tie clip「行ってくる」とダークスーツと同じぐらい真っ黒な蝙蝠傘を手に出て行った獄を送り出して、十四はパジャマのままリビングへ向かった。
カーテンの開いた窓から見える空はどんよりと厚い雲に覆われている。まだ雨は降っていないようだが、多分今日は一日中このままだろうなと十四はため息を吐いた。
持ち無沙汰に点けたTVからは本格的な夏を前におすすめのレジャースポットを紹介する映像が流れていて、青空とそして太陽が降り注ぐ画は、実際の今の空の薄暗さと大違いにまぶしくて、十四の頭は混乱しそうだった。
今日だって、せめて天気ぐらいはこの映像ぐらい良くてもいいじゃないかと十四は恨めしそうに窓の外の灰色の空を眺める。
今日は六月二十九日。獄の誕生日だ。
何か特別なものを贈りたいと思っていた十四は獄の事務所の職員にそれとなく探りを入れてみたがめぼしいものは分からなかった。空却にも相談してみたが、「あの銭ゲバが欲しがるようなもんなんて一体いくらかかるか想像もしたくねぇ」と全くあてにならない。
結局、素直に獄に欲しいものを尋ねた十四だったが、当の獄から返ってきたのは「ガキが気を使わなくてもいい」という言葉だけで、プレゼント選びは難航した。さらにそれに追い打ちをかけたのは、誕生日当日、獄は知り合いの結婚式に出席するために十四と一緒にはいられないという報告だった。
「六月はジューンブライド、おまけに二十九日は一粒万倍日が重なっててな。祝事に関して験なんてものは担げるだけ担ぎたいもんだからこの日取りは仕方がない」
贈りたいものが決められないだけで内心焦っていたのに、当日一緒にいられないことを知って、「なんで」とショックを受ける十四をなだめるように獄はそう言った。
獄が呼ばれた結婚式の日が獄の誕生日だったのは全くの偶然だということも、獄が「自分の誕生日だから」などという理由で断るはずがないことももちろん十四は分かっていた。
そして、それに勝手に怒ってるのは十四だけであることも、それがいわゆる「わがまま」であることも頭では十分すぎるほど理解していた。
だが心の隅の方でモヤモヤと浮かぶ「ひとやさんの誕生日なのに」という思いがその「分かった」はずのものを覆い尽くしていく。
いつも誰かを助けているヒーローがたった一日の誰よりも祝われるべき特別な日に、別の誰かを祝福するために出かけていく。それがどうしても十四は納得ができなかったのだ。
まだ腹の底に残るやり場のない憤りで沈んでいきそうな気持ちを切り替えようと十四はあえて大きく頭を振った。一日一緒に過ごせないならせめて夕食とかケーキぐらいは。そう思いたったものの、「結婚式でもっといいものをたくさん食べて帰ってくるかもしれない」、「だとしたら食事を用意しても食べてもらえるかどうか」そう思うと一瞬上向きかけた気持ちは坂道を下る自転車のように降下していく。
祝いたい気持ちは強くあるのに、主役のいない今日一日をどうしたらいいのか分からない。
TVから聞こえる夏の陽気を先取りするかのようなテンションで盛り上がるタレントたちの声もただの雑踏のように十四の耳をすり抜ける。
そんな空虚な気持ちでその場に立ち尽くしたまま、呆然と画面を眺めていた十四の意識を引っ張り戻したのは、ガラステーブルの上に置いていたスマホのバイブレーション音だった。
バイト仲間からの着信である。
一瞬僅かに期待した名前でないことに肩を落としつつ、液晶に映る応答ボタンを軽くタップする。
「もしもし」
『十四か?』
いつもなら快活な喋り方をするバイト仲間の声がずいぶん掠れていた。喉や声のケアに人一倍気を遣っている十四は、電話越しでも他人の声の調子が悪いことはすぐに気がついた。
『実は、風邪、ひいちまって……お前が今日だけは絶対休ませてほしいって頼んでたのは知ってるんだが、他の人がどうしても捕まらなくて……悪いんだがシフト変わってもらえないか?』
言葉の途中で痰が絡むような咳が混じる。喉の痛みが酷いのか、息をするのも辛そうだった。
この日だけは開けておきたかったのは獄の誕生日を祝うため。だが祝うべき相手が今日は別の誰かを祝福するために出かけていったのだ。家に一人いたって仕方がない。
「いいっすよ」
何もできない時間をただ無為に過ごすぐらいなら、自分も別の誰かのためになることをしよう。十四は二つ返事で代理を引き受けた。
◆◆◆
バイト先に着く頃にとうとう降ってきた雨で客足は遠のくかと思いきや、目がまわるような忙しさであっという間に時間が過ぎていった。
その間、十四は獄の誕生日のことをすっかり忘れ必死に働いた。
客足がまばらになってきたタイミングとシフトの終わりがほぼ同時で、どっと押し寄せる疲れでふらつく足取りのまま十四はバイト先をあとにする。
いつのまにか雨は上がっていたが地上にはじっとりとした空気が充満していて、袖の下で肌のベタつきを感じる。
朝はあんなことを思ってしまったが、花嫁さんたちは大丈夫だったのだろうか。素敵な式にはなったのだろうか。
雨は止んでも空は相変わらず重そうで、こちらまで憂鬱なため息が勝手に出る。
すると肩から提げていたカバンの中でスマホが震えるのを感じた。慌てて引っ張り出した小さな液晶にはメッセージの着信を告げるタブが表示されている。
差出人は、獄だった。
急いで画面のロックを解除して、メッセージを開く。
『終わった』
たった四文字の素っ気ないメッセージ。けれどもそれは十四にとって何よりも待ち望んだ言葉だった。デフォルメされたブタが「お疲れ様でした」とお茶を差し出すスタンプを押して返信すると、すぐに既読通知が付いた。
電話、しても大丈夫かな。でもまだ誰かと一緒にいるかもしれない。液晶の上でメッセージを送るかそれとも通話ボタンを押すかで爪先の黒い指を彷徨わせていると、突如スマホが振動する。驚いて落としそうになるスマホを手でギュッと掴みながら、獄の名前とアイコンが大きく表示された電話の着信表示をタップする。
「ひ、ひとやさん!?」
『おぅ。今終わった』
後ろからはガヤガヤと人の話し声が漏れ聞こえる。
『お前も今、外か?』
「はい、急遽バイトのシフト代わることになって……あ、でも自分も今終わったんで!」
『そうか。このあと、予定あるのか?』
「え? いや特には……」
結局獄のためにせめて夕食ぐらいは作ろうかという計画も、悩んでいるうちにバイトの代理の件で有耶無耶になっていた。特別な、などと変にこだわらず獄が純粋に喜んでくれそうな、それこそ去年よりは少しいいハムでも用意すればよかったと後悔する。
「だったら、ちょっと付き合ってくれねぇか。一時間後、メイ駅のビルの十二階。来れるか?」
「え、あ、はいっす! もちろんっす!」
「じゃあ、待ってるから」
通話を終えた画面を十四はじっと見つめる。メイ駅の上で付き合ってほしいことって何だろうか。
すぐには思いつかない答えは一時間後には明らかになるだろう。それよりもバイトで崩れかけたメイクを直せる場所を探さなければと十四はメイ駅方面に向けて少し足早に歩き出した。
◆◆◆
ほとんど庭同然の駅ではあるが、その中でも馴染みのない場所というものはやはりいくつかある。今、十四が乗っているエレベーターがそのうちの一つだ。
ターミナル駅であるナゴヤ駅は百貨店や多くの飲食店が駅ビル内に併設されていて利便性が高い。だが十四のようにナゴヤに住んでいると、贔屓の場所というのは街の中のあちこちに出来るので意外と足を向けないものである。
一気に上階へと昇っていく独特の浮遊感を感じながら、ガラス張りのエレベーターから外を眺める。雨が止み、空を覆っていた重たい灰色の雲がうっすら明るい白に色を変えていた。晴れていたら夕暮れに染まるナゴヤの街が一望できただろうなと十四はこの時期の空の気まぐれさを憂う。
「十二階でございます」
目的階到着を告げるアナウンスと共に視線をナゴヤの街並みから開きかける扉に移してエレベーターを降りる。十二階、そして吹き抜けで繋がった十三階はレストランエリアだった。駅ビル上階に飲食店が入っていることは知っていたが、初めて足を踏み入れるエリアに肩に提げたバッグのベルトを強く握りながら十四は獄の姿を探す。
「十四」
声のする方を振り返ると、視線の先に手を挙げる獄の姿があった。朝出て行った時と同じダークスーツに蝙蝠傘、そして朝は持っていなかった大きな白い紙袋を提げている。結婚式のお土産、引き出物というやつであろう。
「おまたせしてすいませんっす」
「いや、時間ピッタリだ。すまんな、バイト終わりに」
チラリと腕時計を見る獄の正面でとんでもないと左右に十四は首を大きく振る。
「とりあえず、どっか入ろうぜ。腹減ってんだ」
え? という十四の声には気がつかないまま、くるりと背を向けた獄は歩きだす。お腹がすいている? 結婚式に行ってたのに? 十四は頭の中にハテナを浮かべるがその間にも獄は一人歩いて行ってしまう。白い紙袋がガサガサと立てる音に我に返った十四は、バタバタと足音を立てながら慌ててそのあとを追いかけた。
「ここでいいか?」
獄が足を止めたのはフロアの一番奥にある喫茶店だった。
道すがら少し高級そうなレストランやいわゆる料亭風の店もいくつかあったがそこは素通りして真っ直ぐここまでやってきた足取りと、獄が選んだのがそういった「良いお店」ではなく、十四もよく知っているチェーンの喫茶店であったことに少し面食らう。
「え、あ、はいっす」
二人で、と獄が指を二本立てながら店員に声をかけるとすぐに店の中へと案内される。
買い物帰りだろう女性のグループ客や、仕事の途中で立ち寄ったサラリーマンなどがポツポツと座ってはいたが、さほど混んではいなかった。
奥のソファ席へと通され、荷物の多い獄にソファを譲り、十四は向かいの椅子に腰掛ける。
チェーン店とはいえカフェほど騒がしくはなく、シックな内装の落ち着いた雰囲気と、座り心地のいい椅子に十四はようやくふうっと肩の力を抜いた。
「お前も、食いたいものがあるなら頼めよ」
「は、はいっす」
獄が差し出すフードメニューを慌てて受け取る。座ったばかりで十四はまだ手も拭いていないのに、獄はすぐに食べたいものが決まったのか、それとも最初から食べたいものが決まっていてこの店を選んだのかという即決具合だった。
正直あまりお腹は空いていないのだがと十四が受け取ったメニューに落とした視線をチラリと上げると、ジャケットを脱いだ獄は閉めていたネクタイに指をかけてそれを少し緩め、ようやく呼吸が出来たかのように短く溜息を吐いた。十四の目は一つボタンを開けた襟元から覗く喉元に奪われるが、獄の視線を感じて咄嗟に目線を下げた。すると下げた目線の先、ネクタイの中心に何か光るものを見つける。
「あっ」
「決まったか?」
思わず出た声に、獄が少し身を乗り出して十四の手元のメニューを覗き込んでくる。
「あ、いや、自分、えっと、アイスティーだけでいいっす」
「別に遠慮しなくていいんだぞ? 飯でも、それこそデザートでも」
「実はバイトでまかない食べてきちゃって、まだそんなにお腹空いてなくって……」
「そうか」
店員を呼び止めた獄は自分の分のハンバーグとコーヒー、十四のアイスティーを注文する。そしてガムシロップとミルクも、と言い添えた。
その間、十四はじっと獄のネクタイを見つめ続ける。
「ひとやさん。もしかして、それ」
店員が離れ、コップの水を半分ほど一気に飲んだ獄の胸元に十四が指を指す。
真っ白なネクタイの真ん中に留まるネクタイピン。朝見送った時には既にジャケットを着て、前ボタンを留めていたので十四はその存在に気が付いていなかった。
「ああ、これか。覚えてるか?」
獄はネクタイを摘み、指先でピンの表面を撫でた。シルバーのシンプルなネクタイピン。先端についた小さな宝石が光を反射してきらりと光る。
「自分が、初めてひとやさんに贈った誕生日プレゼントっす」
覚えていないはずがなかった。十四が一生懸命悩んで、そして獄に渡したものなのだから。
◆◆◆
十四が獄の誕生日を知ったのは、長かった裁判がようやく終わる頃だった。
『ひとやさんってもうすぐ誕生日なんっすか?』
獄の事務所に通ううちに仲良くなった事務員から『もうすぐ先生の誕生日だから、その日はおめでとうって言ってあげて。きっと喜ぶから』と教えられた。
『まぁ、そうだが、この歳になると誕生日とか別に大したもんじゃねぇからなぁ。自分の年齢も曖昧になってきて、わざわざ生まれ年を引き算して思い出さねぇといけないぐらいだ』
獄はそう言って乾いた声で笑ったが、そのとき十四はおめでとうございますの言葉だけでは足りない、自分を救ってくれた恩人の唯一の特別な日に何かしなければ! と使命感が芽生えていた。
大切な恩人への初めての贈り物、学生のお小遣いでは買えるものは限られているだろうが何か特別なものを贈りたいと事務所からの帰り道、十四は一人で百貨店の上階にある紳士服売り場へと足を向けた。初めて訪れた高級感の溢れるフロアで、十四は学生服の自分は場違いなのではないか足がすくんだが、でも獄に似合いのものを選ぶには尻込みしてはいられないと小さな歩幅で売り場へと歩を進める。
縋るように学生鞄の肩ベルトを掴みながらショーケースに並ぶ小物を眺める。自分の財布の中身と貯金箱に入っている全財産を頭の中で合計しながら、無理のない、でも少しだけ背伸びした贈り物を探すが、良さそうと思ったものほど、ゼロが一つ、二つ多い。やっぱり子どもの自分がひとやさんみたいな大人にプレゼントなんてと十四はその度にがっくりと肩を落とす。
『お困りですか?』
すると後ろから声をかけられた。突然のことに十四はびくりと身体を跳ねさせる。
『ああ、申し訳ありません。何かお探しでしょうか?』
『え、いや、あの、その……』
声をかけてきたのは獄よりは歳上で、自分の父親よりは若そうな男性店員だった。背丈は獄と同じぐらいで、少し細身の身体に似合う紺のスーツを着こなし、七三のオールバックに柔らかな笑顔、そして落ち着いた声は優しさと気品に溢れていた。しかし、トラウマのせいでまだ他人が怖い十四は逸る心音に顔を俯かせ、爪が食い込むほど力強く学生鞄のベルトを握る。身体を強張らせ黙り込む十四に何かを察したのだろう、店員はすっと伸ばしていた背筋を少しだけ屈めて俯く十四の顔を覗き込んだ。
『どなたかへのプレゼントですか?』
十四は絨毯張りの床の上を泳いでいた視線をゆっくりと店員の方へ向ける。変わらない営業スマイルで、でもほんの少しだけ困ったような目元が一瞬、裁判のための話を聞くときの獄と重なる。
『あ、あの、大事なひと、に、お誕生日のプレゼントを、渡したく、って』
『なるほど。ちなみにおいくつぐらいの方でしょうか? お父様?』
『あの、三十歳ぐらいで、弁護士さんで、すごく、カッコいい人で……』
店員は十四の拙い言葉にも、一つ一つ大きく丁寧に頷く。
『弁護士の方でしたら普段からスーツをお召しでしょうね。お好きな色など、ご存じですか?』
『えっと、あんまり派手な色は見たことが、ない、かも、っす……黒とか白とかそういうのが多いっす。あ、でもウォレットチェーン付けてるからシルバーとか、好き、かも』
『なるほど、なるほど』
少々こちらでお待ちください。そう言うと店員は少し離れたショーケースの引き出しから何かを取り出すと、それを黒いベロアのトレーに並べて戻ってきた。
『ネクタイピンなどいかがでしょう? 高級ブランドのものやデザインが凝ったものだと少々お値段はしますが、リーズナブルなものもございますよ』
差し出されたトレーの上にはシルバーのネクタイピンが四つ並ぶ。学生の十四に選びやすいようにだろう、ピンそのものだけでなく値札も合わせて見比べられるようにしてくれていた。
ピンはどれもシンプルなデザインの、獄に似合いそうなものばかりで、そして全て十四にも十分手が出せる金額だった。少し話をしただけでこんなにも的確で、そして自分でも買えるものを選んでくれるなんてと、強張り、上がっていた肩が少し降りる。
『どうぞ、一つずつ手に取ってご覧ください』
店員はまたにっこりと十四に微笑んだ。
プレーンなタイプのものから、シンプルだがよく見ると遊び心のあるデザインや、腰元のウォレットチェーンを思い出させるチェーン付きのものなど、そのどれもが似ているようで全く違う。
本当にあとは自分の直感だけなのだろう。
緊張で震える指先で一つ一つ手に取りながら、獄のネクタイに留まっている姿を想像する。
『これ……』
そのうちの一つを手に取った瞬間、小さく声が出る。シルバーのプレートの先端に小さな宝石がついたもの。角度を変えるとその石が自ら光るように輝くのが綺麗だと十四は思った。
『シンプルなデザインなのでどんなネクタイにも合わせられますから、永くお使いいただけますよ』
見惚れるようにネクタイピンを見つめる十四に、少し離れて、見守るように静かに立っていた店員が声をかけてくる。
『永く、ずっと……?』
『ええ。それにカジュアルな場所でもフォーマルな場所でもお使いいただけます。それにこちらに付いた石はいくつか種類がございまして、お好きなものをお選びいただけますよ』
『どんなものがあるっすか?』
『誕生石を選ばれる方もいらっしゃいますし、ただお好きな色のものを選ばれる方もいらっしゃいます。あとは、そうですね、瞳の色に合わせられる方も』
瞳の色。それが獄の胸元に付けられるのを想像して十四の体温がふわっと上昇する。
『じゃ、じゃあこれで!!』
それまで俯き、他者に対して少し陰るような顔をしていた少年が、突然今までで一番興奮した表情を向けるのに店員は一瞬目を丸くする。だが、すぐさま「かしこまりました」と少し頭を下げると今日一番の微笑みを十四に返したのだった。
◆◆◆
あの時に似た体温の上昇を十四は覚える。胸から顔に向かってじわじわと熱くなり、その熱に押し出されるように涙が滲んで視界が歪み出した。
「なんで泣くんだよ」と獄はテーブルの上の紙ナプキンを何枚かさっと取り出して十四に差し出す。
「だってそれ、ぜんぜん見てなかったから……」
それを受け取り、メイクが崩れないように目元を抑えて涙だけを吸わせていく。
黒い箱に入れられたネクタイピンは綺麗にラッピングしてもらい、家で書いた小さなメッセージカードを添えて十四は誕生日当日に獄にプレゼントした。
『ガキが気を使わなくても』と遠慮がちではあったが、『ありがとうな』と受け取ってもらえたあのときの獄の笑顔を十四は忘れない。
戦う強い意志を帯びた瞳が宿る目尻を下げて、「異議あり」と法廷で鋭い言葉で戦うその口を優しく緩ませた屈託のない笑顔。
それまでの会話の中で小さく笑うことはあっても、嬉しそうな笑顔を自分だけに向けてもらったのは十四にとってあの日が初めてだった。
あの笑顔を見た日から十四の獄への想いは「憧れ」から少しずつ変わっていったのかもしれない。
そのあと何度かそのネクタイピンを付けてくれているのは見たが、そのうち見かけなくなった。そして最近はその存在を十四自身忘れてしまっていた。
「あー、そうだな、最近付けてなかったから……」
涙を拭う十四の前で、バツが悪そうに獄は首元を掻く。
「失くしたら嫌だなって思ったら付けられなくてな……」
少し落とした声でそう呟いた獄に、十四は逆に「え?」と店内に響くような大きな声を上げる。その声に他の客の視線が集まるのを感じ、獄はシッ! と十四を諌めると、集まる視線に対して適当な愛想笑いを浮かべた。
「失くしたらって……」
「ネクタイピンって意外と落としたりするもんなんだよ。せっかくお前が初めて俺にくれたもの、失くしたくないだろ」
視線をわざとらしく逸らし、歯切れ悪そうに言う獄の言葉に十四の思考が追いつかない。ただ少し引きかけていた熱がまたじわりと頬と耳を染める感覚がする。
「じゃあ、なんで今日」
「十四、前に『男がフォーマルな場でつけるアクセサリーはあまりいい顔はされない』って話したよな?」
「あ、はいっす」
今、獄の手首で光るカフスボタン。以前それを借りた時に例外として許されるアクセサリーであると十四は教わった。
「許されるアクセサリーはカフスボタンの他にあと二つある。一つ、結婚指輪」
獄はお決まりの口上を述べるときのように、右手の人差し指を上に向けた。
「そしてもう一つ、ネクタイピンだ」
そう言って二本目の指を立てた。
「普段は結婚指輪をしていない既婚者も、結婚式に参列するときは嵌めてくることが多い。まぁ、パートナーがいるっていう意思表示なんだろう。そう思ったら、俺は今日これを付けていくべきなんだろなと思ってな」
そう言うと獄は再びネクタイピンに触れる。シルバーのプレートをなぞり、そのまま先端の青い小さな宝石を親指でそっと撫でた。光を反射した石に僅かに青ではない色が小さく滲むのを十四の目は捉える。
『珍しい石もありますよ』
ネクタイピンに付ける石を選んでいたときに、店員は十四にサンプルの一つを差し出した。
渡されたそのサンプルは青い石のもの。シルバーのプレートにエメラルドを合わせて獄の瞳のようにしたいと考えていた十四は、青はあまり獄のイメージとは合わないのに何故? と怪訝そうな目を店員に向ける。
とはいえ石そのものはとても澄んだ綺麗な色をしていた。十四は光の当たり方で青の色合いが少し変わることに気づき、少し角度を変える。するとその青の奥に一瞬だが違う色を見つけた気がした。
「え? あれ?」
青とは全く違う色。指先で少しずつ角度を変えながら青の中にさっきの色を探す。ゆっくりと光に透かすようにしていろんな角度から石の中を覗き込んでいると、ようやくその色を見つけた。涼しげな青の中に、蕾のような小さなマゼンタが浮かんでいた。見逃してしまう、見失ってしまうほどの小さな色。でも確かにその青の中にそれは存在していた。
『光の屈折で違う色が見える時があるんです』
何度も何度もそのマゼンタを確認するように指先のネクタイピンを覗き込む十四に小さく笑いながら店員は言う。獄にぴったりな、獄の瞳の色を贈るつもりだった十四だが、少し小さな欲が芽生えてくる。
(ひとやさんが自分の瞳の色のものをつけていてくれたら……)
獄には特別なものを贈りたい、でもそこにこんな綺麗とは思えない密やかな想いを乗せていいものだろうか。そんな迷いのまま、視線を天井に彷徨わせる。
『贈り物は、その人を思う気持ちと一緒にお渡しするものですよ』
心の声が聞こえていたのかと思うような店員の一言に十四はどきりとする。自分はそんなにわかりやすいのだろうか。それともこの人がすごすぎるのだろうか。
しかしその一言に優しく背中を押されたような気がした十四は、『これに、します』と小さく告げた。
愛でるようにネクタイピンの青い石を獄が撫でるたびに、十四の心臓は呼応するように脈を打つ。
「本当は、帰ってからにするつもりだったんだが」
そう言うと獄は傍に置いていた白い紙袋の中から、小さな紙袋を取り出して、十四に差し出した。渡されるがままに受け取り、中を覗くと黒い高級感のある箱が入っている。
手のひらよりは少し大きく、だが平たい箱だった。重さはほとんどない。
「開けてみろ」
そう言われて、結ばれていた白い小さなリボンをほどく。指先で掴んだ蓋をそっと外した。
「え?」
今度は小さな戸惑いの声を漏らすと十四は箱から正面の獄の顔を見つめる。獄はサプライズが成功したと満足気に口元を緩ませて十四の顔を見ていた。再び「え?」と呟き十四はまた目線を手元の小さな箱に向ける。
その黒くて平たい箱の中にはシルバーのネクタイピンと、一対のカフスボタンが入っていた。
カフスボタンは獄が袖に着けているのと同じ丸い台座に大文字の「A」がその身体を少し傾けたような形で刻印されている。一回りほど獄のものより小さいようで、華奢な十四の手首で悪目立ちしなさそうなサイズ感だった。
そしてネクタイピン。十四が見間違えるはずがない。今,獄の胸元に光るものと全く同じデザインのものだった。異なるのはその先端に光る石の色。そこには鮮やかなエメラルドが嵌め込まれていた。顔を上げるとネクタイピンの石と同じ緑色の瞳が二つ、十四のことを見つめている。
「ひとやさ、これ……」
「お前の。俺とお揃い」
緑の瞳が満足そうに細められる。
だが十四はますます混乱するばかりだ。自分がこれをもらう理由がわからない。
今日は獄の誕生日だ。プレゼントをもらうべきは獄で、十四の方が獄に何かを渡さなければいけないはずなのに。
「俺が、お前と同じものが欲しかったんだよ」
獄は自分の手首のカフスボタンに触れ、そしてその指を今度はネクタイピンに添える。
青の中に微かなマゼンタを浮かべながらその石は十四を見つめるように小さく輝く。視線を自分の手元に落とせば、今度は目の前の瞳と同じ緑色の石が十四を見つめてくる。
「でも、今日はひとやさんの」
やっと喉の奥から出せた声は獄の人差し指でそっと遮られてしまった。
「いいだろ。誕生日なんだ、俺が欲しいものを好きにしたって。それから、それ、裏見てみろ」
獄が指すネクタイピンを十四はそっと裏向けた。クリップの留め具のついたプレートの先端、ちょうど石の裏側にあたる部分に何かが刻印されている。目を凝らしてようやく見えたそれは、カフスボタンと同じ字体の「H」の文字だった。
十四が贈ったネクタイピンに込めた本当の想いは獄に語ったことは一度もない。獄にこのネクタイピンを送った時も、『青いものをもらうのは意外だが、綺麗だな』と言った獄に十四はただ、『ひとやさんに似合うと思って』としか言わなかった。
だが今、獄から渡されたこれに十四と同じように自身の瞳の色の石とその後ろにイニシャルの一文字を添えられているのはもう、そういうことだろう。
ひっそりと込めたはずの想いが気づかれていたという数年越しの気恥ずかしさとそれに対する獄からの「答え」に十四の胸は詰まり、それ以上はもう何も言えなくなってしまう。その代わりに溢れ出した涙はもう簡単には止められないだろう。十四は小さな箱を胸元に抱き締めて、「ありがとう、ございます」と呟いた。
獄の頼んだハンバーグセットと十四のアイスティーが運ばれてくる前になんとか涙だけは止めることができた十四だったが、テーブルの上に散らばるぐしゃぐしゃに丸められた紙ナプキンを黙って回収してくれた店員の目が獄に対して少し冷たかったのは申し訳ないと思った。
色も匂いも濃厚なデミグラスソースがかかったハンバーグは喫茶店のものにして肉厚で、獄がナイフで半分に切るとさらにその匂いが広がる。目の前から漂ってくる美味しそうな香りに、空腹ではないはずだった十四の胃はギュッと微かに鳴った。
「そういえば、ひとやさん、結婚式でお食事してきたんじゃなかったんすか?」
「ああ、お前はあんまり経験ないかもしれねぇけど、結婚式の食事ってモノはいいが、量が少ないんだよ」
獄は四等分したハンバーグの一切れを頬張った。丸呑みするようなその豪快さは見ていて気持ちが良く、喉を潤す冷たいアイスティーだけでは自分もやはり物足りないかもと十四の目はちらりとフードメニューに向く。
「朝メシも食いそこねてたから、余計足りなくてな。今やっとまともなもの食った感じがする」
「え、朝ごはんも食べてなかったんっすか?」
今朝、完璧に身支度を終えた獄に起こされて目覚めた十四は、朝食を抜くほど慌てた様子は全く感じなかった。昨晩も日付が変わってすぐにお互い就寝したので寝不足というわけでもなさそうだったのにと十四は残り少ないアイスティーを啜る。
「……寝てるお前の顔見てたら、時間がなくなったんだよ」
ズズッと空になったグラスの底からストローを抜ける空虚な音が鳴った。続けて溶けた氷が崩れてカラリと音を立てる。
呆然と十四が見つめる先で顔を逸らす獄だが、その耳の先は赤く染まっていた。
さっきのあのプレゼントのときはそんな様子一ミリも見せなかったくせにと謎の憤りとどれほどの時間寝顔を見られていたのだろうかという羞恥心で十四の顔も火照りだす。
「す、すぐ起こしてくれたら良かったじゃないっすか! だったら自分、ひとやさんの朝ごはんぐらい準備したのに!!」
「起こすタイミングが分からなかったんだよ……」
はぁっとため息を吐いた獄は残りのハンバーグを口に運び始めた。これ以上この話題について話すのは分が悪いと思ったのか、咀嚼して飲み込むとすぐに次のものを口に入れ、黙々と皿の上のものを浚っていく。
十四は結露で濡れたグラスを両手で包むようにして持ちながらそんな獄をただじっと見つめるが、頭の中では「なんで黙って寝てる自分のこと見てたんだろう」「タイミングってなんだろう」という疑問だけは残っていた。
するとキュルルっと十四の腹から小さな虫の鳴き声がした。皿の上がほとんど終わりかけの獄に対して十四はハハハ……と申し訳なさそうに笑う。
「やっぱり腹減ってんじゃねぇかよ。デザートでもいいから何か食えよ」
広げて渡されるフードメニューには、パフェや、アイスクリームの乗ったふわふわのパンケーキの写真が載っている。どれもこれも美味しそうで目移りしそうになる。だが、
「いや、やっぱりやめとくっす」
パタリとメニューを閉じる。
「腹鳴らしてるくせに、今さら何遠慮してんだよ」
揶揄いがちに言う獄に十四は首を振った。
「ここでは食べないっす。その代わり、このあとお互い好きなケーキ買って帰りましょう? 今夜はそれ食べるんっす。二人だけで」
お互い今日は別の誰かのために時間を使った。せめて残りの時間ぐらいは獄と二人だけで過ごしたい。たとえケーキがささやかだとしても。
ね? と微笑む十四に、獄は少しだけ目を見張る。そして「ああ、いいな」とだけ呟いてコーヒーに口をつけた。
そう呟いたとき、カップで口元が隠れるまでのほんの短い瞬間だったが、獄の微笑んだ顔に十四の胸がトクリと鳴った。
ネクタイピンを渡したあの時の、頰がゆるみ、目尻を下げた獄の嬉しそうな笑顔が一瞬だがそこにあったからだ。
テーブルの上に置いたままのネクタイピンとカフスボタンが目に入る。これが似合う服はどんなのだろうか、今度の休みの日に二人で探しに行ってもいいな、そしてそのあとその服を着て出かけられたら――
『永く使っていただけますよ』
あの日のあの店員の言葉を思い出す。
自分も永く、これに込められた想いを大切にしていきたい。
指でそっと緑の石を撫でると、十四は静かにその箱を閉じた。