癖鬼夜紅その夜はとても、紅い月が眩しく。全てを見透かすかのような日だったことだけを覚えている。眠ることが朝になったのはいつの日だっただろうか。その道を選ぶまでの自分の生活を事細かに覚えているだろうか。そして、かつてが幸せであり、今も幸福であることをいつまで覚えていられるだろうか。隣の紅は笑う。銀の髪を揺らしながら優しく。
「半田が残した、平和の数だけ朝が来るんだ」
それはお前にも言えることだろう。俺は紅に問おうとした。けれどその瞬間に若干伏目がちに閉じられた瞳の縁に溜まる清らかな一滴を見て、何も言えなかった。己の仕事に誇りを持っているのは俺もコイツも変わらない。ただ、こちらは公務員で、あちらは自営業。それだけの差だと言うのに周囲の評価は違う。いつも、光はこちらに向けられている。それならば。
「俺は貴様が正した悪を知っている。パトロールの瞬間は知らないが、それでも報告は入ってくるし、此方も監督をしている。貴様も朝を呼ぶのだ」
朝。吸血鬼が消えていく時間。人間の始まり。俺たちの終わり。この世界がそうやって出来ていたら、簡単だったのかもしれない。分からない。誰にも分からないからこそ、生きている。
「朝が来たら、なんか欠伸が出るよな」
「酸素不足だ。しっかり呼吸をしろ、それだけで大きく健康状態は変わる」
「俺は風邪をひいたことねえんだぞ」
「それはバカだからだ、だがバカでも何があるか分からない。だから気を使え。25歳を超えたら人間何があるのか分らんぞ」
「なら、半田も気を付けなきゃだな」
「別に、俺は構わん。元よりトレーニングはしているし、何よりダンピールだ」
そう一息に言えば、紅の瞳は大きく見開き、そして鋭くねめつけた。その行為に僅かな驚きを感じたことを強く覚えている。
「ダンピールも、人間も、死んだら同じだろ。始まりが違うことも分かるし、それぞれの苦悩があんのも分かるけど、行きつく先が同じなら同じくらい苦労しろ阿呆」
「貴様より間抜けになったことはないな」
真剣な言葉に、何処か耐えきれなく茶化してしまった己が居たのは確かだ。それでも大好きな鬼の血を継いだ己を一瞬でも過小評価してしまったことは、隣人のお陰で悔いることが出来た。悔いるということは、必要な行為だ。空をゆっくりと見上げる。そこにはまだ皆既月食にて紅く食われた月が存在していて、その主張が色よりも濃いことを表していた。
物陰で黒猫が啼いた。まるで何かから逃げるように。人の命となんら変わりない生き物の魂。それはダンピールもそうだ。それを気付かせてくれたのは月の光よりも眩しい彼で。コイツが居る限り、俺は幸せを忘れることがないのだと。そうぼんやりと考えていた。けれど、紅い月が眩しく。全てを見透かすかのような日だったことだけを覚えている。この身の命が何かに焦がれされるまで、後悔するまで。覆い隠すように。
「ロナルド」
なんとなく呼んだ紅の名は、自分で放ったのにも関わらず、俺の耳にこびり付いた。声色が、気に入らなくて。無かったことにしたかった。