呼び名の意味など変わらぬ筈でも「なあ半田! イタンカの家で今度AV見るんだけど来るか?」
この世に存在する意思のある者には、二通りの存在が居る。俺は高校生活からその定説を支持してきた。目の前にあるロナルドのアホ面を小馬鹿にしたように見つめながら続きを促す。
「来るのはカメ谷と腹出とあともう二人位? かな?」
「興味はない」
「そう言うとは思ってたけどさぁ……たまには良いじゃん、それともなんか疚しいことがあるのかよ」
「ない」
嘘だ、俺には疚しいと思っていることが一つある。AVを見ようと誘われるのは別に構わない。興が乗ったら行っても良いかと思える日だってある。だが、どうしても、その後の空気に耐えられる気がしないのだ。
「でも半田も見たくねえ? めっちゃでかいおっぱいの女優さん!」
これだ。俺は、おっぱいと言えないタイプの存在なのだ。この世にはおっぱいと素面で言えるタイプの存在と、言えないタイプの存在が居る。これが俺の世界の定説だった。男性は勿論、女性のその部位に名称を与えるならば胸部、妥協して胸。たまにロナルドの阿呆が大きな声でそれを言うから売り言葉に買い言葉で発してしまうことがあるが、言った後に凄く後悔するのだ。恥ずかしい、に近いのかもしれない。胸部を俗語で言える存在達に羞恥はないのだろうか、俺にはある。あまり性に関わる言葉を言われたくないし言いたくない。そして、問題なのはそれを悟られたくないと思っている己自身だ。バレたら逆に馬鹿にされて、その俗語を言われ続けるかもしれない。その時に暴れない自信がなかった。だから、きっと俺はAV鑑賞後に行われる感想交換に参加したくないのだ。かといって、AVだけ見てさっさと帰ったら家で抜いてるのではという疑惑を掛けられるかもしれない。それはそれで別の意味で嫌だった。
「なんど言われても、俺はこの手の集まりには行かんと言っている」
「……一応、聞くけど不能とかそういうのか? 別にそれで馬鹿にしたりしねえよ?」
こちらを窺うようにおずおずと的外れなことを言う口をグーで塞いでやりたかったが、クラスは喧噪に塗れていたのでそれに水を差す真似はしなかった。ただ、ゆっくりと目を伏せて、馬鹿に説く。
「だから疚しいことはない、別に楽しめる者同士で嗜好すれば良いことだ」
「半田、おっぱい嫌いなのか? 尻のがいいとかそういう?」
マスクをしていて良かった。いや、もしかしたら耳が赤くなっているのは隠せていないかもしれないけれど、何故かロナルドが胸部のことを言う度に普段の照れとは違う、もっと根源的な恥ずかしさが累積していくのだ。だから、白昼堂々そんな不埒な話をしていることを気が付かせようと囁く。
「貴様の声はデカいからな、そんなことを言っていると女子……そうだな、貴様の思い人が居たらはしたない輩だと思われるかもしれないぞ?」
目だけで挑発すれば、ロナルドは先ほどまでの溌溂とした男子学生らしさの顔から恋をする少年の顔に変貌する。ロナルドのこんな顔を見るのは初めてで、なんだかチクリと心が痛んだ。俺の知らないコイツの顔を見せられる存在がこの空間に居るという事実に驚いただけなのかもしれない。
「……半田は、AVの話は、その……はしたないと思う?」
「別に健康な男児なら仕方ないだろう。だが、あまり胸部の事で騒いでいると下半身だけで生きているように見られかねん」
「おっぱいって言わなきゃいいのか?」
「そういうところが、はしたないのだッ!」
するとロナルドは頭を抑えるように小さくなる。別に叩こうとしたワケではないのだが、態度に威圧が溢れすぎてしまったのだろうか。
「まあ、聞いていたのが俺だけでよかったなロナルド。精々、楽しんで来い。報告は要らん」
そういって、椅子から立ち上がった。次は移動教室だったからだ。その日を境に、ロナルドからAV鑑賞の誘いが来ることは無かった。だが、何故かロナルドと話している時にやってくる恥ずかしさは消えなかった。それはカメ谷伝いに「この前AV鑑賞会したんだけど」と日常会話で伝えられた後に、ヤツと会話する時に多く感じていた。目の前のロナルドは俺の知らないところでAVを見て、そういう話をして、そして平然と俺の前で俗語を語らぬようになった。だから俺はカメ谷に昼飯を三日奢るという約束をした上で「何故半田を誘わなくなったのか」を訊ねてくるように頼んだのだ。
「確かにああいうのって半田を誘いたいっていうのロナルドだけだったからね」
「……ぱったり止んだから何かあったのかと思っていたが、その口振りだと変化はないようだな」
「ロナルド自身に変化は無かったように見えたけど、聞いてみるわ」
カメ谷は題材こそニッチなものだったり、俺にまつわる事だったりしたが、優秀な記者志望の人間だ。答えは存外早くやってきた。昼飯を奢る最終日だったと思う。ロナルドが「飯なら俺も行く!」と言ったのを二人掛かりで言いくるめて、しょんぼりとこちらを見る視線を弾きながら鍵の緩い屋上に登る。
「分かったのか」
「なんというか、単純すぎてこっちが阿呆なのかなって思う感じだったよ」
「勿体ぶるな、言え」
「まあ対価も貰ってるし言うけど……。半田、ロナルドにさ『おっぱいって思い人に聞かれるのは、はしたない』って言ったらしいじゃん?」
忘れられるわけがない。俺の心を刺した穴がまたどろりと血液を流す。だが、カメ谷から言われた胸部の単語はそこまで恥ずかしいものではなく、ただの男子高校生の戯言のように思えた。
「言った」
「それがなんか堪えたらしいよ、半田にもはしたないって思われてるんだって思うと誘う勇気無くなっちゃったって」
「馬鹿かアイツは」
「お前も馬鹿だよ」
下らない内容だった、別に俺はロナルドがそちら側の存在だと知っているから最早、はしたないを通り過ぎてただのフェティシズムの一種だと理解しているのに。
「俺は馬鹿ではない」
「いや、でもまたAV見ようって誘っても来ないでしょ?」
「勿論だ」
「それでも自分がAV鑑賞に誘われないの気にしてるのって、なんか半田って変なところで繊細で、変なところで図太いよな」
そう言えば、カメ谷も同じようにAVを視聴した後だというのに不思議と普通に話せている。純然たる疑問だったのでついでに投げかけた。カメ谷は記者としてゴシップは手中に収めるが、情に厚いヤツだということも分かっていたからだ。
「……最近、ロナルドと話す時に妙に緊張するようになった。いや、もっと前からかもしれない。最初はヤツが胸部のことを、その、お……おっぱいと、言うからだと思っていたのだが、ロナルドがそれを言わなくなってからもずっと照れが消えないままだ。これは、なんだと思う?」
するとカメ谷は、笑顔のまま感慨深く笑いながら「そこまで分かってて何が、分かんないんだよ」と言う。
「何か分かるのか」
「お前たちが大馬鹿だってことがだよ、別に呼び方なんて元から関係ないんだって」
付き合ってらんないわ、と昼飯を食べ終わったカメ谷が下の階へと降っていく。話は途中だというのに、答えは俺の中にまだ無いというのに。
「おい! いつか絶対教えろ!」
最後に叫んだ声にカメ谷はこともあろうに手だけで返事をした。それが確約でないことが分かって舌打ちをしたくなった。だが、別にロナルドに嫌われているワケではない。その事実が、昼飯三日分の重さだった。
高校を卒業し、成人を迎え、ロナルドのことを好きだと気が付いた。素直に告げたら、ロナルドがOKをしてくれた。相変わらず、こいつと話すときは何処かドキマギしてしまうがそれは告げていない。
「あんまりこういう関係になったこと、誰かに言うつもりはなかったけどドラ公には言っても良い?」
「無論だ、あとカメ谷にも伝えよう。三人で遊ぶ時に気を遣わせるかもしれない」
「そうだな」
じゃあ、次に三人で会う時に言おうと密約を交わし、カメ谷と裏でまたオカルトスポットの計画を立てた。ロナルドにはケバブ食べ放題に行こうと伝えておきながら、いつも通り集まり、そして帰りに約束を果たす。
「……と、いうことで今はロナルドとお付き合いをしている」
「カメ谷には言っておこうと思ってさ」
一杯目の飲み物が来た時点で、そういえばカメ谷は腹を抱えて笑い出した。友人がくっ付くのは気を狂わせる程に嫌悪感を与えたかと怖れていれば、それを察知したのかカメ谷が制止した。
「大丈夫、大丈夫、いや、長い道のりだなって思っただけだよ。おめでとう」
「引かないのか」
「むしろ遅いくらいだよ、ロナルドは自分の気持ちに気が付くの早かったけど、半田は無自覚だからさぁ。よく落とせたねロナルド」
隣を見れば茹蛸のように顔を赤くしたロナルドが口をわやわやさせていた。自覚、とはどういうことだ、カメ谷は全て知っていたのだろうか。俺が困惑して、ロナルドが赤面している。まともに話せるのはカメ谷だけだった。だから、というワケではないだろうが、ゆっくりと面白そうにカメ谷は口を開いた。
「ロナルドにはしたないって半田が言った時あるじゃん」
「ああ」
「あれはロナルドが半田にはしたないって思われたくないって話なんだよ。だから半田のことが好きだからラッキースケベ狙いでAV鑑賞に誘ってたけど嫌われるんならやめるってそれだけの話。そうだよな、ロナルド」
「……あんまりちゃんと言うなよ、隠してるところもまだいっぱいあんだから!」
「ロナルド貴様、俺という恋人の前で隠し立てとはいい度胸だな!」
「ワァーン! こうなるって分かってたから嫌だったんだよ!」
「でも半田だって人のこと言えないだろ?」
カメ谷の言葉に振り返る。ヤツは俺たちの関係を遅いと言っていた。それはいつまで遡るのか、心当たりは一つしかなかった。
「俺のことを馬鹿呼ばわりした時から何か気が付いていたのか?」
「半田はさ、多分他人に指摘されても全力で否定するから、自分で分かるまで何度も気が付かせなきゃいけないタイプって分かってたから、あの時は言わなかったけど、ロナルドがおっぱいって言うのに照れてたんじゃなくて、ロナルドが半田って名前を呼んでくれる事に照れてたんだろうなって思ったんだ」
「……今でも胸部の事は、その、恥ずかしいが」
「言うのはね。でも俺がそう言っても別になんともないじゃん。ロナルドが『半田!』って言いながらその単語を言われると恥ずかしいって、それは意識してるってことと変わりないんだよ」
あー、ずっと馬鹿だと思ってたこと言えて良かった。カメ谷はそう言いながら手にしていた飲み物を飲み切った。スピードが速いと感じたのは気のせいではないだろう。きっと、カメ谷はカメ谷なりに俺たちのペースに今まで合わせてくれていたのだ。それは友として、有り難いことだった。
「俺とロナルドは、恋人にはなったが、それとは別にカメ谷は大事な友人だ。これからもよろしく頼む」
「お、おう! 遠慮とかすんなよ!」
見えないところでそっと手を繋ぎながら真正面の友人の二杯目の注文を見届ける。アルコールに唯一強いこの記者兼友人は不敵に笑いながら「プロポーズが終わったら、式でも開こうな。スピーチは任せてくれよ」と祝福を送ってくれた。その優しさに呼称の意味など無意味なのだと分かったのだ。不変であるものは、何処まで行っても変わらない。そう信じることで出来た。良い家族、良い恋人、良い友人、良い職場。俺は恵まれ過ぎているのかもしれない。だが、溢れるくらいの幸せでこの世は丁度いい。そんな気がした僅か二十幾何の夜だった。