言わぬが仏最近村上は寝覚が良い。
いきいきしていると指摘されたのでそう説明すると、「いい夢でも見てるのかもね」と今に言われた。人は夜になるとネガティブになりやすく、寝る直前に考えていたことは夢に出やすくなるらしい。以前に比べ村上は悩むことがなくなった。いいライバルもできた。能力との折り合いも着いた。戦闘訓練や任務、学生生活と忙しないが満たされていると感じる日々。心のゆとりが夢にも現れているのかもしれない。
とにかく目覚めると村上は力がみなぎっていると感じる日が増えた。
「今ちゃん、夜ご飯なんだけど今日は外で食べてきます」
「遅くなりますか?」
「そうだな……メンツ的にだらだら飲んだりはしないだろうから、日付が変わるまでには帰れると思うけど」
今日は土曜なので高校は休みだ。
村上は朝のランニングを終え、今の手伝いで朝食の準備をしていた。そこへいつもの時間通りに来馬が起きてきたところだ。どうやら大学の講義の後、同級生と飲みに行くらしい。
今日は来馬ら大学生が、平日参加できなかった分の講義に変わる課題をする日だった。大学側からの救済措置として2週間に一度設けられているという。参加できなかった講義分のレポートや講義を受けないといけないため負担が集中するが、特に欠けなく出席できていれば参加しなくていいらしい。実態としては教授側も手間になるため、名簿と資料をデスクに放置して署名させて資料を回収させるだけの講義も少なくないと来馬は言っていた。村上にはあまり想像がつかないが、講義によっては動画を見て感想を書いて終わるものもあるらしい。そして、集まりやすさからそのまま同級生と飲みにいくという流れが定番化していた。太刀川二宮加古堤の中で参加できる人は参加しえできない人はまた次回というシステムなのだと言う。村上の知る範囲ではよくルール化されるほど何度も集まれているなと不思議にすら感じるメンツではある。
来馬が二十歳を超えてから、飲み会と言って出かけることが増えた。いきなり大人の仲間入りをしたみたいな言い訳だと村上は思っていた。飲み会と言えば夜に来馬を連れ出せるのは羨ましい。未成年の村上では任務以外で夜に来馬を外へ連れ出せる口実はなかった。
しかし飲み会といっても来馬が酒の気配を纏って支部へ顔を見せたことはない。節度のある飲み方をしているか、それとも酒に恐ろしく強いのか。
本人に聞いてもわからないと答えられたが、太刀川に聞くと来馬は前者だと教えられた。一度でも失敗してしまえば二度とみんなと飲みに出かけられないから。と頑なに許容範囲でしか酒を嗜まないという。といいつつ乾杯以降も普通に飲んでいるから弱いわけではないらしい。
「周りは来馬の家的に一晩のアバンチュールだとかそういったリスクを避けるためだろうと勝手に納得しているが、それ以外にも事情があるっぽいんだよな。だからお前、酔わせてみろ」
村上との手合わせを終えた太刀川は断言する。野生のカンというものなのだろうか。酒の話は村上には全くぴんとこない話なので戸惑う。
「俺はまだ未成年ですが」
「じゃあ後2年指を咥えて待ってろよ」
先に酔わせた方が勝ちな、と太刀川は去っていった。
「2年のハンデはずるくないか……」
残された村上は首を傾げて呟くことしか出来なかった。太刀川と来馬の酒について話をしてからしばらく経つが、未だに太刀川から勝利宣言は来ていない。できればずっと来なければいいと村上は思っている。
「鋼、薬は飲んだ?」
「飲んでます。いつまで飲み続ければいいんですか?」
「とりあえずは今あるのを飲み切るまでかな……何か副作用は感じる?気分が悪くなったり体調がすぐれないとか。辛いなら止めることも情報の一つだからね」
来馬が言うには、村上のSEについて、今後助けになりうる研究を行なっているのだと言う。中身までは知らされていないが、来馬が勧めるのだから問題ないだろうと詳しく説明は聞かずに協力していた。
「今のところは特に何もないですね」
むしろ調子がいいくらいですとは言わずにいると、来馬は村上の答えに少し考えるような仕草をする。
「そう……もし何か気になることやいつもと違ったことがあればできる限りぼくに相談してね。ぼくに言いにくければ誰か大人でも構わないから」
「もちろんです」
調子の良さと薬の関連はないと村上は判断し、来馬には伝えなかった。
「じゃあおやすみ。ぼくは明日出かける用事があるから早めに起きるけど鋼はゆっくり寝てていいからね」
「わかりました。おやすみなさい、来馬先輩」
薬は毎日服用するものではなく、一週間に一、二度来馬に指定された日に飲む。大体は休日の前日が多い。経過観察ということで薬を飲む日は来馬が村上の部屋に泊まる。床にブランケットで寝ようとした来馬を抑え、予備の折り畳み式マットレスを用意した。支部には所属の隊員以外の人間が仮眠を取るための設備が整っている。
一人用の狭い部屋で二つのベッドを並べると窮屈になるが、その分来馬の息遣いまで感じられるような気がして、そんな中眠りにつくのが村上は嫌いではなかった。人が穏やかに寝ている気配というのは落ち着きを伝播させる。
最近夢見がいい原因はこれかもしれない。寝る直前の記憶が良いから、きっと良い夢を見ているのだろう。村上は来馬に心の中で感謝する。実験台として服薬させられてはいるが、副作用も変化も見られない。
薬を渡された時、来馬から簡単には説明を受けていた。
「薬効を説明してしまうと本当に効果が出ているか判断ができなくなってしまうから、どういった薬なのか説明することはできない……それでも良ければ飲んで欲しい。これは鋼のSEが少しでも鋼にとって便利に使えるように考えられているのは間違いないよ」
治験、というのだろうか。村上専用に作られた薬らしいが、もちろん飲まないという選択肢も用意されていた。それでも村上は来馬を信じたし、信じた結果後悔もしていない。
そのうち来馬は必要になれば話すだろうし、実用化されるのであれば自然と知ることになるだろう。村上は未知の薬を飲むことについて、楽観的に捉えていた。
「鋼、好きだよ」
ごめんね、と酷く傷付いた様子の来馬に、村上はどうして謝るんですか!と強く思い、そしてそのままを口にした己の声で目が覚めた。昨日の夜に言われた通り、すでに来馬は支部を出ている。マットレスはいつもの場所へ戻され、空いた空間には元あった形で折り畳みの机が置かれていた。来馬が先に起きることは少なくないし、その度に見たよくある風景だ。しかし村上はここに来馬がいなくてよかったと安堵している。村上は鏡を見ていない為わからないが、おそらく第三者が見れば慌てて心配するような表情をしているだろう。それを断言できるほど村上は混乱していた。
今までは何も覚えていないが心地の良い夢だったはずだ。しかし、なぜか今朝は辛い夢だった。夢の内容もはっきりと覚えている点もいつもとは異なる。
来馬に好きだと言ってもらったのに、その来馬は少しも幸せそうではなく、むしろ思い詰めている様子だった。
好きだよ、ごめんね。
その言葉が村上の脳内で何度も繰り返される。どうして、どうして謝るんですか?
そんな顔をしないで欲しいのに、夢の中の来馬は一度焼き付いたら消えてくれなかった。
「で、酔わせたか?」
「だから、俺は未成年なんですって。酔わせるも何も俺たちの前で来馬先輩は酒を飲みませんから」
「良いことを教えてやろう。人は酒を飲んで逆立ちするとすげー酔う」
残念な大人すぎる。わざわざ鈴鳴までやってきて話す内容ではない。しかも酔うらしいではなく、酔うと断言したあたり実体験なのだろう。村上は隠すことなく半目と沈黙で太刀川への呆れを示す。
前回は村上が本部へ赴いた際の会話だったが、今回は太刀川が支部へ来ていた。業務についてであれば良かったが、残念ながら大学の要件だ。去年来馬の取っていた講義の過去問をコピーしに来たらしい。高校のテストであれば過去問なんてわざわざ?と言いたくなる程度だが、大学のテストはそっくりそのまま出ることが多いという。たった2つしか歳は変わらないはずなのに、高校生と大学生とではこんなにも違う。
「いや、こっちも手強くてさー。来馬は飲まないって決めたら絶対飲まないし周りも来馬が飲まないって言ってるなら飲ませないって感じ。ガードが二重でかたい」
「素直に諦めましょうよ……絶対無理でしょうそれ」
「隠されると暴きたくなるのが男のサガだろ」
「知りません。そもそも来馬先輩がどれだけはしゃいでも逆立ちするシチュエーションが浮かばないんですが」
「確かに。そもそも生身で逆立ち出来るかも分からん。あとは……好きな人と飲むとリラックスして酔いが速くなるらしい」
「好きな人……」
「つまりお前ら支部の身内だろ、いける」
「いけません」
「2人で何の話してるの?」
いけるいけないで太刀川と村上が平行線を辿っていると、ファイルケースを手にした来馬が来てしまった。
「お前が酒を飲みすぎない話」
「未成年に飲酒の話をしないでよ……それにお酒は飲みすぎないのが正解だと思う」
来馬の言葉に村上は心の中で大いに頷く。
別に酔い潰れても構わないとは思うが、来馬の正体を失った姿を見たら村上はショックを受けるだろう。嫌いになるとか失望するとか、そういうことはあり得ないが。
「というかこれ、全部範囲だから頑張らないと丸暗記でも大変だからね。早く取り掛かった方がいいと思うよ」
数センチの紙の束に村上はゾッとした。
丸暗記は村上の能力であれば何の苦労もないが、そうでなければ大変だろう。
「おれのかわりに覚えてくれ」
「俺が覚えるのはいいですが、無意味です」
菊池原の耳みたいに共有出来たら最強なのになと太刀川は嘆いた。今飲んでいる薬がそういった方面の薬であればいつか太刀川を世話する事があるかもしれない。もしそうならなるべく早めの完成が望ましいなと村上は太刀川の手に握られた分厚いファイルケースへ視線をやった。
「太刀川大丈夫だといいけど」
太刀川が帰った後、来馬は心配そうに声を上げる。
「なんだかんだで今まで来れてるなら大丈夫だと思います」
そうだね、大丈夫だといいね。本当に。と来馬が祈るように両手を握りあわせた。来馬の声には落ちたら面倒だとか、せっかく手伝ってやったのだからといった感情は無い。本当にただ太刀川の単位を心配しているだけなのだろう。
「優しいですよね」
「何が?」
「来馬先輩が」
「太刀川に?」
村上は頷く。酔わせようと画策している人間の面倒を見てやるだけでなく、その後まで祈るなんて。村上は来馬に祈られた事がない。成績も優秀で戦闘でも優れているからか、かけられる言葉は「鋼なら大丈夫だよ」といった肯定の言葉ばかりだ。もちろん光栄なことだが、心配してもらえる太刀川が少し羨ましい。
「せっかくならみんなで揃って卒業したいしね」
「俺のSEが太刀川さんも利用できたら良いですね。太刀川さんだけじゃなくて、いろんな人が利用できたら便利ですし」
暗に薬について探りを入れる。来馬はそれに気がついた上で微笑む。
「鋼はみんなに優しいね」
「太刀川さんがテストで困らなければ来馬先輩が呼び出されないと判断したからです」
みんなに優しい。と来馬が言ったので、それは違うと訂正する。村上は誰でもいいわけではない。みんなに優しいわけではない。
「そこまで考えてくれたの?」
「来馬先輩を煩わせないならそれが一番です」
「大丈夫。煩わしいなんてことは何もないよ」
結局、薬の内容については少しもわからなかった。SEを共有するための実験なのか、それとも全く別の何かなのか。それは最近見る夢に関係しているのか。聞いてしまいたい。「夢の中で来馬先輩、謝ってたんですよ。なんであんなに辛そうだったんですか?」なんて、どうやっても聞けそうになかった。
来馬が酒を飲まざるを得ない機会は案外あっさり来た。
市民の方からの差し入れで頂いたものの中にアルコール飲料が含まれていた。それに気が付かず別役が封を開けてしまい、飲む直前にアルコール入りだと気がついた来馬が代わりに飲むことになったのだ。
「最近のお酒は見た目もジュースみたいなんだね。良かったよ太一が飲む前に気がついて」
「おもちゃみたいで可愛かったんですみません」
「謝らないでいいよ。これは太一が悪いんじゃなくて、事前に確認できてなかったこっちの責任なんだから」
来馬の手に収まるほどの小さな小瓶だ。何かのお菓子にすら見える。村上もそれが酒だと来馬に指摘されるまでわからなかった。
「本当に酒なんですか?」
村上が聞くと、来馬は困ったように額に手を当てる。
「お酒なのは間違い無いよ。小さいだろ?じゃんけんで負けた人が飲んだりしてるのを見たことがある。もちろんぼくらはそんな危ない真似は絶対しないけど」
「先輩?!ちょっと!私が席を立った一瞬で何が……」
来馬が「こうやってね……」と小瓶を一気飲みする仕草をしたところに今が戻ってきたため、村上は事のあらましを丁寧に説明しなければならなかった。
「というわけで、これはぼくが責任を持って飲むけどみんなは他に同じようなものを見つけても絶対飲まないようにね」
「来馬先輩も無理して飲まないでください。他の大人に渡したっていいんですし、最悪今回は捨ててしまっても誰も咎めません」
今は小瓶を持て余しているように見えた来馬へ飲まなくてもいいんだと説得する。通常であれば村上も今へ加勢して来馬から酒を遠ざけただろうが、太刀川の言葉がどうしても引っかかってしまった。もちろんコップ一杯にも満たない量の酒で酔うとは限らない。しかし、この機会を逃せば次は本当に2年後かも知れない。
「今、来馬先輩だって本当に無理ならそう言うだろう。たまには俺たちに気を使わず飲んだっていいんじゃないか」
優しいと言ってもらえた言葉を踏み躙るような事をしている。その自覚はあったが、村上は来馬が酒を飲むように促す。
「無茶はしないでくださいね」
「何かあったらすぐ駆けつけます!呼んでください!」
「ありがとう。太一はちゃんと歯を磨いてから寝るんだよ。おやすみ」
心配そうな今と別役に来馬は大丈夫と答え、遅いからそれぞれの部屋へ戻るよう促した。
「ぼくらも食器を洗ったら順番にお風呂にして寝ようね」
「飲まないんですか?」
「……飲んで欲しいの?」
「飲んで欲しいです。俺はまだ飲み会に行けませんから」
「多分一口で終わっちゃうけど目の前で飲んだほうがいい?」
「嫌でなければ」
納得したのか根負けしたのか、来馬は小瓶のキャップを開け、口をつける。パンを千切って食べるような人が、小さなものとはいえ瓶に直接口をつけて飲む様子は新鮮だった。
「美味しいですか?」
「甘い。あと熱い」
口のなかが焼けそう、と来馬が渋い顔をして見せる。あまり美味しくはなさそうだった。
「ぼくはお茶のほうが好きだなぁ」
「用意してきます」
「ありがとう。じゃあ片付けもお茶飲んでからにしようか」
村上は未成年かつ禁止された行為に興味がないため、来馬の飲む酒のアルコール度数がどれだけあるのか知らないまま紅茶を2人分用意した。来馬はいつも通り穏やかだ。無理に酔わせようとするのはやはり良くないなと村上は心の中で己を叱責する。
「鋼はお茶を入れるのが上手いよね」
申し訳なさで粛々と紅茶を用意する村上へ、来馬は手放しで賞賛の声をかける。余計に居た堪れなくなり、普段であれば対面で座るところだが、隣り合って座ることにした。
「今に鍛えられました」
「ぼくも今ちゃんに色々教わったな……家でスコーンを焼いたら両親が驚いて祖父を呼んでね。その日のお茶は何故か実家の庭でアフタヌーンティーが開催されてしまった」
素敵なご実家だなと思うと同時に、村上はおや、と隣に座る来馬を見た。来馬は普段、実家の話をあまりしない。人と多少のずれがあることを知覚しているからだろう。そんな来馬が、成人した息子が菓子を焼いただけで家族総出でで茶会をしたと言うエピソードを村上へ話すだろうか。
「……来馬先輩?」
「うん?」
「ぁ…………今日は薬は飲まなくていいんですか?」
酔ってますか?とは聞かない。村上はあくまでさりげなく来馬の正気を伺う。緊張で鼓動が体全体を包みこみ、耳まで伝わるようだ。
「薬…………もう終わりだよね」
「ええ」
顔色はいつも通り。ティーカップを持つ手にも安定感がある。先程村上の目の前で瓶を空けた姿を見ていなければ、飲酒をしている可能性すら疑わないだろう。
しかし、薬と聞いた来馬は途端に俯きカップも机に戻してしまった。
「ごめんね。鋼はぼくを信頼してくれてるのにね。ごめんねあと1回だからそのまま知らないままでいてね、ごめんね、鋼」
酔っているからか、来馬はいつもより要領を得ない話し方をする。ごめんとは何に対してなのか、何を隠しているのか。村上は俯いたことで強調された来馬の頸椎をじっと見つめて考える。
「くるま先輩」
「……言葉が水になっちゃえばいいのに」
それだけ言葉にして、来馬はソファに座ったままローテーブルへ頭をつけて眠ってしまった。その体制では眠りづらいだろうと判断した村上は、来馬の上半身を持ち上げてソファに横向けで寝かせ、その上に毛布をかけてから食器を片付けた。
「言葉が水になる」
とは一体。だが、村上はこれで手がかりを得た。来馬の酔いたくない理由かどうかはわからないが、酔いたくない、隠したいこととは薬のことだ。
村上は来馬を信頼している。
きっと悪いものではない。絶対に村上を貶めるものでも健康を害するものではない。
だが、効果を確認するために薬の効果を黙っているだけが全てではないと、確信してしまった。ごめんと謝る姿が夢の中の来馬と重なる。
薬の残りはあと1錠。
チャンスは1度だけ。