残り香 あの人の匂いがした。
雷我の家の玄関先で、ノラは心底不快そうにぼやいた。
「今日、暑すぎません?」
真夏の高知は毎日暑い。今日も猛暑日だ。
今はちょうど夏休みで学校はなく、雷我は午前中にDAAの用事を済ませてからはオフで、家でゴロゴロとしていた。一方ノラは志望大学のオープンキャンパスがあり、一日外出していた。その足でそのまま、雷我の家に来ている。
今夜は地元の夏祭りの寄合だとかで両親が留守だ。それをいいことにノラを泊めることになっていた。
「あ、お土産でーす」
ノラは手元の紙袋を持ち上げた。
「大学の前においしそうな洋菓子屋さんがあって。ねこちゃんケーキなんですよ」
「自分が食べたかっただけだろ」
「らいがくんのぶんも買ってきたんですけどー?」
ノラがふてくされつつも差し出した紙袋を「晩飯の後にするか」と受け取る。
その時に、覚えのある香りが、鼻腔を刺激した。
「どっちでもいいですよ」
特徴的なハーブのような香りと、その中で一匙だけ甘い香り。
雷我の脳裏に、あの声が響いた。あの笑顔が、あの掌が、雷我に向けられている錯覚に襲われる。
「らいがくん、」
ノラの声で、ハッと我に返った。不審に思ったのか、顔を覗き込まれている。
「どうしたんですか、ぼーっとして」
いや、と雷我は首を振った。
「……、お前、たばこ臭え」
「え、やっぱり臭いですか?」
ノラは自分の腕をすんすんと嗅いだ。自分じゃわからないのか、んーと眉を顰めている。
近づくとわかる程度ではあるが、しっかり染みついている。雷我が頷くと、ノラは「最悪」と漏らした。
「吸ったのか?」
「吸いませんー。なんで真っ先にそっち行くんですか、仮にも未成年なのに」
「元ヤン」
「あー!?」
ノラの抗議を無視して、そのままリビングへ移動する。炎天下を歩いてきたため、ノラは随分汗をかいている。一先ず水分を取ったほうがいいだろう。雷我は冷蔵庫にケーキを仕舞うと、代わりに麦茶を取り出した。
冷房の効いた部屋にノラは「生き返る~」と腰を下ろしていた。隣には大学の不織布バッグがちょこんと置かれている。彼の前にグラスを差し出せば、麦茶があっという間に飲み干されていった。二杯目はセルフだ。ボトルを置けば、ノラは自分で注いだ。
「学部の教授さんに、挨拶に行ったんですよ」
「受けるとこのか」
雷我も自分の麦茶を飲みながら話を聞く。
「はい。相談コーナー?みたいのがあって。ほら、面接とかで印象良くなるかもしれないじゃないですか。顔通しとこうと思って」
根回しと言うことだろうか。受験勉強のやる気がないくせに、こういうところはマメだ。
「ただ、そのせんせい、ヘビースモーカーで。教授室が煙草臭いのなんの。今時ビックリしましたよ」
「校舎禁煙だろ」
「禁煙ですよ。でも、あの教授の部屋だけは堂々と吸ってるみたいです。暗黙の了解なんですかね。空気清浄機みたいの置いてましたけど、全然誤魔化せてなかったです」
大学の教授って変な人ばかりですね、と語る。ノラと雷我には共通の知り合いが浮かんでいた。そういうものなのかもしれない。あそこまで変な人間が頻繁に居てほしくはないが。
「その部屋にちょっと長居したものだから、すっかり匂いがうつちゃって。ぼくは煙草の煙とか気にしないタイプですけど、臭いのは嫌ですねー」
ノラはそう言うと、またごくごくと麦茶を飲んだ。
おそらく、その教授の愛煙しているものとあの人のよく吸っていた銘柄が同じなのだろう。もう何年も嗅いでいない、忘れ去ったと思っていた匂いだったのに、案外わかるものだ。
「ねえらいがくん、」と、三杯目の麦茶を飲み干したノラが言う。
「煙草臭いし汗臭いんで、先シャワー借りちゃってもいいですか?」
「勝手にしろ」
はーい、と間延びのした返事。タオルや着替えの場所はもう分かっているはずなので、雷我は「部屋にいるから」とだけ声をかけ、リビングを出た。
自室に戻ると、雷我はベッドに寝転んだ。
なんだか不思議な感覚だった。
あの香りを今になって嗅いだこと。それだけで分かってしまうほど記憶にこびりついていたこと。
何より、あの人の香りを、ノラが纏っていたこと。
どれも、予想だにしなかった体験だ。
正直、少し混乱した。遠い思い出の過去と、現在が、クラッシュするような感覚で、眩暈がした。
けれど一方で、思ったよりも冷静さを保っている自分がいる。それが少し嬉しかった。
ごろり、と寝返りをうち、手持ち無沙汰でしばらくスマホをいじる。夕飯は出前を取ることになっている。が、夕飯時にはまだ少し早い。ノラが戻ったらゲームでもするか、などと、考えていると、廊下から足音がした。
「おかりしました~」
肩にタオルをかけ部屋着に着替えたノラが乗り込んでくる。そのまま我が物顔で雷我の隣に陣取りスマホをいじった。
ふわりと漂ったのは石鹸の匂いだ。
あの人の香りは、もう、しない。
それを惜しいとは思わなかった。
「ノラ、」
名を呼べば、ターコイズブルーの瞳をぱちくりとさせ、スマホから顔を上げる。雷我はおもむろに手を伸ばすと、その側頭部のあたりの毛先を指先に絡めた。ドライヤーはかけたのだろうが、ほんのりとまだ湿気をはらんでいる。触れるだけじゃあ足りなくて、そのままぐいと引き寄せた。ついでに唇を塞いでしまう。
距離0センチのノラからは、やっぱりもうあの香りはしない。一欠片も残っていない。
ただ、ノラの香りがした。それが何の匂いかは分からない。なんなら彼が先程使ったシャンプーは和食家のもののはずだ。けれど、それは雷我のよく知る藻津ノラの匂いだった。それが何故か嬉しくて、何故かひどく安心した。
唇を離せば、ノラは目を白黒させている。
「え、何?なんですか急に」
答えず、もう一度口づける。今度は先ほどより深く、長く。
もっとこの香りを確かめたかった。もっとそれを感じたい。――足りない、と思ったら最後。
香りだけではなくて、形も声も、五感のすべてで確かめたくなる。
「なになになになに、なんですか、なんで急に盛ってるんですか?そういう流れでした?」
パニクるノラから少し身を離す。雷我自身、この方向にテンションが転がり込むとは思っていなかったから、ノラは何が起こっているのか分からないだろう。
雷我の中に芽生えた欲はいつもとは少し種類が違う。けれどその満たし方を、雷我は一つしか知らないのだから結局は同じだった。
「……いやか」
「い、嫌ではないです、けど……」
少し戸惑いながらも返ってきた答えに、ほっとする。
雷我はいつものように首筋のデッドポイントにキスを落とした。
「……ほんとに、なんなんですかもう」
「さあな」
雷我は笑って、ノラをベッドへ押し倒した。