二〇〇七年
その日は随分と穏やかな日だったように思える。
関東地方でも寒さが一段と厳しかった冬を超え、段々と温かくなりかけた早春のことだった。
毎日のように聞こえていた賑わいの音とそれに混じる喧噪の音はここ数日の春雨にかき消され大人しく落ち着いていた。
本家からの緊急招集で開かれた幹部会。突如開かれることとなったこの会合に顔を突き合せたメンツはほんの少数である。急遽連絡が繋がり動ける幹部組員が少なかったということもある。そして会長の不在。その穴埋めを就任して間もない本家若頭である柏木が担う事となった。
元々本家での仕事があったため赴くことは都合の悪い話ではなかったのだがこの土砂降りの雨だ。車で向かうとはいえこれだけ降られては気が滅入る。頭の隅でどこか憂鬱と嘆く自分がいた。
カーステレオから流れるラジオニュースの音に耳を傾けながらこれ以上酷くならなければいいのだがと柏木は声に出さずそう呟いた。
天気予報を伝える女性アナウンサーは今後は天候の悪化が見込まれると報じている。どうやら予想は的中しそうであった。
次第にぽつりぽつりと泣き出した空が目の前の世界を濡らし始めていた。暗くなりかける様を車窓越しから眺め小さく息を吐く。首都高を抜け側道に出ると脇道へ入り、徐々に塀に囲まれた敷地へと進んで行けば門構えの前で車は停車する。
傘を開いて差し出してくる子分にすまんな、と声を掛け車を降りた。そのまま傘を受け取ると敷地へと足を踏み出す。
「お早い到着やな、柏木さん」
その声に顔をあげれば先に到着していたのであろう真島の姿が視界に映りこんだ。子分は居らず一人黒い傘を差している。
「いつもギリギリにくるだろ」
どういう風の吹き回しだ、と柏木が問えばニシシと笑って真島は屋根の下に入り傘を閉じ柏木の隣に並んで歩いた。ワインレッドのシャツに黒のスーツとネクタイ、足元はお馴染みのクロコ柄の靴だが如何にも余所行きの服ですと言わんばかりの姿に思わず見惚れる。こんな服も着れるのかと口に出そうになるのを堪え視線を逸らすように真島の顔を見た。
「組を持つ以上それなりの振る舞いでいるだけや、別になんでもあらへん」
「とてもそうは見えないが」
とは言っても少々目立ちすぎるぐらいの色合いだ。再度上から下まで流れるように横目にその格好を追う。彼に合っているのは事実なのだが幹部会において正装で来るとは珍しいこともあると柏木は思った。堅苦しい場においては誰よりも楽に居たいと考えているであろう彼がここまでするには理由があるのか、それとも特に何も無いのか。
「まぁ、でもたまにはええやろー?イメチェンや、イメチェン。」
そう言ってキャッキャとはしゃぐ真島にふっと思わず呆れたと言わんばかりの苦笑を溢した。
こんな時に大吾がおらんのは痛手だとか、俺らだけで終息する話やないとか、口の軽い割には真っ当なことを言う。それに対し柏木も最終的には大吾の判断に任せると答えてやはり自分の考えすぎかと真島との会話を確認した。特にこれと言って変化があるわけではないが先ほどから彼に対して何か引っ掛っている。そんな人の心配を他所に当の本人は頭の後ろで手を組み天井を見上げながら大きくため息を吐き出していた。
西側の会議室へと集められた各々は既に腰を収めていた。柏木の横を通り抜けるかのように真島は掃け空いている椅子の前で立ち止まる。上座へと柏木が腰を下ろすのを見届けて真島も続いて座った。これで全員かと室内を見渡し各々に目配せをすると柏木は本題を切り出した。
議題は大事でないが早急に収束し対応する必要があった。真島の言う通り六代目が居ないことには収まりがつかないのは目に見えていたことだが真島がこの場にいることによって事を荒立てようとする輩が声を上げにくい状況にあることは分かっていた。
その甲斐あってか無駄吠えする奴は居らずスムーズに進行することができ、収束はしていないがもう一度この件に関して幹部会を開くことは無さそうだと解散の合図を告げる。
組員が各々が腰を上げていく中その場に座ったまま頭に残っているうちに箇条書きでもいい、何か残しておかなければとペンと紙を取り出した時。
「そんなこと補佐に任せたらええやないか」
頭の上から声が降ってくる。顔をあげれば真島が後ろに立っていた。
「補佐って、お前がやってくれるのか」
「まぁ、何となくは覚えとる。貸してくれるか」
意地悪気に言ったつもりだったが冗談ではないと思ったらしく、そのまま真島は柏木の手元からメモ帳とボールペンを受け取ると書き始めた。立ったまま小さい紙にペンを滑らすその姿に器用だなと柏木は感心する。
「こんなもんでええか?」
「おぉ、ありがとな」
てっきりあの場では一言も口を開くことは無かったので、失礼ではあるが何も聞いていないのではと思っていた。
「ほぼ暗記だな、レコーダー要らずで助かる」
「そんなことないで、覚えてる限りのことや」
要点だけ纏められたそれにもう一度目を落としているとレコーダー準備する気もないやろ、と突っ込まれ笑われる。そうだな、とそれに吊られるようにこちらも笑えば真島も更に顔をくしゃりとさせ、ひゃっひゃっとツボに入ったように笑いだした。
「あー、おかしい」
椅子の背を遠慮がちではあるが叩きながら、ひとしきり笑ったあとで目頭を押さえそう呟く。
「別件で話があるんだがこの後時間あるか?」
「んー、何もあらへんし、ええで。その前にちょっと一瞬だけ席外してもええか?すぐ戻るから」
「おう、待ってる」
そう言って消えゆく背中を扉越しに見送ると柏木は深く息を吐いて天井を見上げ数拍し、そしてゆっくりと目を伏せた。特別、問題があるわけでも無かったし、無さそうであった。ただ払拭しきれない引っかかりだけが喉を越さないでいる。
「気のせい、ならいいんだがな」
音に乗せても何が変わるわけでも無いが、引っかかるそれにごちるしかなかった。
◆
直系の組の組長、神室町ヒルズの建設事業、本家の若頭補佐、まさに二足の草鞋ならぬ三足の草鞋以上の仕事をしている。建設事業に関しては直接現場に赴くことは少ないがそれでも社長という肩書きがあるため相応の事はしないといけない。本家の若頭補佐に関しても同様であった。本家に足を運ぶことが倍以上に増え書類やらのデスクワークが中心となっていた。紙の書類ならまだしもパソコンの画面とも睨め合うことが続けば疲労も溜まっていくわけで、慣れない作業がいつかは過労となり体調不良を起こすだろうと覚悟はしていた。
あの人に比べれば大したことない、と自分を非難しつつ昼も夜も関係なく缶詰めに近い状態で動き回る、まさにそんな日々だった。
薄暗い天気に早朝から目が冴える。
気怠い身体に鞭打ってベッドから無理やり起こし、今日の予定は朝から特に何も無かったと記憶しているがどうだったか、と半分覚醒しきっていない頭を回転させる。その時だった。携帯に着信を知らせるバイブレーションの音が部屋に響く。ヘッドボードに置いたそれに手を伸ばし画面を見ると「西田」の文字。
「おー、なんや……」
自分でも分かるほどの低い声が出てしまったようだ。吃るような声とゴクリと小さく息を飲む音が聞こえたような気がしたが急ぎの内容によってかき消される。
「おはようございます、親父。先程本家から連絡がありまして緊急で幹部会を開くそうでその連絡を」
「ん、そうか。で、時間は」
「午前十時からと」
時計を見れば七時、約束の時間までは三時間。本家に顔を出すのであれば少し余裕を持っておきたいのと、一度組に寄って様子を見てから向かいたい、それなら今から支度しなければ。
「分かったわ、一回そっちに寄って行くわ」
「お疲れのところ本当に申し訳ないです」
通話を終え携帯をそのままベッドの上へ自分の横へ投げる。カーテンが少し開いた窓から見えた空は今にも降り出しそうだった。傘差すの面倒くさと溜息を吐く。その自分の呼気の熱さに気付かないふりをして上体を起こしたまま猫が背伸びをするかのように前屈みに倒れる。
あー、と小さく声が漏れる。
大丈夫、いつものだと割り切って何とか覚醒した重い身体を動かし裸足のままベッドを抜け出すと赤のシャツを手に取り袖を通した。
組に顔を出してそのまま本部へ向かおう。西田たちも忙しいだろうから行きだけ頼んで帰りはタクシーで適当に帰ろう。あとは適当に指示を出して、困ったことがあれば電話するよう命じて、まあ出るかは分からんけど。
そんなことをぐるぐると考えながら増すばかりの不調に何度目かの溜息と共に舌打ちをし、身支度を整えた。いつもは付けても気にならない整髪剤の匂いさえ鬱陶しく感じる。胃に入る気配のない朝ご飯を食べずに部屋を出て、そして現在に至る訳だが。
これは本当にヤバい、と自覚したのは今程というわけではないが本当に限界だと脳が警鐘を鳴らしている。
目の前の視界はブラックアウト寸前で、耳の奥は砂嵐のようにザーッと耳障りな音で満たされており音さえ拾えない。
柏木に呼び止められた時まではよかったのだ。会議中も冗談を混じえ笑い合っている時もそこまで不調を感じていなかったのだが、一人になったと同時に襲ってきたそれに思わず対処し切れず壁に寄りかかってしまう。
普段は組員が入れ代わりで行き来している廊下は珍しく他の人の気配は感じられない。誰にも見られていないことに安堵するが悠長にしている間はなかった。
「く、っそ……」
舌打ち。自然と呼吸が浅くなる。目を瞑りふぅふぅと息を繰り返し、何とか落ち着いたタイミングを見計らって壁から身体を起こした。
近くに柏木がいるということを頭に置いていなかった自分を恨んだ。少しでも遠くへ、見つかるわけにはいかないと力を振り絞り足を動かした。何とか廊下の曲がり角、死角になる場所へと辿り着いた頃には膝から身体から力が抜ける感覚がした。
平衡器官が上手く機能していないのか自分は傾いていると気づいた頃には意識が闇に吸い込まれそうになってからだ。危ないということも痛いということも何も分からない。
既に限界は超えていたようだった。
◆
一瞬と言って離れていった真島の姿が見えなくなって夕に十分以上は経っている。
「何してるんだ、あいつは」
どこかで油を売っている訳でもないだろう。こちらも急いでいるわけではないがあまりにも遅い戻りにそう呟いて探しに行くかと柏木は腰を上げた。
廊下を出てすぐ、視界に誰かが向こう側へ歩いているのが見える。
「真島?」
下を向いていて後頭部では分かりにくいが赤の襟元が見えた。真島だと確信した瞬間、柏木の脚は地を蹴っていた。
大きく揺らぎ膝が床につきそうになる寸前のところでその身体を抱きとめる。ドタンと派手な音を立ててしまったが真島を地面に落とすことは何とか免れた。柏木の腕の中に収まった状態で支えている。
「あちぃな、おい真島っ」
支えた身体から伝わる体温が異常な程の熱さで、思わず眉間に皺が寄る。直前で抱いたため頭を打たすことは無かったが万が一のため揺らさないように名を呼ぶ。 顔を顰めたまま声掛けに反応を示さない。意識を失っているのか、それでもどこか苦しそうな顔色に柏木は不安を募らせる。特に外傷は見られず、熱があることから体調が悪いのかと思案していた時だった。
何の騒ぎかと駆けつけてきた組員が慌てふためきそうになるのを宥めて、一旦寝かせられる場所へ移ろうと柏木は真島を抱える。ゆっくりと歩みを進め近くの応接室へ入るとソファにその身体を横たえた。
上着を脱がせネクタイを解くとシャツのボタンを上から二つほど開けきつくない様にしてやる。傍らで片膝をつくように屈み様子を窺っていると閉じていた真島の瞼がゆっくりと開く。
「柏木さん……っ」
「大丈夫だ、俺とお前しかいねぇ。少し休め」
細く呼ばれた名前とともに 起き上がりそうになる身体を制す。ん、と小さく呟いて瞼の奥に光を閉ざしどうするか、と思案する間もなく柏木は自分の携帯を取り出す。
組の者を迎えに寄越そうとしたが真島組が繁忙期であることは知っていた。
親父のことで何かあればいつでもと真島組の者に託けられていたがそんな現状だと流石に気が引けた。念の為、真島組には連絡をと思い携帯を開くが真島本人以外の登録をしていなかったことを思い出し、舌打ちと同時に溜息を吐く。
仕方なく真島の着ていた上着を拝借しポケットを漁るとそれはすぐに見つかった。ロックがかけられていなかったことに安堵し手慣れた手つき画面から電話帳を開く。何度かボタンを操作し画面をスクロールした先にあったマ行の欄、その先頭に「真島組」と登録された番号を見つける。わざわざこちらの携帯からかけ直すのも面倒でそのまま通話ボタンを押す。ワンコールが止んだ直後に組員の声がした。電話越しの相手はかけてきたのが真島で無いこと、その相手が柏木であることに悲鳴に近い声を上げていた。
改めて西田と名乗った男に真島の今の現状を伝えると切羽詰まった声で『今から迎えに行きます』と言われた。きっと今頃頭を抱えているに違いないだろう。「忙しいだろうからそのまま送る」と柏木が言えば数秒の沈黙の末『すみませんが、親父をお願い致します』と懇願された。電話越しで何度も頭を下げている光景が目に浮かぶ。苦笑気味に「大丈夫だ」と告げれば『本当にありがとうございます』と何度目かの丁寧な謝罪。
長話も何であるがこの際だからと柏木は真島に聞けなかった疑問を問いかけた。
「今朝は送迎しなかったのか」とそう問えば『親父には行きの車だけでええって言われたので』と困惑気味に返ってきた。行きの送迎はしたらしいがそう命じられたので引き返したとのことだった。それほど少数であっても組員動かせる余裕が無かったということだろう。
大体の現状は分かった。通話を終えた真島の携帯を元の上着のポケットの中に戻した。
「お前、立派に親やってんだな」
汗で張り付いた前髪を掬ってやりながら小さく呟く。真島の横顔を眺め何となくあの日のことを思い出す。あの頃の青臭さはない。そこには組の長を務める者としての信念を浮かべている顔立ちがあった。
自分の組にも迎えはいい、と連絡をしタクシーを呼んだ。酒を飲んでいる時ならまだしも不調の時ぐらい下っ端には弱っているところなど見せたくないだろう。人の上に立つ者ならそうだと思う。
心配した組員が様子を見に来るが問題ないと適当にあしらい変わりにもう時期戻るであろう会長への伝言を預けた。若頭と若頭補佐が不在となる。会長の戻りまで多少時間を空けても問題は無いだろうが念の為だ。
◆
「柏木さん、こちらに来るって言ってましたよね」
事務所の仕事がひと段落ついたところで大吾から連絡があった。何かあったかと聞き返す間もなく、話を切り出した大吾に柏木は疑問符を浮かべるが大吾の口ぶりから喧嘩や争いが起こっている感じでは無いことは確認できた。
「あぁ、もう少しで片が付くんでな、もうじき神室町から出れると思うが」
日頃の労いも兼ねて会食を開きたいと大吾から相談があった。忘年会とまでは大きくはいかないが、年の終わりということもあり今後忙しくなることを見越して十二月早々にと段取りを組んでいたものだ。
「もう大分飲んでいるのか」
「俺はそこまでではないんですが、幹部連中はかなり出来上がっていますね」
場所は神室町から近い都心部のためタクシーで向かえばそう時間はかからない。幹事から送られていた住所でタクシーを降りると、門構えに何度か親と食事会に出席した際に訪れたことがある師店和風料亭。提案は大吾がしたとは思うが意外な選定に。店に入った瞬間に奥から出てきた中居に通された座敷の戸を開く。電話の話通り既に出来上がった連中で賑わっていた。
畳に上がるため靴とコートを脱ぎかけた時、奥にいる大吾と目が合う。ちょっとすまないと席を立ちこちらに駆け寄り小さく耳打ちされる。
「真島さんが席を外したまま帰ってこないんです」
そう言われ改めて室内をぐるりと見渡せば確かにそこに真島の姿はなかった。
「数十分は姿を見かけていませんので、お手洗いだとしても遅すぎるかと」
「分かった、少し様子を見てくる」
大吾がお願いしますと頷くのを確認して柏木は中居に場所を聞いて店のお手洗いへと向かう。トイレの個室は一つしかなく今晩この店は東城会の貸切となっている。
個室の中からは物音一つなく店内に流れる和の音だけが静かに鳴っていた。外の空気でも吸いに行っているのかとお手洗いには居ない線も考えたが、大吾に聞いた真島の様子から察するにそれは無いと否定。
やはりここしかないと深く息をついた時、個室の中から何か鈍い音が聞こえた気がする。ドアに手を伸ばし試しに引いてみると鍵はかかっていないようで小さく音を立てドアが開く。そのすぐ側には壁に寄りかかるように座り込んでいる真島の姿があった。
「真島、大丈夫か」
名前を呼び軽く揺すると伏せかけた顔がゆっくりと上がり、顔を覗き込んだ柏木を捉える。ドアが背中に当たるのも構わず身を屈めると柏木は真島の背に手をかけた。
「ちょっと飲みすぎたみたいでな、酔ったみたいやねん」
上げられた顔色は随分と優れないように見えた。少し乱れている呼吸と合っていないような焦点から本当に吐いていたのかと柏木は便器の中を横目に確認するが吐かれた形跡は無く水面は綺麗なままだ。先程から不自然にも噛み合わない真島の挙動にどこか違和感を覚える。
「なに、大丈夫やねんって」
じっと見つめた真島の瞳は揺らいでいるように見えた。何も言わない柏木に真島は不安を募らせる。それを払拭するように会話を続けようとした時だった。
「つめたっ……」
真島の肩を支えていた柏木の手が額に伸びる。額に触れるとかなりの熱さを持っていた。酒のせいではない、それ以上の体温の高さでそりゃしんどいだろと心中で愚痴を零す。
「お前が熱すぎるんだよ」
額に当てられた手を振り払う事なく力無くこちらを見つめ否定を投げかけようとする真島にこの期に及んでかと眉間に力が入る。
「それは、飲み過ぎたからで。大丈夫やねんって、ホンマにっ」
「無理すんな、馬鹿。大丈夫大丈夫てお前、そんな熱で平気な訳ねェだろ」
怒号が散る一歩手前、声はなるべく抑えたがそれでも大きすぎたようで顔を上げた真島は驚きと悲痛の表情を浮かべている。思わずやってしまったと柏木も大きく息を吐いて目頭に手を置く。
ゆっくりと真島の方を見れば視線があった瞬間にビクリと肩を震わせ項垂れる様に俯いてしまった。
「どこか辛いか」
ゆるりと首が降られ否定を示される。大丈夫と消え入りそうな声で呟くように発し、そのまま完全にこちらに身を預けるように倒れかかってきた身体を抱き止める。
「あー……、悪かった、調子悪いのに大きな声を出して。その、心配だったんだよ。」
そう背をぽんぽんと撫でながら宥めるが昨日よりも上がっている熱に正直不安を隠せない。緊張の糸が解けたのか力の抜けた身体が震えている。
「ちがうんや、違う、俺が悪いんや……」
「すまねぇって」
「柏木さんは、何も悪ない。おれが、ちゃんと言わんかっただけや」
違うと繰り返しながら縋るように柏木の胸元でそう呟く。
謝罪をしなければいけないのは此方なのに、今の真島には普段なら伝わるであろう少しの綾さえ伝わらない。
ぽろぽろと涙を溢し嗚咽を堪え震える背中をあやすように撫でてやる。しゃくりあげるような呼吸が次第に大きくなって柏木の耳に届く。
抱き止めた時に確信していた。こいつは絶対酒は飲んでいないと。分かってはいたが敢えて口に出さなかったのは真島に自分の不調を認めて欲しかったからだ。
直球に言葉を返したとしても自分が悪いと非難し、周りの声を聴ける状況でなく、よほど追い詰められていたのかた頼ることをしなかった。いや、出来なかったのかもしれない。気づいてやれなかったこと、そこまでさせてしまっていたことが悔しかった。
そう思ってしまえば奥歯がぎりっと音を立てて軋んだ。