番まで……。多分、ちょっと距離がありますよ」
     涼やかな声は、知っているものよりも高く細い。少年は、文庫本に栞を挟んで閉じた。こんなに素直に他人の距離を取られると、とても新鮮だ。三郎の隣にいる場合の彼は──夢野幻太郎は、出会った頃、隙のあるなしを自在に調節していたから。
     近辺に交番がないことはよくわかっている。三郎は、自分より少し背丈の低い彼の隣へ行き、通りを少し見渡した。
     「そっか。でも届けられているかもしれないから、行ってみるよ」
     「なら、途中まで案内します」
     少年の幻太郎は、前を歩いた。
     いまでも、幻太郎を見下ろすということはある。それでも、こんなに華奢な体躯の彼に、出逢えたことはない。出逢えるはずがなかった。
     「……ありがとう」
     この辺に住んでるの? とか、いつもここを歩いて帰るの?とかは、さすがに不審者だよな。三郎はもう彼と同じような学ランを着ていない。長い時間をかけてやっと学生ではなくなったばかりだ。そんな男が中学生に馴れ馴れしく接するのは多分、よくないだろう。
     「本読むの、好きなんだ」
     疑問を投げかけるというよりも、確認に近かった。
     「……あなたは?」
     そう問い返されて、あの優しい眼差しを思い起こさない訳にはいかない。
     「好きだよ、僕も。今日は何を読んでたの?」
     今度こそ渡した質問に、幻太郎は片手に持ったままの本のブックカバーを剥がして見せてくれた。
     藍色の表紙と黄色い帯は所々掠れている。星の降る夜を機関車が通り抜けていくイラスト。ふちどりのついた赤い明朝体の題字は──『銀河鉄道の夜』だ。三郎は、幻太郎が一番初めに薦めてくれた本が、銀河鉄道の夜だったことを思い出した。
     「小さい頃読んだけど、もう随分忘れてしまったから、最近読み返してたんです」
     ……読書は自分を写す鏡だ。本を通して、色々な自分に出逢う。読書について語る時、幻太郎はいつも何かを慈しむような瞳をする。目の前の彼と、間違いなく同じ人物だ。
     「どんな本を読むんですか」
     と、聞かれた。愛読書を思い返す。
     「ルベーグ積分。……トポロジー・オブ・ファイバーバンドル。あと、線型代数学」
     幻太郎は、ふっと肩の力を緩めて柔らかく笑った。
     「はは、全然知らない」
     馬鹿にしたのではなくて、それが一種の愛情表現であるようにすら、三郎には感じられた。きみはしらないことを知っているから面白いと、評価されたような気分だった。鼻が高くて、すごくうれしくて、勝手に内側の温度が上昇していく。幻太郎に会いたくなる。三郎よりも世界を知っている幻太郎に。
     幻太郎少年は、恐らく歳の割に知的で、大人びていた。三郎が十四歳のとき、こんな同級生はいなかったはずだ。跳ねた襟足を見ながら、知らない街を歩いた。不気味なほど静かなのに、汗ばんだ二人分の気配だけで、何もかも充たされていた。

     結局交番まで送り届けてくれたが、そこに警官はいなかった。
     「お急ぎの用件はこちらへどうぞ」
     と扉へぶら下がった札に電話番号が書き添えられている。けれど三郎のスマホは圏外だったし、幻太郎は携帯電話を持っていなかった。
     何を落としたんだっけ。三郎は手の甲で額の汗を拭う。
     「公衆電話からかけてみますか?」
     「……うーん、いいや」
     「この辺り、探してみますか。もう少し」
     「手伝ってくれるの?」
     「六時くらいまでなら大丈夫です」
     少し迷って、首を振る。
     「ううん、大丈夫。また来てみる」
     「……大事なものなんですか」
     幻太郎の視線が覚束無く、彷徨う。どうして不安げなのか、その答えを考えるだけで、心は温まる。
     「大事だから大丈夫。きっと見つかるから」
     「……なら、……俺はこれで」
     幻太郎は控えめに頭を下げる。不思議と名残惜しさはなかったが、彼は三郎を残してその場を立ち去ることを少し戸惑っているようにみえた。
     「また会えるといいね」
     と言ったら、彼は少し笑って頷いた。
     歩いていく背中を見ていた。見えなくなっても見ていた。行く先で、自分が彼の手を引いて歩いていくことを夢想する。
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