植物学者と暴力団幹部「もう、ここには来ない」
玄関先、黒いスーツ姿のヒュンケルは靴を脱がないままに告げた。
つかの間の奇妙な友情だったと思う。
会うのはいつも、ラーハルトが住む狭い2DKのマンション。鉢だらけのベランダと玄関に、部屋の一つは大量の本と資料で埋まっていた。年の半分は家にいないからと、ユニットバスに石を敷き詰めて多肉植物の花壇にしているのには面食らった。
出会いはふた月前。バーで意気投合したヒュンケルが酔いつぶれた際に、一晩の介抱をうけたのがきっかけだ。
その後、木曜日の午後になると.護衛もすべて人払いし「この前の礼で」「近くを通ったから」と理由をつけて手土産を持ってあがり込み、小一時間他愛もない話をして帰っていた。そのうちに、夕飯を食べていけという話になり長居をすることが増えた。
まるで西日が眩しい放課後の教室で過ごすような時間だった。組織の中の幹部として息が詰まるような緊張の中で生きる中、肩の荷がふと降ろせる。そんな場所になっていた。
とはいえそろそろ潮時だと、己の「自由業」の詳しい意味を明かしたが、ラーハルトは「そうか。珍しいな」とだけ言って、卓上コンロの上で湯気を上げる鍋の灰汁をとり続け、豚肉と水菜を盛り付けて差し出してきた。お前の仕事は、と聞くと「ご覧の通り植物の研究をしている。普段は海外にいる」とだけつぶやき、静かに缶ビールを飲んでいた。夕食会は、張りのある紙袋に収められた折り詰めのうなぎ重、ありあわせのチャーハンなりと続いていた。本来ならば、今日はヒュンケルが調達の当番だった。
「急に。どうした」
「前に話した……例の花から採れる精油は危険だ。麻薬の何倍も人を狂わせる。栽培施設はこの世に建ててはならない。だから、今日、命に変えてでも止めてくる」
ヒュンケルは目を伏せる。涙はドアを閉めてからこぼれるだろう。
「だから、もう、お前とは会えない」
ラーハルトは黙って話を聞くとぽつりとこぼした。
「連れて行け」
開いた玄関横のクローゼットの中には散弾銃が二丁。ネクタイを結ぶような慣れた手付きで壁のナイフをベルトに装着し始めた。
「植物学者にも色々な奴がいる。俺の場合は、人食い熊の糞の中からしか芽吹かない種だの、地元マフィアが管理する山の中で群生する花だのを見つけるのが生業だ。紛争地帯にでも新種があるなら装備を整えて行く。多少の修羅場の援護ぐらいはできる」
あっけにとられた。その答えは予想していなかった。
「待て、無茶をするなら俺だけでいい」
ラーハルトは舌打ちをする。
「ならばなぜ、俺にわざわざ別れを告げに来て、全てを話す。俺を憎からず思っているからだろうが。違うか?」
瞬時にヒュンケルの腰を捉えると、ドアに押さえつけ、口づける。背ける頬を強引に右手で引き戻す。顎を捉えて舌を吸うと、誘うように絡めてきた。それに応じて口内をなぞった途端、噛み千切られたかと思うような衝撃が走り、思わず顔を離した。互いに、肩で息をし睨みつけ合うような視線を交わす。
「大人しく待っていろ。俺の組織の問題だ。お前を巻き込めない」
「それはこちらの台詞だ」
ラーハルトが、血の混じった唾を吐く。
「話を聞く限りあれは元々俺がM国で見つけた種だ。事故でお前たちの組織の手に渡ったようだが、まさかそんな効能があるとは。取り返して俺がこの世に発表する」
今度はヒュンケルが舌打ちをした。それを聞き、ラーハルトは口の端で笑う。
「それに俺もお前を死なせたくない。お前に惚れている。一人で好き勝手させない」
「……行くなら早く支度しろ」
告白に聞こえないふりをして、ヒュンケルは部屋を出る。廊下に座り込み、涙が出た。別離の悲しみではなく、馬鹿みたいに不器用な愛情に対して。胸は高鳴らず、ただただ耳元に大きな鼓動が聞こえた。
「生きて帰るからな、二人で」
だから、エレベーターを待つ僅かな間、呟かれたその言葉には「ああ」と、だけ応えた。
《おわり》