二つのコップ 農夫は、牛たちが騒ぐ鳴き声で目が覚めた。狼がやってきたのではないかと起き上がり扉を開けると、男が一人立っていた。
「夜分にすまない。わけあって旅をしている。牛の乳をもらえないか」
大柄な男。柄に竜の彫られた刀を背負っている。身分の高い人物が出歩く時間ではないから、旅の剣士か。出奔した貴族。または野盗か。
「申し訳ありません。今は差し上げられるものはございません」
眼光の鋭さが恐ろしくて、矢継ぎ早に言葉が口を飛び出る。
「明日の朝、いらしてください。それから、よろしければ、代金と入れ物もおもちになって」
男は、そうか、わかったと一言告げると、踵を返して闇の中に消えていった。
夜が明ける前、牛舎に出向く。牛たちは大人しくなっていた。ふと飼葉桶をかついだまま振り向くと、昨日の男が立って待っていた。足音も立てずに。いつきた? まさか、夜通しここにいたのか?
「これで、よいのか」
さしだしてきたものは白い壺。
青い線で絵付けがしてあり、乳を入れるには雅すぎる。そんな言葉は飲み込み、黙って受け取った。
男はじっど、乳を搾る様を見つめていた。
「どうぞ。飲む前は必ず沸かして。そのままだと腹を壊しますから」
「助かった。手間をかけた」
「どなたかご病気で?」
「子供がいる」
父親なのか。それにしても、この時間に、あまりに気味が悪い。男は代金の入った小袋を傍らの切り株の上に置き、一礼して、そのまま道を戻っていった。
袋はずっしり重く、さすがにこんなに貰えない、と追いかけたが、牛舎の角を曲がるとすでに姿は消えていた。
バランは壺を手にして小屋に戻った。
昨日拾った子は、まだベッドで寝ている。
歳は九か一〇の頃か。
ある日、地上から自分と響きあう感情の渦をとらえた。人間への憎悪。悲しみ。人里のはずれの墓場の前でうずくまっていた子供からその渦が発せられている。親はどうしたときくと、人間に殺された、という。
「一緒に来るか」という一言に、子は口を開けたまま、黙って頷き、恐る恐る、私のベルトを掴んだ。
抱き上げて飛ぶと、目を見開いて驚いたが、しばらくしてから途端に涙を流し始めた。小屋に着いても泣き止まず、そしてそのまま眠ってしまった。
珍しい見た目をしている。金色の髪は何日も洗っていないようで、脂が固まり、硬くなっていた。額の生え際の一本一本は柔らかい。うすい紫の肌。頬のあざ。手足はすり傷が目立つ。おそらく魔族の人間の間の子供。親を亡くして虐げられたのか。手元に置いてどうする。育てるのか。奴らには関わらない、滅ぼしてやると決めたのに。
毛布にくるまった子供が、寝返りをうつ。
「……かあさん」
それは、やわらかく響く人間の言葉だった。
誰も住まなくなった山小屋を修繕して、妻と息子と、そこで暮らしていた。テーブルには湯気の立った木のコップが二つ。妻が縫い合わせた布で作ったクッションを敷いた椅子。そこに腰掛けて妻は生まれたばかりの息子を抱き、乳を与えている。
「一日中飲んでて、飽きないのか。この子は」
「ねえ。ほんとに」
「これはいつまで飲むんだ?」
「歯が生えて、赤ちゃんじゃなくなるまでじゃないかしら。お乳じゃなくて、私たちみたいに牛乳だって飲むようになるし。かわいい声で呼ぶようにもなるわよ。おとうさん、おかあさんって」
妻は笑って、乳に夢中の子の頬に口づける。
「楽しみだねぇ、ディーノ」
かまどで沸かした鍋が噴きこぼれ、水でも酒でもない、独特の仄甘い湯気が立つ。
「この子をおいてもいいか。ソアラ」
もう何年もかいでいない香りに向かい、バランはひとり、呟いた。
《おわり》