あの時の放物線 大丈夫、あれは絶対入る。
堀田が痛いくらい拳を握りしめ見つめる中、三井が放ったボールはきれいな弧を描いてリングに吸い込まれていった。鉄の輪にぶつかることなくまっすぐボールは落下し、堀田の耳にはボールがネットを揺らす音がはっきりと聞こえた気がした。
あまりに完璧で美しいフォームに体がぶるりと震える。それは堀田以外の誰もが思ったようで、さほど広くない体育館の中は一瞬の静寂の後、大歓声が湧きあがった。隣で観戦している桜木軍団はペットボトルをガンガン鳴らし、堀田の後ろで応援する仲間たちも三井の名を力の限り叫んだ。
自分の名を呼ぶ声が聞こえているのはずの三井は試合に集中しているのか、堀田たちの方を見向きもしない。そりゃそうだろう、その一瞬の隙をついて相手は攻めてくるのだから余所見は禁物だ。そうこうしているうちに相手チームから赤木がボールを奪い、パスを受けた流川がドリブルで疾走し、観客の意識も試合に戻っていった。
堀田はさっきのシュートフォームにいつか見た三井の姿を思い出して目頭が熱くなった。いつか見たあのきれいなフォームを本来あるべき場所で見られる日が来るなんて、これっぽっちも思ってなかったからだ。
いつだっただろうか、学校をサボってみんなで公園に屯っていたあの日。その公園は年季の入ったバスケットゴールが設置されていて、偶然にもバスケットボールが一つ、置き去りにされていた。
仲間の一人が興味深げにそれを見て拾い上げた。滅多に出ない体育の授業でやったバスケットの真似事をしようとボールをついてみるが、空気が減っていて思うように弾まなかった。苛立ったそいつが舌打ちして投げたボールは鈍く跳ね、意志を持つかのように三井の前まで転がり止まった。
俯き加減でボールを見る三井の表情は長い髪に隠れて堀田には見えなかった。それでも楽しそうでないのだけはなんとなく伝わって、声をかけるのは躊躇われた。三井はしばらくボールを見つめていたが、学ランの上着を脱いで放り投げるとボールを拾い上げた。
ボールを持つ三井はなぜか緊張しているようだった。一度ボールを地面につくも低く跳ねたので慌てて拾い、ボールを触って硬さを確かめたりクルクル回している。
老朽化の進んだバスケットゴールは木製のバックボートが反り返っているだけあって、リングに汚い紐が引っかかっているだけという風情だ。そんなゴールに三井は歴戦の猛者と対峙するような雰囲気でボールを構えた。
バスケットのルールなんて堀田は知らない。リングの中にボールを入れれば点が入るのと、ボールを持って走ってはいけないくらいしか覚えていない。そんな堀田でも三井からゴールまでの距離はかなり遠いと思った。ドリブルができないボールは放り投げるしかできないのはわかるが、それにしたって遠すぎる。もうちょっと近づいてから投げればいいのにと、消えかかった大きな半円の外側にいる三井の姿を缶ジュースに口をつけながらぼんやりと見ていた。
(バスケ部……だったんだっけ)
ボールを持つ姿がサマになっているのはど素人の堀田が見ても一目瞭然だった。
三井は自分のことをほとんど話さないから、自分たちとつるみだす前に何故バスケを辞めてしまったのかは知らないし、堀田も別に昔のことなんか知りたいと思わないから聞いたこともなかった。
ただ三井の言動からそうなんじゃないかと想像するだけだ。
堀田の知る三井寿という人物は、仲間に分け隔てなくしゃべり付き合いもよく、それでいて隙だらけで、なんだか放っておけない危うさがあった。行儀も良く割と常識があるので、素行が悪くなったのはきっとごく最近なんだろうと堀田は思っている。
意を決したのか、三井はボールをしっかり持つと頭二つ分くらい体を沈めまっすぐ足を伸ばしてジャンプをした。胸の辺りに持っていたボールはジャンプと同時に高く掲げられ、ゴールに向かって放られた。きれいな放物線を描いてボールは飛び、手足が伸びた状態で宙に浮かぶ三井の時間だけが止まっているようだった。
なんてきれいなんだろう。
何度も言うが堀田はバスケットボールに詳しくない。なにが良くてなにが悪いかなんてわからないのに、三井のフォームは完璧だと思った。これ以上きれいなシュートフォームなんて存在しない。理由は説明できないけれど、絶対そうだ。と同時に、この姿はこんな寂れた公園のバスケットコートではなく、もっとちゃんとしたところで見るものだと思った。
完璧なフォームに見惚れていたせいでボールの行方を追っていなかったが、仲間たちの騒ぐ声でボールはゴールに入ったのだとわかった。そもそもあんなきれいなフォームで投げたボールが入らないわけがない。三井さんナイッシューだのスリーポイントだのはしゃぐ声をよそに、三井は左膝を押さえてかがみ込んだ。
「三ちゃん!」
堀田は飲みかけの缶を放り投げて三井の元に駆けた。「なんでもねぇよ」と制する手を無視してオロオロと三井の周りをうろつく。
「久しぶりに大ジャンプしたからな、膝に響いたわ」
「痛いの? 痛いの、三ちゃん」
「いや、全然痛くねぇ。ちょっと変な感じがしただけだ」
そう言う三井の顔は今にも泣き出しそうなほど歪んでいて、堀田は三井が自分達といる理由がなんとなくわかってしまった。
「あれ、あんた泣いてんの?」
隣に座っていた水戸洋平が訝しげな声をあげて堀田の顔を覗き込んだ。堀田は「見んなよ」と小さくつぶやいて顔を背け、「炎の男 三ちゃん」と書かれた旗の端で涙を拭った。
「なぁ、さっきのミッチーのシュートさ、すげぇきれいだったな」
コート上のボールを目で追いながら水戸が話しかけてくる。「すげぇ」に籠る感情が、この男にしては熱がこもっている。
「ほんっと、……まぁ、しょうがなかったんだろうけどさ。それにしたって勿体無いことしたよね、あのヒト」
勿体無いという言葉が三井のバスケットから離れていた期間を指すのだと思って、堀田は唇を噛んだ。三井が自ら選んでバスケットに背を向けていたんだとしても、三井と出会い、共に過ごした二年間を否定されたような気持ちになった。
水戸はそんな堀田の考えを慌てて否定した。
「おいおい誤解すんなよ。ミッチーのグレた二年間が勿体無いって言ってんじゃないよ、俺は。バスケ部襲撃して自分のバスケ人生をも全否定しようとしたことを言ってんだよ」
「じゃあ、お前は三ちゃんの二年間をどう思ってんだよ」
「そりゃバスケットマンとしては停滞だろうさ。でも一人の人間としては必要な期間だったんじゃねぇの?」
堀田は耳を疑った。今、必要な期間って言ったか?
「必要な期間だろ。折れた心ってそう簡単に治んねぇよ。しかも外から見えないんだし。ミッチーの挫折は人によっては大したことないのかもしんないけどさ、ミッチーがバスケ続けられなかったんならそれは深い傷なんじゃないの?」
「そう、だな」
知ってる。それはそれは深い傷だった。堀田たちと楽しそうにしていても、三井はいつもどこか悲しそうだった。
「だからって自分がバスケできないなら全部壊してやるって思考には賛同できないけどな。まぁそんな歪な形でも、背を向けたバスケットに関わろうとするまであんたがそばに居てやったんだろ?」
水戸は歯を見せにかりと笑うと、堀田の背中を力一杯叩いた。あまりの馬鹿力に一瞬息ができなくなり、ゲホゲホと咳き込んでしまった。
「ほら、ちゃんと見てやんなよ。あんたが支えた暗黒期を乗り越えたヒーローをさ」
むせこみ涙が滲む視界でコート上にいる赤の十四番を探した。ちょうど宮城からボールを受け取り、一旦スリーポイントのラインに下がろうとしている。
「みっちゃ……」
心臓が早鐘を打つ。もし外してしまったらと思うと目を瞑りたくなる。そんな自分を叱咤して、拳を握りしめた。
頑張れ、頑張れ三ちゃん。いやもう十分頑張ってる。堀田は神様なんてこれっぽっちも信じてないけれど、この瞬間だけは敬虔な信徒のように祈る。どうか三ちゃんのシュートを成功させてください、と。
じっと見つめる間もなく、三井はすぐにボールを投げた。何度見てもきれいなフォームだ。ボールもあの時見たのと同じ放物線を描いてリングに吸い込まれていった。
「また入れたぞ!」
「おおお! ミッチーすげぇ!」
同点を決めたシュートにまた歓声があがった。堀田も負けじと声を張り上げてエールを送る。
「みっちゃあぁぁぁぁぁぁん!」
堀田の声に応えるように、目の前を走る三井の右腕が上がった。高く突き上げた拳を見て、堀田は水戸の言葉を思い出した。
己の弱さと罪から目を逸らさず、後悔を抱えながらもがむしゃらに前を向いて走っていく三井の姿は、やり直せない人生はないんだと堀田に教えてくれる、かけがえのないヒーローに違いなかった。